8.思い出
セイトは食事の片付けを終えると、城の中で自分の部屋と決めた場所へ戻った。
彼女が、なぜ気分を悪くしたのか。
なぜ、死にたい理由だけは口にできなかったのか。
その理由に、ある程度の見当はついていた。
けれど、それが本当に正しいのかを確かめる術はなかった。
だが、今も昔も、彼女の中に自分の存在が残っているのかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥から抑えきれない喜びが込み上げてきた。
かつて僕は、雫という名で彼女の隣にいた。
飲食店のバイトをしていたが、女性絡みのいざこざに巻き込まれ辞めざるを得なかった。
そして、新たにバイトを始めた先で、彼女の母親に再会したのは、本当に偶然だった。
それから、彼女の母親とは顔を合わせるたび、少しずつ話すようになった。
軽い世間話から始まった会話は、いつしか家庭内の話へと移っていった。
彼女の母親から、『娘の勉強を見て欲しい』と頼まれたのは、数ヶ月たった初夏の頃だった。
この頃はまだ、自分を抑えられていたのだと思う。
彼女と接点を持てる機会だとは思った。
それでも、一度目は断った。
そうしてまで彼女の側にいたいとは考えていなかったし、もし彼女が僕を覚えていたら、意図的に近づいたと思われるかもしれない。
それだけは避けたかった。
だが、彼女の母親は再び頼んできた。
「あの子に、塾は向いていないと思うのよね」
娘のことは、心配しているのだと思う。
その言葉を聞いていると、娘自身ではなく、母親の思い描く理想ばかりを見ているように感じた。
文化祭の日に抱いた違和感は、その時も変わらなかった。
彼女の家庭を見ていると、自然と自分の育った環境を思い返していた。
僕の家庭は、彼女の家とは少し違っていた。
両親は比較的自由にさせてくれる人たちで、何かをする時も、自分で考えて決めることを大切にしていた。
もちろん失敗することもあった。
それでも、その度に自分で考えてやり直せばいいと言われて育った。
年の離れた兄がいたことも、今の自分に影響しているのかもしれない。
兄の背中を見ながら育ったことで、人との距離の取り方や、周囲の空気を読むことは自然と身についていた。
そういうことを考えるのは、昔から苦ではなかった。
だからこそ、彼女が母親の顔色を窺いながら生きていることにも、すぐに気づいた。
何かをしたいと思う前に、許されるかどうかを考えてしまう。
自分の気持ちを口にする前に、相手がどう思うかを考えてしまう。
それが彼女にとっては、いつの間にか当たり前になっていた。
僕は、彼女と同じ高校の卒業生だった。
家から少し離れた学校へ通い、大学進学を機に一人暮らしを始めた。
自分の進路も、生活も、自分で選ぶ自由があった。
彼女には、それがなかった。
そう思うと、胸が締めつけられるようだった。
最初の頃、彼女は必要最低限のことしか話さなかった。
勉強に関係のない話題を振っても、返事は短く、どこか警戒しているようだった。
それでも、時間が経つにつれて、彼女は少しずつ笑顔を見せるようになった。
勉強の合間には、学校での出来事や、母親への不満をぽつりぽつりと話してくれるようにもなった。
僕は余計な口を挟まず、ただ静かに耳を傾けた。
話を聞いているうちに、彼女の母親が過保護で過干渉なのだということも、少しずつ見えてきた。
気になることがあれば、母親に意見を伝えることもあった。
不思議なことに、彼女の母親は僕の話には耳を貸してくれた。
もちろん、彼女が母親に管理されている状況は変わらない。
それでも、以前より彼女は僕に心を開いてくれるようになっていた。
彼女の勉強を見るようになり二、三ヶ月が過ぎた頃だった。
「もうすぐ文化祭があるんです。雫さんは、文化祭に来ますか?卒業生ですよね?」
彼女がそう聞いてきた。
「ああ、行こうかな。永久ちゃんもいるし。何するの?」
僕は、去年の文化祭で見かけた彼女の姿を思い浮かべながら聞いた。
「喫茶店です」
彼女は少し恥ずかしそうに答えた。
文化祭当日、彼女の教室へ向かった。
入口から中を見ると、色とりどりの衣装を着た生徒たちの中に、彼女の姿があった。
白と黒を基調としたワンピースに、白いエプロン。
いつもとは違う姿に、少しだけ見入ってしまう。
その時、彼女に男子生徒が話しかけているのが見えた。
すぐに離れていった。
それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
「どうした?」
隣にいた友人が不思議そうに尋ねる。
「いや、何でもない」
そう答えて、教室へ入った。
「永久ちゃん、来たよ」
名前を呼ぶと、教室内の視線が集まった。
彼女は慌てて、こちらへ歩いてきた。
「いらっしゃいませ……雫さん、本当に来たんですね」
少し目を逸らしながら言う彼女に、自然と言葉が出た。
「似合ってるよ」
彼女の頬が少し赤くなる。
その様子を見ていたクラスメイトが、興味を持ったように近づいてきた。
「神代さん、この人誰?」
「もしかして彼氏?」
「ち、違うよ。家庭教師」
「家庭教師?」
驚いた声が上がる。
「でも……お兄ちゃんみたいな人、かも」
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
しばらくして、彼女がクリームソーダを二つ、お盆に乗せて運んできた。
「えっと……どうぞ、ごゆっくり」
小さく頭を下げる彼女を見て、去年の文化祭を思い出した。
あの時は、まだ彼女とほとんど接点がなかった。
それなのに今は、自分から僕のところへ来てくれている。
その変化が、何より嬉しかった。
クリームソーダを飲み終え、席を立つ。
「ごちそうさま」
そう伝えると、彼女がグラスを下げるためにこちらへ近づいてきた。
その時、近くにいたクラスメイトが彼女へ声をかけた。
「神代さん、休憩取ってないよね?」
「えっと……私は、大丈夫かな」
彼女はそう答えたが、その表情には少し迷いが浮かんでいた。
「大丈夫じゃないって。せっかくお兄さん来てくれたんだから、一緒に文化祭回ってきたら?」
その言葉に、彼女の表情が曇った。
「……」
「さっき、お母さんに言われたこと気にしてる?」
クラスメイトが、彼女の様子を見て尋ねる。
彼女は小さく目を伏せた。
その様子を見て、ある程度の理由は察した。
その格好で、教室の外を歩くな。
そう言われたのかもしれない。
あの母親なら、言いかねない。
僕には彼女の考えていることを、全て理解できるわけではない。
それでも、今の彼女の反応を見れば、何かを気にしていることだけは分かった。
「これならどうかな?」
そう言って上着を彼女の肩に掛けると、彼女は驚いたように顔を上げた。
「永久ちゃん、少し借りても良い?」
クラスメイトへ尋ねる。
「どうぞ。神代さん、楽しんできて」
そう言って、彼らは笑顔で送り出してくれた。
僕は彼女と一緒に教室を出た。
お化け屋敷、迷路、射的、自主制作映画、他クラスの喫茶店、演劇やバンドのステージ。
彼女にとっては、どれも新鮮なものなのだろう。
普段は控えめな彼女が、少し驚いた表情を見せたり、足を止めたりする。
その姿を見ているだけで、自然と嬉しくなった。
途中、何度かカップルと間違われた。
そのたびに彼女は戸惑ったような顔をする。
僕は笑いながら答えた。
「兄みたいなものです」
去年の自分が、今こうして彼女の隣を歩いている姿を見たら、きっと信じられないだろう。
「あの、ありがとうございます」
教室へ戻る途中、彼女が小さく頭を下げた。
「どういたしまして」
僕は笑う。
「でも、僕より先にお礼を言う相手がいると思うよ」
そう言って、先ほど背中を押してくれたクラスメイトへ声をかけるよう促した。




