15.村
荷台は酒樽や木箱が並び、決して広くはなかった。
それでも、せっかくの厚意に甘えることにした。
朝から慣れない山道を歩き続けていたため、彼女の足取りには少し疲れが滲んでいた。
『……私も、ついて行って良い?』
今朝の言葉が、ふと思い出された。
彼女が自分から、僕と一緒に城の外へ出たいと言うとは思わなかった。
樽や箱を背に、城から続く道を興味深そうに眺めている。
ガタガタと荷台が揺れるたびに、肩が触れそうになる。
触れないように気をつけていた。
それなのに、片側の車輪が大きめの石でも踏んだのだろうか。
荷台がやや傾いた。
彼女の身体が、僕の方に寄りかかってくる。
身を引こうにも、もう荷台の縁だった。
熱が、布越しに伝わってくる。
少しも気にしていないようだった。
「結構揺れるだろ。大丈夫か?」
御者台から、男が声をかけてきた。
彼女は小さく頷いた。
どうやら平気らしい。
「大丈夫です」
僕は、男に言った。
村までもう、そう遠くはないだろう。
銀のペンダントが、彼女の胸元で光る。
知らないままの方が良いのかもしれない。
そう思う自分がいた。
荷馬車に揺られながら、街道を進む。
先ほどまで歩いていた麦畑が、左右へ流れていく。
風が吹くたび、まだ青い麦の穂が一斉に揺れていた。
街道から外れた細い道の先に、村の入口があった。
まだ日は高い。
「ほら、そこが宿だ。俺はこいつを休ませてくるから、先に降りな」
男はそう言って手綱を引いた。
馬車がゆっくりと止まる。
僕は荷台から降りると、男に礼を言い荷物を持った。
彼女も小さく頭を下げる。
商人は馬を連れて裏手の厩舎へ向かった。
宿の中へ入ると、祭り前ということもあって食堂は旅人や村人で賑わっていた。
左側が受付で、右側は食堂や酒場になっているようだ。
笑い声や食器の音が飛び交っていた食堂の空気は、彼女の姿を見た途端、しんと静まり返った。
視線が一斉に彼女の黒髪へ集まった。
この宿の女将らしき中年の女性も、一瞬だけ彼女を見て驚いたように目を瞬かせた。
だが、すぐに商売人の笑顔へ戻る。
「いらっしゃいませ、見ない顔だね?旅人かい?」
「はい、部屋は空いていますか?出来れば二部屋――」
「悪いねぇ、今日は祭りで客が多くてね。一部屋しか空いてないんだ」
「そうですか、では一部屋お願いします」
そう答えるしかなかった。
彼女からすれば、出会って日が浅い異性と、同じ部屋など嫌ではないだろうか。
雫だった頃も、二人でどこかへ泊まるようなことはなかった。
「……同じ部屋で、大丈夫?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「嫌じゃない?」
少し考えるように僕を見る。
「……大丈夫。信じてるから」
そして静かに笑った。
その言葉は、嬉しいはずなのに、胸の奥を締め付けた。
信じると言ってくれる相手は、僕が誰なのかを知らない。
「良いなら、これに名前を書いてくれるかい?」
女将は受付台の上に宿帳を置き、羽ペンを添えた。
僕は、自分の名だけを書き記した。
「それと、お連れさんのお名前もお願いできるかい?」
羽ペンを持つ手が止まった。
トワとは書けない。
その名は、この国で知らない者の方が少ない。
僕は一瞬だけ考え、別の名前を書き添えた。
女将は宿帳を受け取ると、記された名前と彼女の胸元のペンダントを見比べた。
「その子が家紋入りのペンダントを下げてるから、どこかのお貴族様のお連れだとは思ってたけど……マリス伯爵家の方だったのかい」
女将は声を潜める。
「黒髪の子を連れて旅とは、何か訳ありなんだろ?」
「ええ……まあ。あまり詮索はしないでもらえると助かります」
僕は苦笑した。
「部屋は階段上がって突き当りだよ」
女将に言われ、僕達は一旦荷物を置くために階段を登った。
軋む木の階段を上がると、細い廊下が伸びていた。
言われた通り左へ進み、突き当たりの部屋の前で足を止める。
扉を開け、中へ入る。
壁際には小さな机と椅子が一つ。
窓から差し込む光の下に、二つの木の寝台が並んでいた。
僕は持っていた荷物を寝台の脇に置いた。
彼女は肩から下げていた小さな鞄を外し、壁に備え付けられた木の掛け具へ吊るした。
僕は、彼女の肩から下げていた小さな鞄へ視線を向けた。
あまりにも小さい。
その中に何を入れてきたのか、少し気になった。
けれど、尋ねることはしなかった。
それよりも、伝えておかなければならないことがある。
「……君に言わないといけないことがある」
「トワ……という名は、この世界では知られすぎている。だから、外では使えない」
「宿帳には、シロと書いた。しばらくはその名前で通してくれないか」
「そっか……」
彼女は、頷いた。
それで納得してくれたようだった。
しばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「それなら……二人の時は、ちゃんと名前で呼んでくれる?」
「……名前?」
僕は思わず聞き返した。
「トワって」
彼女は胸元のペンダントへ触れる。
「外では違う名前なんだよね?」
「本当の名前を、誰にも呼んでもらえないのは……少し寂しい」
その言葉に、息が詰まった。
そんなことを考えていたなんて、気付かなかった。
僕は、彼女を守るために隠そうとしていた。
でも彼女が望んでいたのは、別の名前で隠されることではなかった。
「分かった」
僕は答える。
「トワ」
名前を呼ぶ。
ずっと探していた人を。
今度こそ失わないように。
「セイト……ありがとう」
返ってきた声に、胸が震えた。
感情を隠すため、彼女から目を逸らした。
それ以上、何かを言うことができなかった。
それから僕たちは、静かに一階へ戻った。




