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第65話「ひろいんへの道」

「前世に席がないのなら、今世で奪えばよろしいのです」


葵のその言葉が、土間の空気を静かに震わせた。

すり鉢の前に膝をついたまま、吉平は目を丸くしている。桔梗もまた、涙に濡れた瞳を見開いたまま、葵の顔を見つめていた。


「……今世で、奪う?」

桔梗は小さく繰り返した。


葵は扇で口元を隠し、ふふっと余裕のある微笑を浮かべた。

「ええ。そもそも前世の約束など、商いの世界ではとうの昔に『時効』ですわ。証文すらない過去の因縁に怯えて、今ある席を譲るお人好しがどこにいますの?」


桔梗は息を呑んだ。

自分を縛り付けていた「前世の因縁」という重い鎖が、ただの『期限切れの呪符』のように色褪せていくのを感じた。


「……な、なるほど…もし前世の女とやらが、師匠と『運命の赤い糸』で結ばれているというのなら……」

「結ばれているなら?」

「私が今世で、極太の『しめ縄』を使って師匠をぐるぐる巻きにし、物理的にこの平安の世とわたしに縛り付けます!」


「桔梗さん……今の発言、本人の前で聞くとけっこう怖いぞ」


吉平が疲弊した顔で突っ込むが、桔梗の勢いは止まらない。


「私は、負けたくありません! 師匠を、今の私のまま、お慕いしたいです!」


「それでこそですわ」

葵は満足げに頷き、扇を閉じた。


「……しかし、葵様」

桔梗は真剣な顔つきに戻り、小首を傾げた。

「今世で奪うと決めたのはよいですが、具体的にどうすればよいのですか? 私は陰陽術しか学んでおりません。殿方の心を惹きつけるような、都合の良い呪符など……」


「あら。そんなもの必要ありませんわ。過去の記憶なんて、今の強烈な刺激で上書きしてしまえばいいのです。……例えば、こうやって」

葵は優雅に微笑むと、ちょうど「よし、特製シロップ完成だ……」と額の汗を拭っていた吉平の背後に、音もなく歩み寄った。


「え、葵さん?」

吉平が振り返ろうとした瞬間。

葵は吉平の頭を両手で優しく包み込むと、そのまま自分の豊かな胸元へ、ぎゅっと抱き寄せた。


「ぷ、ぷぷっ!?」

吉平の顔面が、薄い寝間着越しに伝わるむせ返るような大人の色気と、圧倒的な柔らかさに完全に埋没する。


「夜遅くまで、ご看病と薬作り……本当にお疲れ様でしたわ、吉平様」

葵は吉平の耳元でとろけるように甘く囁きながら、その背中を愛おしそうに撫でた。石鹸と、成熟した女性特有の甘い香りが吉平を直撃する。


「あ、あお、さま、ちょっ、息が……いや、やわら……」

数秒後。吉平は顔を真っ赤にしたまま限界を迎え、パタリとその場で卒倒した。


「ちょっとやりすぎましたかしら?……でもこれで、吉平様の前世の記憶が『わたし』でそこそこ塗り替えられましたわ」

葵は扇を広げてにこりと微笑んで見せた。


「す、すごすぎます…!」

桔梗は雷に打たれたような衝撃を受けた。

「前世の因縁など、今世の強烈な『物理攻撃』で上書きしてしまえばよいのですね! なんという恐ろしい秘術……!」


葵はくすくすと笑い、桔梗と二人で吉平を居間まで運ぶと「では、私はこれで。ゆっくりお休みなさいな」と優雅に寝室へと戻っていった。


取り残された桔梗は、気絶した吉平の横で一人、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「い、いま、このまま師匠を捕縛して実家に……ダメダメ……。うーん、つまり、恋の戦には……陰陽術とはまったく別の『秘術』が必要だということ。この葵様の圧倒的な胸部戦力に対抗し、師匠の記憶を塗り替えるための強力な一手……」


桔梗はぶつぶつと呟きながら、ある結論に達した。


「そうだ。師匠の前世の世において、殿方の心を掴む特別な座、すなわち『ひろいん』なるものの極意を学ぶのはどうでしょう!」

誰もそんなことは言っていないのだが、桔梗の脳内ではいつの間にか「ひろいん=究極の恋愛術」という図式ができあがってしまっていた。


桔梗は自分の部屋に戻っても、興奮でなかなか眠れなかった。

(……はっ! そうです! 前世の世における女の戦い方を知るには、令和の世を知る結衣殿に教えを乞うのが最短ではありませんか!)


そう結論づけた瞬間、桔梗は布団の中でむくりと勢いよく起き上がった。

「待っていなさい、見えざる前世の恋人……。この桔梗、今世で師匠の心を奪うためなら、異界の恋愛術とて命懸けで学んでみせます!」


「……うるさい。明日でいいでしょ……むにゃ……」

奥の部屋で寝込んでいたサチが、寝言で的確なツッコミを入れた。その隣では、結衣も小さく寝返りを打っている。二人ともまだ本調子ではないが、昨夜より寝息はずいぶん穏やかだ。

(……よし。近いうちに、結衣殿に教えを乞えそうです)

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