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第64話「葵」

「前世からの因縁……運命、ね」


葵は縁側に腰掛け、初夏の夜風を浴びながら、ぽつりと発した。

土間から、生姜をすりおろす微かな音と、桔梗の涙が夜の空気に溶けていくのを感じた。陰陽師である桔梗が「自分は運命の輪の外側にいる」と諦めかけている声は、葵の耳にも届いていた。


前世から魂が繋がっている女。運命に導かれてこの平安の世に現れた娘たち。

確かに、葵にはそんな神秘的な背景は何一つない。前世の記憶もなければ、遠い時代から吉平を追いかけてきたわけでもない。実家の財と貴族社会との繋がりという、この平安の世の権力と血脈に組み込まれた、徹頭徹尾「現実」の女である。


しかし、だからといって自ら身を引くなど、葵の辞書には存在しない。

見えない過去の亡霊などに、今の自分が抱いているこの激しい熱情が負けるとは、到底思えなかったからだ。


葵はそっと目を伏せ、夜の闇の向こうに、遠い過去の記憶を思い描いた。


葵には、幼い頃から妹や弟のように可愛がっていた、三つほど年下の貴族の男の子がいた。

『葵ねえさん、葵ねえさん!』

事あるごとに葵の背中を追いかけ、無邪気に笑う、心優しい少年だった。彼は高い身分でありながらも決して驕ることはなく、道端でうずくまる貧しい者や、羽の折れた小鳥を見つけては、自分の高価な衣服を汚してでも助けようとするような、ひどく純粋な魂の持ち主だった。


だが、その純粋さは、病の前ではあまりにも無力だった。

ある夏、都周辺で猛威を振るった流行病が、あっけなくその少年を吞み込んだ。


貴族だった少年の家は、莫大な富を惜しみなく注ぎ込んで彼を救おうとした。高名な薬師を呼び、祈祷師を呼び、陰陽師に祭壇を組ませ、貴重な薬草も、ありがたい札も、ありとあらゆるものが用意された。

葵も何度も彼のもとへ行こうとした。だが、大人たちは「病は穢れだ」と言って、几帳の向こうに葵を押し留めた。


『葵ねえさん……』


熱に浮かされた少年のか細い声だけが、薄い布越しに聞こえていた。

葵は、その手を握ってやることすらできなかった。


そして少年は、ある朝、ただ静かに眠るように息を引き取った。離れた場所からでも見えたその顔は、病に侵されていたとは思えないほど美しく、まるで今にも目を覚まして『葵ねえさん』と笑いかけてきそうなほど、綺麗なままだった。


亡くなった少年のことを、女性として愛していたのかどうかはわからない。ただの姉としての情だったのかもしれない。しかし、彼の静かな死が残した「虚無」は、葵の人生を決定づけた。


成長した葵は、誰もが息を呑むほどの美貌と、貴族社会を渡り歩くための教養、そして帳簿を読み解く才を持つ女性となった。

その美しさと実家の財力を求め、数え切れないほどの貴族や豪商の男たちが求婚の列をなした。だが、葵の心は少しも動かなかった。彼らがどれほど愛を囁き、権力を誇示し、財宝を積もうとも、葵の目には「無力で空虚な存在」にしか映らなかったからだ。


葵は男たちを冷たくあしらい、ただひたすらに商売に没頭した。

お金を稼ぎ、富を積み上げることだけが、あの時のどうしようもない無力感を麻痺させ、気を紛らわせてくれる唯一の手段だったからだ。金では命は買えないと痛いほど知っていながら、金に執着することで自我を保っていたのかもしれない。


そんな日々を送っていた葵の世界に、突然現れたのが吉平だった。


彼は、あの亡き少年と同じように、身分に関係なく誰かを助けようとする底抜けのお人好しだった。だが、ただ一つ違っているのは、吉平には、神仏に祈るだけの無力な薬師とは違い、恐ろしい病魔の正体を論理的に見破り、自らの手で確実に命を救い出す「本物の医術」があった。


吉平は、金や権力では決して覆せなかった絶対的な理不尽から、葵の命を救い出し、そして今も村の子供たちの命を救い続けている。


葵は自分の胸元に、そっと手を当てた。

薄い寝間着越しに伝わる、自分の心臓の力強い鼓動。以前は弱く、頼りなく、いつ止まってもおかしくないと思っていた鼓動が、今は確かに熱を持って鳴っている。


吉平が救ってくれた命。

吉平が取り戻してくれた、今この瞬間の自分。


(吉平様こそ私が求めていた男性……)


葵は、夜風の中で確信を持ってそう断言した。

吉平は過去の幻影ではない。あの無力だった日々に葵が何よりも求め、そして決して手に入らなかった「命を救う絶対的な力と優しさ」を併せ持つ、唯一無二の男性なのだ。彼こそが、自分がずっと無意識のうちに求め続けていた、たった一人の人なのだと、今ははっきりとわかる。


(私のこの体も、誇りも、財力も……そして、今までどんな権力者にも決して許さなかった心も。すべてを捧げるにふさわしいのは、この平安の世でただ一人、吉平様だけですわ)


運命や前世のしがらみがないからといって、この燃え上がるような愛が本物ではないなどと、誰に言わせるものか。


葵はゆっくりと立ち上がった。そして豪奢な羽織を肩にふわりと掛け、静かな、しかし確かな決意を秘めた足取りで、吉平と桔梗のいる土間へと歩みを進めた。


土間では、吉平がすり鉢の前に膝をつき、困ったような顔で桔梗を見ていた。

桔梗はまだ涙を拭いきれないまま、肩を震わせている。


葵は二人の少し手前で足を止め、いつものように、柔らかく微笑んだ。


「桔梗さん」


涙に濡れた桔梗の瞳が、葵を見上げる。


葵は扇で口元を隠し、優雅に、そして少しだけ不敵に笑った。


「前世に席がないのなら、今世で奪えばよろしいのです」


吉平が目を丸くする。

桔梗も、涙を忘れたように葵を見つめた。

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