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第63話「すり鉢に落ちた涙」

深夜の土間。

外からは初夏の虫の音が静かに響き、行灯あんどんの微かな明かりが吉平の手元をぼんやりと照らしている。


結衣とサチの症状を和らげるため、吉平は特製の「抗菌・滋養シロップ」を作っていた。

抗生物質がないこの時代、大蒜ニンニクのアリシンが持つ強力な殺菌作用と、生姜の血行促進効果、そして蜂蜜の保湿力を組み合わせるのが、今の彼にできる最善の処方だった。


「あとは、これを徹底的にすりおろして……」

吉平もさすがに疲労の色が濃くなってきているが、あと少しの辛抱だ……そう言い聞かせながら、すり鉢に向かって袖をまくったその時、背後から衣擦れの音がした。


「師匠。そのお役目、私に手伝わせてください」

振り返ると、普段の仰々しい狩衣ではなく、寝間着姿のまま薄い羽織を羽織った桔梗が立っていた。いつもは結い上げている黒髪も下ろし、どこか年相応のあどけない少女の顔つきになっている。


「桔梗さん…… 疲れてるだろうし、明日も忙しいから休んだほうが……」

「い、いえ。結衣様やサチさんが苦しんでいるのに、私だけが何もせず休むわけにはいきません。陰陽師として病魔を祓うことはできずとも……薬作りくらいは」


少しうつむき加減でそう言うと、桔梗は吉平の隣にちょこんと座り、すりこぎを受け取って生姜をゴリゴリとすりおろし始めた。

土間に、一定のリズムで薬味がすりつぶされる音と、香りが広がる。


しばらくの無言の後、桔梗がふと、すりこぎを動かしたまま静かに口を開いた。


「……師匠。結衣様や美影さんが、前世の記憶を取り戻しましたね」

「あ、ああ。俺も最初は信じられなかったけど、あの二人が言うなら本当なんだろうな」

吉平が苦笑しながら答えると、桔梗は手元を見つめたまま、ポツリと呟いた。


「実は私、わかっているんです」

「え?」

「私が……前世の吉平様の『思い人(彼女)』の候補ではない、ということが」


思いもよらない言葉に、吉平は手綱を引かれたようにピタリと動きを止めた。

「桔梗さん、急になんの話を……」

「陰陽師としての見立てです。命の『繋がり』の話ですよ」


桔梗は顔を上げず、淡々とした声で語り続ける。


「師匠がこの世界に現れてからというもの、私たちの運命は大きく乱れ、そして引き寄せられました。ですが……私たちの中で、この平安の時代との『しがらみ』の濃さは、人によってまったく違うのです」


「しがらみの、濃さ……?」

「はい。例えば、私です。私には陰陽師としての立派な祖先がいて、実家があり、月に一度は手紙や金品が届きます。葵様もそうです。貴族との繋がりが深い大商会の名門の出であり、この時代の権力と血脈にがっちりと組み込まれている。つまり、私たちはこの時代に強固な『根』を張りすぎているんです」


桔梗の言う通りだった。彼女たちは間違いなく、この平安の世の住人としての確固たる歴史を持っている。


「ですが……サチさんや栞さん、そして美影さんはどうでしょう」

桔梗の声が、少しだけ震えた。

「サチさんには農家出身で母親がいるとはいえ、出自はひどく淡く、村とのしがらみも薄い。栞さんに至っては過去の経歴すら定かではなく、美影さんは元々住んでいた村を追い出されたしのびです。彼女たちは……この世界との関係性が、あまりにも薄すぎる。まるで最初から、過去の因縁に導かれて……師匠を追うために、どこからともなくこの世にポンと現れたかのように」


吉平は息を呑んだ。

彼女の指摘は、あまりにも鋭く、そして論理的だった。


「結衣様が言っていた、前世で師匠と一緒に階段から落ちたという女性。それが誰なのかはわかりません。ですが……私ではないことだけは、はっきりと理解できました。私は、この時代に縛られすぎている。私は、師匠の『運命の輪』の外側にいるんです……」


すりこぎを動かす桔梗の手が、ゆっくりと止まった。


「だから……私のような者が、師匠のことを特別にお慕いしていても、前世の因縁や運命には勝てない。だったら最初から……潔く諦めた方がいいような気がして」


「桔梗さん……」

吉平が名前を呼ぼうとした。


「……うぅっ」

桔梗が咄嗟に袖で顔を覆った。

「生姜と大蒜の、強力な邪気(成分)が……目に……」


強がるような言い訳の直後。

彼女の袖の隙間から、堪えきれなかった一滴の涙が、ぽとり、と音を立ててすり鉢の中に落ちた。


運命の人ではないと悟りながらも、惹かれていく心をどうにもできない一番弟子の、ひどく不器用で、静かな諦めの雫だった。


その二人のやり取りを、陰から聞いている者がいた。葵だった。

(涼みに行こうとしていたらこんな場面に出くわすなんて……。それに、自分から白旗を挙げるなんて……まったく……ウブすぎるにもほどがあるというか……)

汗ばみそうな豊満な胸の谷間を扇子であおぎながら、葵は独りつぶやいた。

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