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第61話「美影の想い」

(……吉平さま、結衣ちゃん)


天井から吉平と結衣をじっと眺める美影の頭の中で、その二つの名前が、心地よい雨音のように優しく響いていた。

下でおっちょこちょいな言い合いを繰り広げている兄妹の姿。結衣の少し勝気で生意気な声のトーン。そして、困ったように頭をかきながらも、どこまでも優しい眼差しを周囲に向ける吉平の空気感。


それらが引き金となり、美影の脳裏に、これまで濁っていた前世の記憶がしっとりと流れ込んできた。


(そう……。私、知ってる。この二人のこと、すごくよく知ってる……!)


思い出したのは、まだ自分が人間ですらなかった頃の記憶だ。

冷たい雨が降る日、お腹を空かせた小さな子猫だった美影は、野良犬に追われて必死に高い木の上へと登ってしまった。しかし、登ったはいいものの、あまりの高さに足がすくんで降りられなくなり、ガクガクと震えながら鳴くことしかできなかった。


そんな自分を、雨に濡れながら下から見上げていたのが幼さの残る吉平だった。

吉平は「危ないからじっとしてろよ!」と言いながら、慎重に木に登り、今にも落ちそうだった小さな体を優しく抱き上げてくれたのだ。


――高いところに登るのは得意なのに、降りるのが絶望的に苦手。


忍びの里で「落ちこぼれ」と呼ばれていたその奇妙な弱点は、子猫の「ミミ」だった頃からの個性だった。


木から降ろされた後、温かい部屋でミルクをもらった。不器用な手つきでタオルで拭ってもらい、一生懸命に介抱された。

あの夜、吉平の家の屋根裏から落ちた自分に、吉平が、温かい雑炊を差し出してくれたあの瞬間。それは、前世で彼に命を救われた時の優しさと、まったく同じものだった。


それから始まった、二人と一匹のささやかで温かい暮らし。

吉平が作ってくれる茹でただけの味のないささみ肉が何よりのご馳走で、二人の笑い声を聞きながら丸くなって眠るのが、世界で一番幸せな時間だった。

そして、自分が寿命を迎えて動けなくなった最期の時。泣き崩れる吉平と結衣に何度も何度も撫でられながら、温かい腕の中で静かに眠りについたこと――。


「……っ、う、うう……」


天井の暗がりの中、美影の瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出し、部屋着の胸元を濡らした。最期まで優しくしてくれた大好きな人たちに、またこうして会えたのだという愛おしさが、彼女の胸を痛いほどに締め付けていた。


下では未だに「私が正妻よ!」とサチたちが吉平を揉みくちゃにしている。

美影は涙を袖で拭うと、大騒ぎする乙女たちの隙間を縫うようにして、迷うことなく吉平のすぐ隣へと滑り込んだ。


「み、美影……? どうしたんだ?」


吉平が困惑の声を上げるのも束の間、美影は吉平の腕に強くしがみつくと、自分の頬を、吉平の頬へと大胆に思い切り「すりすり」と寄せた。


「ひゃっ!? ちょ、美影、強烈に近い! 頬が当たって……」


「……こうやって、前世ではいつも、私を抱き上げてくれましたね」


美影の口から出た言葉に、部屋の中が文字通り凍りついた。


「「「「……えっ?」」」」


美影は吉平の腕からそっと体を離すと、今度は呆然と立ち尽くす結衣の元へと歩み寄った。そして、驚く結衣の肩を優しく包み込み、その綺麗な頬へ、自分の頬を同じように優しく「すりすり」と寄せたのだ。


「ひゃっ!? ちょっと美影ちゃん!?」


「結衣ちゃんも、いつも私のわがままに付き合って、一緒に遊んでくれました。……私は『ミミ』です。二人に拾われて、最期まで優しく看取ってくれた……ミミです」


「み……ミミ……っ!? 人間になっちゃうなんて信じられないけど……この懐かしい感覚としぐさ、確かにミミっぽい……!」


結衣は自然に美影の華奢な体をぎゅっと抱きしめ、美影もまた、嬉しそうにその腕に身を委ねた。

「ミミ……また会えて嬉しい、本当に嬉しいよぉ……!」

「はい、私もです、結衣ちゃん」


前世で共に暮らした家族との、時を超えた再会。吉平もあやふやな記憶の中で、確かにミミを感じ取り、いつの間にか二人の輪のなかに入っていった。


しかし、その奇跡の抱擁に、周囲の乙女たちが黙っているはずがなかった。


「ちょっと待ちなさいよ! 猫!? 猫が人間になったっていうの!?」

サチが顔を真っ赤にして割り込んでくる。

「ずるい! 家族の絆(ペット枠)でそんなゼロ距離スキンシップ取るなんて、反則よ!」


美影は吉平と結衣の腕のなかにすっぽりと収まったまま、サチたちに柔らかな視線を向けた。

「私はミミだった頃、毎晩こうして吉平様の布団の中に潜り込んで、一緒に寝ていました。冬の寒い夜も、吉平様の胸の上やお腹の上が私の特等席だったのです。ですから……今夜は天井ではなく、吉平様と同じお布団で寝ます」


「な、ななななっ……! 何を破廉恥なことを!」

桔梗が数珠をジャラジャラと鳴らして顔を赤くする。

「いくら前世が猫とはいえ、今のあなたは立派な人間の女子です! 同じ布団など、仏の道が許しません!」


「そうですわよ美影さん! 抜け駆けは認められませんわ!」葵も扇をバシバシ叩いて抗議する。


「そうですか。美影さんは、猫なのに、ダークホースでしたか」

栞が、いつもの斜め上のセリフを吐く。


乙女たちは

「ね、猫なら……しょうがない、のか?」

「前世で最期まで一緒にいた家族なら、今更ダメって言うのも、なんか可哀想な気が……」


乙女たちの間に、戸惑いと猛烈な嫉妬、そして「猫だから大目に見るべきか」という複雑な葛藤が渦巻く。


「まあ、人間の姿だから多少の違和感はあるけど、わたしは美影ミミちゃんの味方!もちろんオッケーよ!ついでに私も妹だし、隣に布団を敷いて寝ますねー」


サチたちはぐぬぬと唇を噛み締めながらも、

「……一晩。今日、一日だけだからね!」

「明日からはまた厳格な部屋割り(包囲網)に戻していただきますわ!」

としぶしぶ折れることになった。


「ありがとうございます」

美影はふにゃりと柔らかく笑うと、サチたちが部屋を出ていくのを見届け、吉平の布団の中へと潜り込んだ。


真新しいゴザの上に敷かれた布団の中。吉平のすぐ隣。

部屋着の薄い布地を通して、吉平の温かい体温と、トクトクと速くなる心臓の鼓動が直に伝わってくる。吉平は「み、美影、いくらなんでも密着しすぎ……っ」とガチガチに緊張して天井を見つめているが、美影にとってはこれ以上ない極楽だった。


吉平の胸にそっと頭を乗せ、彼女は満足げに目を閉じた。


(あったかい……。吉平様の匂い、大好き……)


最高の気分で意識が微睡んでいく中、美影の胸の奥で、小さくて、けれど今までになかった可愛らしい「野心」が、静かにぽっと灯った。


(私は、もう猫じゃない。人間の女の子になったんだもの。……猫を卒業した私なら……吉平様の、『彼女』にだって、なれるかもしれないよね?)


暗闇の中、美影は吉平の部屋着の胸元をぎゅっと握りしめ、幸せな夢の中へと落ちていくのだった。

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