第58話「医者を志した本当のワケ」
都から嵐のように現れた吉平の妹、結衣。彼女の放った「お兄ちゃん」という衝撃的な爆弾発言により、吉平の家にはかつてない緊張感と困惑が広がっていた。
しかし、都からの遠い道のりを泥にまみれて旅してきた結衣を、そのままにしておくわけにもいかない。「とりあえず、旅の汚れを落としてきなさいな。お話はそれからですわ」という葵の促しもあって、結衣はサチたちヒロイン四人に連行される形で、村の裏手にある『極楽の石風呂』へと足を踏み入れることになった。
「うわぁ……っ! なにこれ、すっごく広い! しかもお湯が石からじんわり温かくて、まるでお日様のなかにいるみたい……!」
湯けむりがもくもくと立ち込める大浴場の中で、結衣は目を丸くして歓声を上げた。都の上級貴族でさえ、これほど贅沢で、なおかつ清潔な水浴びの設備など持っているはずがない。
「ふふん、すごいでしょ! これも全部吉平が自分で考えて、村の大工さんたちと一緒に作ったのよ。ほら、この『しゃぼん』も使ってみて。お肌がすべすべになって、すっごく気持ちいいんだから!」
サチが自慢げに、薄荷の香りが漂う特製の石鹸を手渡した。結衣はそれを受け取り、手のひらで転がしながら、お湯を混ぜて器用に泡立てていく。みるみるうちに真っ白でモコモコとした泡の雲が出来上がると、結衣はニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべ、脱衣所の向こう側にいるであろう兄に向けて声を張り上げた。
「さすがね、お兄ちゃん。こんなものまで再現しちゃうなんて。もしかすると……これって、合法的に乙女のお風呂の機会を増やしたかったのかしら? 前世じゃ奥手だったくせに、こっちの世界じゃずいぶんと知恵を絞っちゃって、もう、いやらしいんだから!」
「ばっ、馬鹿言うな! 俺は純粋に村の衛生管理と風邪予防のために作ったんだ!」
脱衣所の外から、真っ赤になっているであろう吉平の必死な弁明が聞こえてきくる。その様子に、サチや葵たちはどこか親近感を覚えたようにクスクスと笑い合った。
しかし、結衣が湯船の奥へと進み、先にお湯に浸かっていた葵の隣に並んだ瞬間、その笑い声は驚きへと変わった。
ざばぁっ、とお湯が波打つ。湯船の縁に優雅に腕を乗せた葵は、濡れた黒髪を色っぽく肌に張り付かせていた。何より、お湯の浮力をもってしても隠しきれないその『規格外の豊満な質量』が、湯けむりの中で圧倒的な存在感を放ち、上下にゆったりと揺れていたのである。
結衣は手から石鹸をツルンと落としそうになりながら、自分の平坦で慎ましい胸元と、葵のそれ、さらには健康的でありながらもしなやかな丸みを持つサチのプロポーションを交互に見比べ、ワナワナと震え出した。
「うそ……ちょっと待って。お兄ちゃん、こんな山奥で、いったいみんなに何を食べさせたらこんなに育つのよ……っ! 前世の私の同級生より、ずっと大きいじゃない……! 贅沢すぎるわ!」
「あら? 妹君は少々発育が物足りないご様子ですわね。でもご安心なさい、吉平様に正確な寸法を測っていただいて、専用の『したぎ』を仕立ててもらえば、きっと綺麗に育ちますわよ?」
「お兄ちゃんにサイズを直接測らせたの!? あのむっつり草食系に!?」
キャーキャーと大騒ぎする結衣を眺めながら、サチが湯船の中でぽつりと首を傾げた。
「そういえば結衣ちゃん。吉平って、前の世界ではどんな人だったの? 私たちに現代の医学を教えてくれるくらいだもん、きっとすごく立派なお医者様になるために、高尚な理由で勉強に励んでいたのよね?」
「ええ。前世でもきっと、多くの民の命を救う聖人のような御方だったに違いありませんわ」
桔梗も数珠をお湯のなかに沈めながら、尊敬の目を輝かせて同意する。
しかし、結衣は呆れたように深いため息をつき、お湯の中でぷくぷくと口から泡を吹いた。
「立派? 高尚? 全然違うわよ。お兄ちゃんが医者を目指した理由なんて、すっごくおっちょこちょいで、安易なんだから」
「えっ? 違うの?」サチが目を丸くする。
「私たちね、両親がちっちゃい頃に事故で亡くなって、それからずっと二人暮らしだったの。でね、我が家にはもう一人、大切な家族がいたのよ。近所で拾ってきた『ミミ』っていう名前の、すっごく甘えん坊な猫」
結衣は少しだけ懐かしむように、お湯を手でパシャパシャと弾いた。
「ミミが寿命で死んじゃった時、お兄ちゃん、一晩中大泣きしてさ。『俺、絶対に獣医になる! ミミみたいな悲しいお別れをなくすんだ!』って言い出したの。でもね……」
結衣は続ける。
「私たちの家の近くには、獣医学部のある大学がどこにもなかったのよ。そしたらお兄ちゃん、なんて言ったと思う? 『人間を助けられるお医者さんになれば、体の仕組みはだいたい同じだから、たぶん動物だって助けられるはずだ!』なんて言い出して、そのまま人間の医学部を目指しちゃったのよ」
「猫ちゃんのために……? でも、人間の医者と動物の医者は違うんじゃ……」
「そうなのよ! すっごく短絡的でしょ? でも、お兄ちゃんは一回決めたら一直線だからさ、ミミとの思い出を胸に、毎日ボロボロになるまで教科書にかじりついて勉強してたわ」
その安易だが、どこまでも不器用で優しい理由を聞き、乙女たちはかえって吉平に親近感を感じた。ただ身近な小さな命の死を悲しみ、それを救いたいと願ったからこその道。いかにも、この村の誰にでも分け隔てなく優しさを注ぐ、吉平らしい理由だった。




