第52話「行商人と命を繋ぐ糸」
穏やかな昼下がり。吉平の家に、泥だらけの行商人が運び込まれてきた。
山道で足を滑らせたというその男の脚には、ぱっくりと深い裂傷が走っていた。運び込んだ村人たちは「こりゃあもう駄目だ」「お寺さんを呼ぼう」と半ば諦め顔で囁き合っている。この時代、これほど深く開いた傷は化膿と高熱を引き起こし、間違いなく致命傷となるからだ。
周囲がざわめく中、吉平だけは無言だった。
彼の脳内では、医学生としての知識が猛烈なスピードで引き出しを開け閉めしていた。
(傷が深すぎる。薬草を塗って布で縛るだけの応急処置じゃ、絶対に塞がらない。現代なら迷わず救急搬送して縫合手術、そして抗生物質の点滴だ。でも、ここには何もない。ペニシリンも、痛み止めも…)
吉平は男の顔色を見た。まだ息はある。間に合う。
(縫うしかない。針と絹糸はある。消毒は強い酒と煮沸したお湯で代用できる。問題は術後の化膿だ。抗生物質の代わりになる、強い殺菌力を持ったものは……)
その時、アイデアが閃いた。
糖分。それも、極めて純度の高い糖分だ。
「……よし、いける。サチ、一番大きな鍋でお湯を沸かして! 葵さんは家にある一番度数の高いお酒と、清潔な布をありったけ。
「桔梗さん、彼に『麻沸散』を飲ませて眠らせてくれ!」
「麻沸散……以前、吉平様が毒草を集めて作っていた、痛みを消して眠りに誘うというあの秘薬ですね!?」
「そう! 毒も使い方次第で薬になる。こぼさないように気を付けて」
「美影さんは、俺の道具箱から一番細い針と絹糸を!」
立て続けに飛んだ指示に、呆然としていた少女たちがハッと我に返り、一斉に動き出す。
「絹糸って……吉平様、まさか」
布を持って走ってきた葵が、信じられないものを見るような目をした。
「そう、縫い合わせるんだ」
吉平は煮沸したお湯と酒で、自分自身の腕から指先までを入念に洗い清める。針と糸も同様だ。そして、麻酔薬で眠りに落ちた男の傷の両端をそっと寄せると、まるで高価な反物を繕うかのように、等間隔で正確に縫い合わせ始めた。
「人間を、縫うなんて……」
息を呑むサチたちの前で、吉平の手は淀みなく動く。傷口がピタリと塞がることで、人間が本来持つ自然治癒力を最大限に引き出す。それが外科縫合の理屈だ。
「縫合終わり。栞さん、頼みがある」
吉平が振り返ると、栞はすでにいつでも動けるよう、静かに控えていた。
「純度の高い蜂蜜と、殺菌作用のある薬草の汁を、三対一の割合で練り合わせてほしい」
「蜂蜜、ですか?」
「ああ。蜂蜜は糖分が高すぎて、水分を極端に嫌う細菌が生きていられないんだ。傷口に塗れば、空気を遮断する完璧な蓋にもなる。最高の天然の抗生物質だ」
栞はすぐさま持ち前の器用さで、特製軟膏を練り上げた。それを縫い終わった箇所に厚く塗り、清潔な布でしっかりと覆う。
「これでよし。あとは彼の体力次第だけど、熱さえ出なければ大丈夫だと思う」
吉平がようやく肩の力を抜いて額の汗を拭うと、美影が屋根裏からスッと清潔な手ぬぐいを差し出した。
「みんな、手伝ってくれて本当にありがとう。最高レベルの看護師だよ」
少女たちは、吉平の感謝に誇らしげに笑い返した。




