第51話「深緑の中の笑顔」
しとしとと降っていた昨晩の雨が嘘のように、翌朝は抜けるような青空が広がっていた。
吉平は背負い籠を担ぎ、村の裏手にある山へ薬草採取に向かおうとしていた。雨上がりの山には、瑞々しく育った良質な薬草が多く見つかるからだ。
「吉平さま。私もお供いたします」
門を出ようとしたところで、声をかけられた。
振り返ると、そこには白衣袴の裾をすっきりと端端しくまとめた栞が立っていた。艶やかな黒髪は一つに結ばれ、その佇まいは新緑の景色の中で一幅の絵画のように美しい。
「栞さん? 山道は足元が悪いし、服も汚れてしまうよ」
吉平が心配して言うと、栞は静かに首を横に振った。
「私は居候。ただ座して飯を食むだけの存在ではありません。それに、吉平殿の『心』を学ぶには、あなたが日常行う生業を側で見届けるのが一番ですから」
そこへ、家の中からサチが慌てて飛び出してきた。
「ちょっと栞! 吉平と二人きりでデートしようなんてズルいんだから! 私も行く!」
「サチ殿、これは医療のための薬草採取であり、遊山ではありません。それに、昨晩の雨で湿った薪の管理や、お蚕様の世話は誰がするのですか?」
栞がいつもの涼しい顔で正論を唱えると、サチは「うっ……」と言葉を詰まらせ、「絶対に手を出しちゃダメだからね!」と葵たちに代わって釘を刺しつつ、しぶしぶ見送るしかなかった。
鳥の囀りが響く山道を、二人は並んで歩いていく。
雨を含んだ土と、若葉の生命力あふれる香りが鼻腔をくすぐった。吉平は慣れた足取りで進むが、ふと隣を見ると、栞の歩みが少し遅いことに気づいた。
彼女は、木漏れ日が揺れる頭上の梢や、足元に咲く名もなき小さな野花を、まるで初めて見るかのようにじっと見つめていた。
「栞さん、大丈夫? 疲れたかい?」
「いいえ。……ただ、驚いているのです」
栞は足を止め、大きなシダの葉からぽつりと滴り落ちる雨の雫を見つめた。
「巫女山にいた頃の私は、神聖なる神殿の奥から外を眺めるだけでした。私にとっての自然とは、和歌に詠まれる記号であり、あるいは儀式に用いるための道具に過ぎなかったのです。ですが、こうして直に肌で触れる山は……ひどく、美しいものですね」
彼女の深く澄んだ瞳に、青空と緑の光が綺麗に映り込んでいる。
いつもの完璧な「最高傑作の器」としての気高さの中に、少女らしい無垢な感性が、すっと顔を覗かせた瞬間だった。
「そうだね。自然は和歌の中だけじゃなくて、こうやって生きているから綺麗なんだよ。ほら、ここにも良い薬草がある」
吉平がしゃがみ込み、岩陰に生えた瑞々しい薬草を指差した。
栞もその隣に、衣を汚すことも厭わずにそっとしゃがみ込んだ。
「これが、村の人々を救うお薬になるのですね。吉平殿は、このような小さな命の理を一つ一つ紡いで……」
栞がそこまで言った時、薬草の葉の裏から、一匹の小さな生き物がぴょんと飛び出してきた。
それは、雨上がりの水分を吸って、つやつやと輝く小さな青雨蛙だった。
カエルは栞の差し伸べていた白い指先に、ちょこんと着地した。
「わっ、カエルだ。栞さん大丈夫?」
吉平が慌ててカエルを退けようとしたが、栞の反応は予想外のものだった。
栞は指先に乗ったカエルを、顔のすぐ近くまで引き寄せ、まばたきもせずにじっと見つめていた。カエルがのどを膨らませて「くくっ」と小さく鳴くと、栞の端正な眉が、ふわりと和らいだ。
「まあ……愛らしい。見てください、吉平殿。このつぶらな瞳、お腹の柔らかな白さ。そして、この小さな手足で私の指を一生懸命に掴んでいます。」
栞は心底愛おしそうに、小さなカエルに語りかけていた。
目の前の小さな命にただ純粋に心を奪われている。その姿は、吉平の目にはどんな芸術品よりも、ずっと「人間らしく」て、魅力的に映った。
「カエル、好きなんだね。それに栞さんもすてきな笑顔だ」
吉平が微笑むと、栞はハッと我に返り、少しだけ頬を染めてカエルをそっと葉の上に戻した。
「え……笑顔、ですか?」
自分の感情の芽生えに、不思議そうに首を傾げる栞。
吉平は、少しずつ「心」を知り、素の魅力を開花させていく彼女の姿をうれしそうに眺め、「そろそろ帰ろうか」と声をかけ、再び歩き出した。




