第50話「遠い記憶の残り香」
夜。しとしとと降る春の雨の音が、暗闇に包まれた吉平の家を優しく叩いていた。
全員がそれぞれの寝床につき、灯りも落とされ、家の中は深い静寂に包まれている。
吉平が布団の中で目を閉じ、雨音に耳を澄ませていると、ふいに襖越しに声が響いた。
「吉平様。まだ、起きていらっしゃいますか」
少し離れた部屋で寝ているはずの、葵の艶やかな声だった。
「うん、起きてるよ。どうしたの?」
「その……夜の静寂のせいでしょうか、少し気になりまして。吉平様のいらした別の世界のことなのですが……吉平様は、向こうの世界に未練はないのですか?」
その問いに、家中の空気がピタリと張り詰めたのがわかった。
隣の部屋のサチも、他の部屋の桔梗も、息を潜めて吉平の返事を待っている。吉平が別の世界から来たことは誰もが知っているが、彼が過去を語ることはほとんどなかったからだ。
吉平は暗闇の中で天井を見つめた。
「未練、か。……実は俺、向こうの世界の記憶が、だいぶ曖昧なんだ」
「えっ……」
襖の向こうから、サチの小さく驚く声が漏れた。
「医学の知識ははっきりと覚えてる。でも、自分の親の顔とか、友達の名前とかが、どうしても思い出せないんだよね。ただ……」
吉平は少しだけ懐かしむように、目を細めた。
「自分が、すごく必死に勉強してたことだけは覚えてるんだ。名誉のためとかじゃなくて、ただ『誰かが笑って元気になってくれるのが嬉しい』っていう、その一心で。特定の誰かってわけじゃないんだけど、とにかく『誰かを助けたい』って気持ちだけが、ずっと胸の奥に残ってるんだ」
純粋な吉平らしい、真っ直ぐな言葉。
しかし、そのほんの少しの「誰か」という言葉のニュアンスを、恋する乙女たちは聞き逃さなかった。
「……誰か? 今、誰かって言いましたよね!?」
桔梗の焦ったような声が響く。
「特定の誰かじゃないなんて誤魔化してますけど、それ、絶対に『前世の恋人』の影を引きずってますよね!?」
「えっ? いや、恋人なんて一言も……」
「ありえますわ」
吉平が慌てるのを遮るように、葵が被せてくる。
「吉平様ほど優しく優秀な殿方が、ただの自己犠牲でそこまで必死に学ぶでしょうか? つまりその方は……『立派なお医者様になってね』と契りを交わした、前世の思い人……!」
「な、なんだってーっ!?」
隣の部屋から、サチの布団がガバッと跳ね起きる音がした。
「顔も覚えてないのに、吉平の心の中にずっと住み着いてる『前世の女』がいるってこと!? 最強の属性じゃない! そんな見えない女の影に、私たちどうやって勝てばいいのよ!」
「みんな、落ち着いて! 恋人なんて全く記憶にないから! 勝手に妄想で話を進めないで!」
吉平の弁明は、暗闇の中で完全にパニックになった彼女たちの耳には届かない。
「ねえ、吉平!」
襖越しに、サチの声が真剣な響きを帯びる。
「もし本当に、その前世の女の人が現れても……ずっと一番近くで吉平のことを見てきたのは私なんだからね。絶対に渡さないから!」
「日常の絆だけで殿方を繋ぎ止められるとお思い? 吉平様」
葵の声が、負けじと闇に溶ける。
「前世の因縁がどれほど深くとも、私の財力とこの美貌、そしてあなたへの愛情で、必ずや記憶ごと上書きしてみせますわ」
「わ、私は、神仏の力で……いっそ、前世の縁切り祈願を毎朝……!」
桔梗の少し震えた声が続く。
その時、吉平の部屋の隅、分厚い木の衝立の向こう側から、栞のひんやりと澄んだ声が落ちた。
「すてきなお話ですわね。時間を超えた愛ですか……」
暗闇の中でも、彼女がふっと余裕の笑みを浮かべたのが気配でわかる。
「でも私は自信がありますよ。それを引き裂く。……ふふっ」
(……栞さん、木が分厚くて顔なんて全然見えてないし、絶対真っ暗闇の中で真顔で言ってるよな……)
吉平が少し背筋に冷たいものを感じつつも、内心ツッコミを入れた、その時だった。
『……むにゃ……』
天井裏から、微かな寝息とともに呟きが降ってきた。
『……前世の女……天井裏から毎晩……額に冷たい水滴を……一滴ずつ落としてやる……地味に寝不足で、肌荒れ…すやぁ……』
「美影は寝てるのか…しかし嫌がらせが忍びらしくて陰湿だな……」
やがて、再び家の中は優しい雨音と静寂に包まれた。
吉平は一人、布団の中で天井を見上げ、自分の胸元にそっと手を当てた。
「前世、か……」
暗闇の中で、ぽつりと呟く。
思い出すことはできない。顔も、声も、名前も。
しかし、「誰かを助けたかった」というあの強烈な願いの裏側に、ほんのわずかだけ、自分に向かって微笑みかけていた『誰か』の気配があったような気がしてならなかった。




