第41話「幻の『病牛』を探せ」
吉平の脳内は、焦燥感と無力感でショート寸前になっていた。
いくら知識があっても、ここには顕微鏡も注射器もない。何より、ワクチンの素となる「牛痘にかかった牛」を見つけ出さなければ、すべては机上の空論で終わってしまう。平安時代において、牛は農作業用というよりも、上級貴族が乗る「牛車」を引くための極めて高価で貴重な生き物だ。そう簡単に見つかるはずがない。
(くそっ……俺一人じゃ、手がかりすら掴めないのか……)
吉平がギリッと唇を噛み締めた、その時だった。
パンッ!
静まり返った部屋に、乾いた音が響き渡った。
顔を上げると、サチが両手で自分の頬を勢いよく叩き、赤くなった顔をぐっと上げて吉平を見据えていた。さっきまで流していた涙は、もう袖で乱暴に拭い去られている。
「泣いてたって、病気は逃げてくれないわよね。……吉平は言ったわ。発症させない方法が、どこかにあるはずだって」
サチのその言葉を合図にしたかのように、他の三人も次々と顔を上げた。
「ええ、そうですわ。吉平様がただ絶望して諦めるようなお方ではないことくらい、私が一番よく知っております」
葵はいつもの冷静な顔を取り戻し、懐から分厚い帳簿の束を取り出してバサッと机に広げた。
「師匠の御心に迷いが生じているなら、弟子の私が霊的な道標となるまで。さあ師匠、その『方法』とやらには何が必要なのですか? いかなる供物でも、この桔梗が用意してみせましょう」
桔梗も震える手を隠すように、胸の前で印を結んで見得を切る。
「私には難しい医学はわかりません。ですが、吉平様が望むものがあるなら、地の果てからでも盗み出してまいります」
美影はクナイを片手に、静かに、だが確かな闘志を瞳に宿して吉平の横に片膝をついた。
吉平は目を丸くした。
彼女たちは、ただ吉平の保護に縋って泣くだけの弱い少女ではなかった。自分の命を脅かす死神に対して、それぞれの武器を手に取り、真っ向から立ち向かおうとしているのだ。
「……お前ら、本当にすごいな」
吉平は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。彼女たちのこの強さがあるなら、不可能なことも可能にできる気がした。
「俺が探しているのは、牛だ。それも、ただの牛じゃない。乳の周りに、少しだけ赤い発疹や水ぶくれができている『軽い病気にかかった牛』を探し出したいんだ」
吉平の言葉に、四人は一瞬きょとんとした。
「病気に対抗するのに、牛? しかも病気の?」サチが首を傾げる。
「ああ。人間にとっては致命的な疱瘡も、牛にとっては微熱が出る程度の軽い病気にすぎない。その『牛の病気』をわざと人間に移すことで、体の中に本物の疱瘡を跳ね返す『見えない盾』を作ることができるんだ。俺の故郷では、そうやってあの病を完全に絶滅させた」
吉平の説明を聞き、葵の目の色が変わった。
商人としての彼女の頭脳が、瞬時にその情報を処理していく。
「……なるほど。理屈は理解の範疇を超えていますが、吉平様の故郷の叡智ならば間違いありませんわね。牛、それも乳に発疹のある個体……」
葵は帳簿のページを高速でめくり、ある一点を指差した。
「心当たりがありますわ。隣の荘園を治める貴族の牧で、最近『牛の乳が出にくくなった』という理由で、数頭の牛が隔離されたという記録があります。我が商会が飼料を卸している牧です」
「だが葵様、貴族の牧となれば警備も厳重でしょう。ましてや病の牛となれば、穢れを恐れて容易には近づけないはずです」吉平が身を乗り出す。
「そこは陰陽の理が導いてくれます」
桔梗が自信満々に地図の上に呪符を置いた。
「病牛という強い穢れを隔離する場合、彼らは必ず『鬼門(北東)』の方角にある古い小屋に隠すはずです。当時の貴族の思考など、陰陽寮の基礎を学んだ私には手に取るようにわかります」
「場所と方角が分かれば、あとは私の独壇場です」
美影がスッと立ち上がった。
「日の入りと共に潜入し、牛の乳の状態を確認してまいります。もし発疹があれば、鳴き声一つ上げさせずに牛を確保し、裏道からこの家まで連れてきましょうか?」
「いや、牛ごと盗んだら大騒ぎになってしまう。必要なのは、その水ぶくれの中にある『少量の膿』だけなんだ。俺が竹筒と小刀を煮沸して持っていくから、美影、夜になったら俺をその牛のところまで案内してくれないか?」
「吉平様自ら!? 危険です、私が行きます!」
「駄目だ。膿の採取には医学的な見極めがいる。本物の天然痘と見間違えたら大惨事になるんだ。それに、俺一人じゃ牛を大人しくさせられないし……」
「それなら私の出番ね!」
サチが力強く胸を張った。
「村の農耕馬の世話で、大きな動物の扱いは慣れてるわ。牛が暴れないように私が宥めるから、その隙に吉平が膿を取ればいいのよ!」
葵の商人の情報網で対象を特定し、桔梗の陰陽道の知識で場所を絞り込み、サチの動物の扱いで確保し、美影の忍びの技で潜入と退路を確保する。
四人の知識と特技が、吉平の持つ現代医学のピースと完璧に噛み合った瞬間だった。
「……よし。日暮れと同時に、極秘のワクチン採取作戦を決行する」
死の恐怖に支配されていた部屋の空気は、いつの間にか熱気を帯びた反撃の狼煙へと変わっていた。吉平はすぐさま竈に火を入れ、採取用の竹筒と小刀の煮沸消毒に取り掛かるのだった。




