第40話「都から迫る死神…その名は天然痘」
春の足音が聞こえ始めたある日のこと。
吉平の村に、都から一人の行商人が逃げるようにやってきた。
彼の青ざめた顔と震える唇から語られたのは、春の訪れとは正反対の、身の毛もよだつような死神の噂だった。
「疱瘡だ……。都で、恐ろしい疱瘡が大流行している!」
その言葉を聞いた瞬間、吉平の隣にいたサチの顔から、さぁっと血の気が引いた。
疱瘡。後世において天然痘と呼ばれるその病は、この平安の世において最も恐れられる疫病の一つである。
「高熱が出て、全身に赤い斑点ができる。それがやがて醜い水ぶくれになって、顔も体も真っ黒な瘡蓋に覆われるんだ……。毎日何十人も死んで、死体を運ぶ荷車が足りないくらいだ! 生き残っても、顔には一生消えない醜い跡が残る。あんなもの、病じゃない。生きながらにして地獄に落ちる呪いだよ……っ」
行商人の悲痛な叫びに、その場にいた村人たちは絶望の声を上げた。
吉平の家に駆け戻ったサチは、土間に崩れ落ちるようにへたり込んだ。
「どうしよう、吉平……。疱瘡が来る。かかったら、顔がぐちゃぐちゃになって、死んじゃうの……?」
普段は誰よりも元気で気丈なサチが、自分の両腕を抱きしめてガタガタと震えている。
奥の部屋から飛び出してきた桔梗も、手に持った数珠を震わせていた。
「なんという事でしょう……。星の巡りが悪いとは思っていましたが、これほど巨大な死の穢れが都を覆っているとは。私の霊力など、あの病魔の前では紙切れ同然です……」
常に自信満々な陰陽師の面影はなく、ただ死の恐怖に怯える一人の少女の顔だった。
葵は商会からの密書を握りしめ、青白い顔で吉平を見つめた。
「吉平様……。私の実家からの知らせでも、事態は深刻を極めていると。貴族の屋敷でも次々と感染者が出て、誰も外に出ようとしないそうです。この村に病魔が届くのも、時間の問題かと……」
そして、天井裏から音もなく降りてきた美影でさえ、その目は恐怖で見開かれていた。
「私は忍びとして、いつ命を落としてもいいと覚悟していました。けれど……あのように全身を蝕まれ、醜い姿へと変わり果てて死んでいくのは……嫌です、絶対に嫌です……っ」
四人の少女たちは、すがるような目で吉平を見た。
これまで、寒さも、不衛生も、怪我も、すべての問題を吉平の不思議な知識と知恵が解決してくれた。だからきっと、この恐ろしい呪いも、吉平ならなんとかしてくれるのではないか。そんな淡い期待が、彼女たちの震える瞳に宿っていた。
しかし。
吉平は、ゆっくりと首を横に振るしかなかった。
「……ごめん。俺には、疱瘡を治すことはできない」
「えっ……」
「医者になるための勉強をしてきたから、わかるんだ。あれは呪いじゃない。目に見えない小さな『病の種』が人から人へ移って増殖していくんだ。そして……一度その種が体の中で芽吹いて熱を出してしまったら、俺の知識を使っても、どんな薬を使っても、絶対に治せない。あとは、自分の体の力が病気に勝つか、負けるか、それを見守ることしかできないんだ」
現代の最新医療をもってしても、天然痘ウイルスを死滅させる特効薬は存在しない。発症してしまえば致死率は極めて高く、生き残っても全身に重篤な後遺症を残す。医学生である吉平だからこそ、その病の「真の絶望」を誰よりも深く、残酷なまでに理解していた。
吉平の言葉に、部屋の中を完全に死の静寂が支配した。
サチは両手で顔を覆って泣き崩れ、桔梗はへたり込み、美影は青ざめて俯き、葵は唇を噛み締めて目を伏せた。
「だけど……!」
吉平は拳を強く握りしめ、震える四人の肩を包み込むように見回した。
「発症したら治せない。だけど、そもそも『病の種を体に入れない』、あるいは『種が入っても発症させない』方法が、どこかにあるはずなんだ。俺の故郷では、その病はもう完全にこの世から消え去っているんだから」
そうだ、考えろ。
人類はどうやってあの悪魔のようなウイルスに打ち勝った?
ジェンナーの牛痘法だ。牛にかかる軽い疱瘡の膿を人間に接種することで、本物の天然痘に対する強力な盾を作る。
だが、ここは平安時代だ。現代のような清潔な注射器もない。ウイルスの保存方法もない。もし間違えて本物の天然痘を植え付けてしまったら、俺の手で彼女たちを殺すことになる。
そもそも牛はどこにいる? この村に牛はいない。都の貴族が乗る牛車か、あるいは大きな荘園の農耕牛か。その中に、運良く牛痘にかかっている個体がいる確率はどれくらいだ。
吉平の脳内で、医学生としての知識と、平安時代の絶望的な環境が激しく衝突し、高速でシミュレーションを繰り返す。
恐怖に泣きじゃくる四人の少女たちの命と、その美しい笑顔を守るため。吉平は一縷の望みを懸け、歴史の闇に隠された「免疫」という名の光を探し求めて、深く暗い思考の海へと沈んでいった。




