第19話「倒れた少女と、灯火の油を喰らう狂気の沙汰」
都での石鹸の大商いから数週間。村はかつてないほどの活気に満ちていた。
吉平が持ち帰った白米や上質な麻布のおかげで、村人たちの顔からはかつての飢えと絶望の影が消え去っている。清潔な水と手洗いの徹底により、夏の厄介な感染症もすっかり鳴りを潜めていた。
だが、吉平は一つ、大きな見落としをしていたのだ。
ある日の真昼。じりじりと照りつける太陽の下、村の広場で突然、小さな悲鳴が上がった。
「小梅ちゃん! しっかりして、小梅ちゃん!」
サチの切羽詰まった声に、吉平は作業部屋から飛び出した。
広場の土の上に倒れていたのは、今年で七つになる孤児の少女、小梅だった。彼女は両親を疫病で亡くし、村の大人たちに育てられている。吉平の指導を誰よりも真面目に守り、小さな体で一生懸命に畑の草むしりなどを手伝ってくれる健気な子だ。
「吉平、どうしよう! 突然バタッて倒れちゃって……息がすごく浅いの!」
サチが青ざめた顔で小梅を抱き抱えている。
吉平はすぐに駆け寄り、小梅の首筋に指を当てて脈を診た。熱はない。だが、脈が弱く、手足は枯れ枝のように細く冷たかった。頬はこけ、皮膚はカサカサに乾燥している。
「……サチ、小梅を日陰に運んでくれ。水を少しずつ飲ませるんだ」
「わ、わかった。物の怪の呪いじゃないわよね?」
「ああ。これは病気じゃない。深刻な栄養失調……タンパク質と脂質の欠乏だ」
吉平は歯打ちした。
衛生環境が改善され、都から買った白米を食べるようになったとはいえ、平安時代の庶民のおかずは絶望的に貧相だった。基本は大根や青菜の塩漬け、たまに小さな干し魚が出る程度。
育ち盛りの子供が、夏の暑さの中で体を動かすための「カロリー」が決定的に足りていなかったのだ。
「吉平様。それならば、すぐに都の薬師を呼び、高麗人参などの滋養の霊薬を取り寄せましょうか。今の我が商会なら、いくらでも金は出せますわ」
騒ぎを聞きつけてやってきた葵が、冷静に、しかし心配そうな瞳で提案する。
だが、吉平は首を横に振った。
「葵様、ありがとう。でも、どんな高価な薬よりも、今の小梅の体に一発で効く『特効薬』があるんだ」
「特効薬、ですか? それはいったい……」
「肉と、油だ」
吉平の言葉に、周囲の空気がピタリと止まった。
「……お肉ですか? それに、油?」
葵が信じられないものを見るように瞬きをする。
当時の貴族や庶民にとって、四つ足の獣や鳥の肉は「穢れ」に近く、また匂いがキツくて硬い下等な食べ物とされていた。さらに「油」といえば、夜に火を灯すための燃料(灯油)であり、口に入れるものという認識は極めて薄い。
「吉平様、正気ですか。油は一滴で銅銭が飛ぶほどの貴重品。それを火を灯すためではなく、食事に使うなど……宮中の贅を尽くした宴でさえ、そのような狂気の沙汰は聞いたことがありません」
「わかってる。でも、小梅の体には今、圧倒的な熱量が必要なんだ。俺が必ず、美味くて命を救う最高の料理にしてみせる」
吉平の真剣な眼差しに、葵は小さくため息をつき、そしてふっと微笑んだ。
「……わかりました。吉平様がそこまで仰るのなら、すべて手配いたしましょう」
こうして、平安の世に未曾有の食の革命を起こす、一杯の「油」が準備されることになったのである。




