第11話 時の奔流
――歴史に書かれなかった少女は、父を未来へ帰すことを選ぶ。
魏の史書に、彼女の名は残った。壹與。十三歳にして王となる。
だが、その少女が何を愛し、何を失い、そして最後に何を選んだのか。歴史は、何も語らない。これは、その「空白」にあった物語――。
一 光の治世
黄幢と詔書が倭に届いた日、壹與はまだ13歳だった。
魏から贈られた品々を前に、少女の目が輝く。「これが……母様が守ろうとしたもの……。倭がひとつになるための“言葉”なのね」
佐士が頷いた。
「剣も、弓も、兵の数も――国を治めるには足りない。だが魏の“言葉”は違う。それは諸国を動かす“理”だ」
壹與は詔書を両手で抱いた。
「わたし、学ぶわ。諸国の長の言葉も、魏の書も。すべて」
壹真は、そっと少女の頭に触れた。(この子は強くなる)母を継ぎ、倭を継ぎ――歴史を継ぐ。
そして、霧の立つ早朝。
壹與は高殿の最上段に立った。
「――私は倭の女王・壹與。ここに、倭の再統一を告げる!」
その声が谷を越えていく。幼き女王の治世が、本当の意味で始まった。
◇
それから三年。高千穂の谷を覆っていた霧は、以前ほど濃くなくなった。朝日が朱塗りの高殿を照らし、若い青葉を風が揺らしている。その高殿の縁側で――女王・壹與は、裸足のまま欄干に腰をかけていた。
16歳。少女のあどけなさを残しながら、すでに王の気品をまとっている。母・卑弥呼ゆずりの切れ長の瞳。風が吹くたび、長い黒髪が藍色の羽のように揺れた。
「……ふんっ!」
突然、壹與が欄干から飛び降りる。
「じょ、女王様!?」
見張りの兵が青ざめた。ドサッ。壹與は砂を蹴り、何事もなかったように着地する。
「大丈夫。毎朝の“儀式”みたいなものよ」
「心臓が持ちません!」
「そのうち慣れるって」
兵は慣れたくなかった。壹與は砂埃を払い、笑う。その笑顔には、卑弥呼の面影と、日向だった頃の母の柔らかさが同居していた。
泣きたい夜もあった。そんなときは誰にも見られない場所で、双月を眺めた。そして朝になれば、何事もなかったように笑う。それが女王・壹與だった。
玉座へ向かう途中、一人の男が待っていた。
「……父上様」
壹真だった。高校生だった少年は、この世界で二十年以上を生きている。目元に刻まれた影だけが、その年月を物語っていた。
「今日も早いな」
「女王が遅刻したら、倭が笑われるもの」
壹與は胸を張る。壹真は苦笑した。母親譲りの強さ。そして――父親譲りの無鉄砲さ。
「昨日の視察でね、帯方郡から馬が届いたの!」
「へえ」
「ものすごく気性が荒くて――」
壹真の顔が曇った。
「……まさか、乗ったのか?」
壹與が悪戯っぽく笑う。
「乗った」
「壹與!」
「ちゃんと降りたから大丈夫。ほら」
両腕を見せる。傷はない。だが壹真の心臓には悪い。
「女王が自分から危険なことをする必要はないだろ」
「女王だからこそよ」
壹與の目が変わった。
「私が強くなければ、誰が民を守るの?」
壹真は言葉を失った。もう、その瞳は完全に女王のものだった。
(強くなったな……)
嬉しい。それなのに、胸が痛む。
壹真は知っていた。自分はいつか、この少女の前から消える。この時代の人間ではない。時空の綻びが、たまたま彼をここへ留めているだけなのだ。
そして壹與も、どこかでそれを感じていた。だから彼女は壹真を、
「父様」
とは呼ばない。
必ず、
「父上様」
と呼んだ。たった一文字の違い。けれど、その一文字が二人の間を隔てる壁だった。
「ねえ、次の市の日、一緒に行かない? 帯方郡の布商人がね――」
壹與は楽しそうに話し続ける。(この時間が、ずっと続けばいいのに)壹真は、その笑顔を見つめていた。
だが――この穏やかな父娘の時間が、もう長く残されていないことを、二人はまだ知らなかった。やがて壹與は、壹真を抱きしめて初めて呼ぶことになる。
「……父様」
その一言にたどり着くまでの痛みを。まだ誰も知らない。
二 歴史の空白
倭は、少しずつ立ち直っていた。道を広げる。市を繋ぐ。
国と国との間に、人と物を行き来させる。地図板に置かれた小石が増えるたび、倭を結ぶ線も太くなっていった。
「道があれば、人も物も言葉も通う」
壹與は地図を見つめる。
「争いの火種だって、早く見つけられる」
「それが“女王の背中”ってやつだな」
壹真が言った。
「歴史の本には書かれないけど」
「……またそれ」
壹與が睨む。
「その“歴史の本”って言葉、時々すごく腹立つ」
「あー……悪かった」
「こっちは本の中じゃなくて、今を生きてるんだからね?」
そう言いながら、壹與は笑った。だが、その笑顔の向こうで。別の流れが、静かに動き始めていた。
その夏。雨が降るべき時に降らず、晴れるはずの日に豪雨が来た。稲は十分に実らない。獣が里へ下り、畑を荒らす。
「祟りだと言う者もおります」
評議の席で、伊都国の長が言った。
「卑弥呼様の墓をあの場所へ置いたため、“倭の魂が本来あるべき場所からずれた”と」
「本来あるべき場所……ね」
壹與は静かに呟いた。その言葉に、壹真は寒気を覚えた。
――本来。歴史の「本来」。壹真は知っている。
卑弥呼がいた。その後、壹與という少女が王になった。そして――
その先の記録が途絶える。(ここから先は……書かれていない)歴史の空白。
だが空白とは、本当に「何もなかった」という意味なのだろうか。評議が終わったあと、広間には壹與と壹真だけが残った。
「ねえ」
「ん?」
「私が女王になってからのこと……あなたの“本来の歴史”には書いてあるの?」
ついに来た。ずっと聞かれたくなかった問いだった。
「……断片だけだ」
「どんな?」
「卑弥呼のあとに壹與という女王が立った。倭の乱れをおさめ、魏へ使いを送った」
「それから?」
壹真は答えられない。壹與がじっと見つめる。
「それから先は?」
「……何も残ってない」
沈黙。虫の声だけが夜を満たした。
「そっか」
壹與は意外なほど静かに頷いた。
「何も書かれていないんだ」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
壹與は笑った。
「でも……少し嬉しい」
「嬉しい?」
「だって、“誰かの答え”を歩かなくていいんでしょう?」
壹與は燭台の向こうを見つめた。
「私が選んだ道が、そのまま最初の答えになるかもしれない」
その笑顔は、母によく似ていた。
「本に書かれた道を歩くより――まだ書かれていない場所を、一緒に歩きたい」
壹真の胸が締めつけられる。だが、頭の奥で別の言葉が響いた。
――歴史には、修正力がある。
黒縄が何度も告げた言葉。もし、その力が。この「空白」を、空白のまま残そうとしているのだとしたら――。
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