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第12話 失われた光――受け継いだ祈り、その先へ(最終話)

歴史はアニメでは語り尽くせない。

「失われた光」――邪馬台国最大の謎が、いま小説と音楽で甦る。

 戻った世界では、数分しか経っていなかった。

 けれど僕は、君の一生を覚えている。


 * * *


 一 光が戻る夜


 失われた太陽が、戻ってくる。


 舞台の前で、誰かがそうささやいた。壹真は息を止めた。


 十一月の高千穂。峡谷から冷たい霧が降りてくる。里山は赤と黄に染まり、吐く息は白い。


 山あいの小さな神社では、夜神楽が奉納されていた。拝殿を囲む風よけの向こうで、焚き火がはぜる。


 壹真は、観客の最後尾に座っていた。人々は甘酒の器を両手で包み、板張りの舞台を見つめている。


 今夜、目の前で語られるのは、天の岩戸の物語だった。


 天照大神が岩戸に隠れ、世界から光が失われる。神々は歌い、舞い、笑う。やがて、閉ざされた扉が開く。


 何度も聞いた神話だ。けれど、壹真にはもう、ただの昔話ではなかった。


 太鼓が腹の底を震わせる。あの谷に響いた戦鼓がよみがえった。


 笛が夜気を裂く。双つの月が昇った夜の冷たさが、肌の内側へ戻ってくる。


 隣に座る女性が、連れにささやいた。


「ほら、ここから。失われた太陽が戻ってくるところよ」


「暗闇から、光がね」


 ――失われた光。


 舞手が御幣を振った。白い紙片が舞い、灯りを受けてきらめく。


 その光を見つめながら、壹真は思い出していた。あの夏。ひとりで帰ってきた日のことを。


 * * *


 二 戻った世界では、数分


 土の匂い。焼けつくような日差し。


 次の瞬間、壹真は地面に叩きつけられていた。


 肺から空気が押し出される。視界が白く弾けた。


「おい、大丈夫か!」


 怒鳴り声の向こうに、ヘルメットが見える。蛍光オレンジのベスト。ブルーシート。測量杭。テレビカメラの三脚まで、元の場所にあった。


 発掘現場だ。


「壹真! ちょっと、何急にぶっ倒れてんの?」


 小春が駆け寄ってきた。聞き慣れた、少しハスキーな声。


「顔、真っ青。熱中症?」


 その横顔が、一瞬、あの女王に重なった。太陽のように強く、まぶしかった人に。


「ストレッチャー、持ってきます!」


 ユウタが慌てて走り出す。現場責任者の蒼真は、壹真の顔をのぞき込んだ。


「貧血か? さっきまで普通にしゃべってただろ」


 ――さっき?


 壹真は呼吸を整えようとした。けれど、胸の奥で二つの時間がぶつかっていた。


 もう一つの高千穂。歴史の奥に沈んだ、あの谷。


 そこで、二十年以上を生きた。


 朱塗りの高殿。祭祀場の石畳。戦で倒れた仲間たち。


 日向の笑顔。壹與の産声。初めて「父様」と呼ばれた日の、胸の震え。


 ほんの少し前まで、すべてが現実だった。


「……どれくらい、時間が経った?」


 かすれた声で尋ねると、小春が眉をひそめた。


「何の時間?」


「倒れてからなら、二、三分だぞ」


 蒼真が腕時計を見た。


 小春は壹真の前にしゃがみ込む。


「鏡が出て、みんなで騒いでたでしょ。ユウタのスマホがおかしくなって、あんたが『今、音しなかった?』って。その直後だよ」


 戻ってきたユウタも、うなずいた。


「マジで数分です」


 二、三分。


 壹真の中にある二十数年が、その短さに押しつぶされそうになった。


「救護テントに運ぶぞ」


 蒼真が手を差し伸べたとき、乾いた土の上で金属が鳴った。


「待ってください。鏡が――」


 大学附属博物館のアシスタント、花音の声だった。彼女はトレンチのそばにしゃがみ、掘り出された鏡を見つめている。


 泥にまみれた三角縁神獣鏡。その縁が、かすかに光った。


「今、光りましたよね?」


 花音が尋ねると、ユウタものぞき込んだ。


「レフ板の反射とかじゃないっすか?」


 壹真には、分かっていた。あの子の瞳に似た光だった。


(壹與……)


 呼びかけても、返事はない。


「本当に平気か?」


 蒼真の問いに、壹真はうなずいた。小春はまだ顔をしかめている。


「平気な顔じゃないんだけど。救急車、呼んでいい?」


「……水、もらえるか」


 差し出された水を飲み、壹真はゆっくり身体を起こした。


 身体が軽い。あまりにも、軽い。


 腕には、十六歳の女王を抱いた温もりが残っていた。なのに、ここには彼女の影も、匂いもない。


 その日は、熱中症ということになった。別の時間から帰ってきたなどと、誰も考えない。


 自分だって、信じきれずにいた。ただ、あの谷の夜風だけが、まだ鼻の奥に残っていた。


 * * *


 三 小春の呼びかけ


 八月の終わり。発掘現場のニュースが、テレビを少しだけにぎわせた。


〈邪馬台国の女王墓か?〉〈出土した鏡は、九州説を裏付けるのか〉


 画面では、教授たちが議論していた。


「鋳肌から見れば、国内製の仿製鏡ですな」


「いや、鋳型の系譜を見れば、魏からの下賜鏡でしょう」


 現場でも言い争っていた二人だ。テレビに出ても、変わらない。


 やがて、泥を落とした三角縁神獣鏡が大きく映った。縁には、細い刻線が走っている。


「『水行千里 陸行千里』と読めます。ただし、後世に加えられた文字の可能性があります」


 解説者の声を聞き、壹真は笑うに笑えなかった。


 後世。


 その一言で片づけられた線に、自分の知る世界があった。


 九月になると、学校が始まった。文化祭、体育祭、レポートの締め切り。日常は、待ってくれない。


 ある日の放課後。歴史研究部の部室で、小春がプリントを机に置いた。


「あの日、本当は何が見えたの?」


「何がって」


「鏡をのぞいたあと、いきなり倒れたでしょ。ただの貧血には見えなかった」


 机には「魏志倭人伝」のコピーと、邪馬台国の本が積まれていた。壹真は、その山を見たまま答えた。


「……タイムスリップしたって言ったら?」


 小春は鼻で笑った。


「やっぱり重症。厨二病って、治らないんだね」


「信じないのかよ」


「信じたら、あたしまで連れていかれそうじゃん」


 いつものやり取りだった。けれど、そのあと、小春は黙った。


 しばらく壹真の横顔を見ていた。やがてうつむき、髪の影に表情を隠す。


「……いっしん」


 壹真は息を止めた。外のざわめきが、遠くなった。


「……かずま、だろ」


 小春は顔を上げない。レポート用紙の端をいじる指が、わずかに震えていた。


「もし、本当に向こうで誰かに会ったなら」


 声が小さくなる。


「忘れられない人がいるなら……その人のこと、ちゃんと見届けてあげなよ」


 壹真は何も言えなかった。


「忙しいからとか、レポートがあるからとか。そういうので、ごまかすのは嫌だから」


 叱られているはずなのに、願いを託されているように聞こえた。


 次の瞬間、小春が分厚い資料を積み上げた。


「はい。纒向、平原、吉野ヶ里の比較。倭人伝のルートも。これだけあれば、書けるでしょ」


「……これ、全部?」


「タイムスリップする暇はあったんでしょ?」


 壹真は、少しだけ笑った。資料の端に並ぶ地名へ、目を落とす。


 宇佐。


 その二文字だけが、胸に引っかかった。理由は分からない。けれど、目を離せなかった。


「期限は文化祭のあと。ちゃんと書きなよ」


 小春は顔をそむけた。


「逃げずに。……向こうの誰かからも」


「小春。ありがとう」


 彼女の肩が、びくりと動いた。


「べ、別に。あんたが前向いて歩くなら、それでいいだけ」


 最後の言葉は、ほとんど聞こえなかった。壹真が聞き返す前に、小春は椅子を引いた。


「じゃ、教室戻るから!」


 いつもより早足の背中を、壹真は見送った。


(今日は、なんか変だな)


 それ以上のことには、気づけなかった。


 机に残った端末には、発掘の日の録音データがあった。あの瞬間の一秒だけが、空白になっていた。


 * * *


 四 ガラス越しの手がかり


 十月。大学附属博物館の特別展が告知された。


《失われた光――邪馬台国と空白の世紀》


 壹真は、その題名を見つめた。


(誰が、これを考えたんだよ)


 ポスターには、暗闇に浮かぶ鏡。その向こうに、復元図の高楼がかすんでいた。


 十一月の初め、壹真は一人で展示室を訪れた。


 中央のガラスケースに、あの鏡があった。斜めから当たる照明が、神と獣の文様に影を刻んでいる。


 解説には、こう書かれていた。


「三角縁神獣鏡。九州中部の古墳から出土。縁に「水行千里 陸行千里」と読める線刻あり。後世の加刻の可能性があり、詳細は不明。」


 壹真は、ガラス越しに鏡をのぞいた。


(……日向)


 その名を心で呼んだ瞬間、淡い影が浮かんだ。黒髪の女王。その腕に抱かれた、小さな少女。


 日向と壹與。


 瞬きすると、もう自分の顔しか映っていなかった。


 壹真は位置を変え、縁の刻線を確かめた。「水行千里 陸行千里」。ほかの線は、傷とも模様ともつかない。


 そこに、自分の名はなかった。


(これは、あの鏡じゃない)


 女王の社に納めた鏡は、別にある。今、どこに眠っているのだろう。


 出口近くで、小さなパネルに足が止まった。


「豊前・宇佐に関わる古鏡の伝承。類似する文様や銘文が語られるが、由緒・伝来・所在は未詳。」


 宇佐。また、その名だった。


 祖父が笑っていた顔を、ふと思い出す。


「うちは、宇佐のほうの家筋でな」


 壹真は売り場で、古鏡の拓本を刷った絵葉書を買った。白と黒だけの、粗い線。


 指でなぞると、肌の奥がざわついた。


 * * *


 五 高千穂から、宇佐へ


 ――そして今。高千穂の舞台では、天鈿女命が舞っている。


 太鼓。笛。神々の笑い声。閉ざされた岩戸が、少しずつ開いていく。


 壹真の目には、別の夜が重なっていた。


 日向が殺された夜。壹與の命の灯が、消えた瞬間。高殿の床にこぼれた血。最後に交わした言葉。


 そして、自分だけが鏡に押し出され、こちらへ戻った。


 その先を、「魏志倭人伝」は語らない。壹與がどう生き、どう死んだのか。あの夜、何が起きたのか。


 記録の途切れた時間。空白と呼ばれる世紀。


(でも、本当に何もなかったわけじゃない)


 壹與が守った人々は、どこかで生き続けたはずだ。子を育て、名を呼び、誰かのために祈ったはずだ。


 歴史書に残らない父母。名を知られない人々。


 その一人ひとりに、光があった。


(失われたんじゃない。ただ、見えにくくなっただけだ)


 拍手が境内を満たした。壹真は人の波を抜け、石段を下りた。


 隅では、子どもたちが輪になって遊んでいた。


「かごめ、かごめ――」


 神楽とは別の、子どもたちの歌。それでも、その輪が、かつて見た扉の形に重なった。


 あの世界で壹與たちが歌った声が、記憶の中によみがえる。


「籠の中の鳥は、いついつ出やる――」


 壹真は、涙がこぼれる前に歩き出した。


 翌朝、高千穂を発った。バスを乗り継ぎ、山を越えて北へ向かう。


 目指すのは、豊前・宇佐だった。


 * * *


 六 名を刻んだ鏡


 宇佐に着くころ、空は薄く曇っていた。駅前からタクシーに乗る。


「宇佐神宮まで、お願いします」


 運転手がミラー越しに尋ねた。


「観光? それとも、お参り?」


「……どっちも、です」


「いいところですよ」


 車は静かに走り出した。


 長い参道。朱塗りの鳥居。石段の先に、緑を背負った社殿が現れた。


 二之御殿には、比売大神が祀られている。卑弥呼と重ねる説を、壹真も本で読んでいた。けれど今は、答えを決めるために来たのではなかった。


 賽銭を納め、手を合わせる。


(ここで、誰かが祈り続けてきた)


 あの谷に立っていた祭祀場の柱が、心に浮かんだ。


 参拝を終えると、古い信仰資料を紹介する展示の案内が目に入った。壹真は、吸い寄せられるように建物へ向かった。


 展示室は、ひんやりしていた。太刀。古文書。絵馬。


 その一画に、古鏡の拓本が並んでいる。


「宇佐周辺伝承 古鏡拓本」


 中央には、「一号鏡」と表示された一枚。外側に、あの言葉があった。


「水行千里 陸行千里」


 さらに外縁へ、目を移す。細く崩れた線が、重なっていた。


「細線刻は判読不能」


 壹真には、読めた。


 ――壹真。


 古代の形に崩して刻んだ、自分の名だった。


(ここに、あったのか)


 鏡を鋳た日の記憶が戻ってくる。日向の即位に関わる鏡。そして、壹與の王としての証となる鏡。


 溶けた銅が、鋳型に流れ込む。職人の手に、小さな鏨が光る。


「あいつの名と……俺の名も、刻んでくれないか」


 あのとき、そう頼んだ。歴史のどこかに、父親として存在した証を残したかった。


 職人は怪訝そうな顔をした。それでも最後には、黙って鏨を打ち込んでくれた。


 その傷が、ここにある。


 壹真の視界が揺れた。拳が震える。胸の底に押し込めていたものが、一気にあふれた。


(守れなかった)


 日向も。壹與も。


 高殿の階段で、娘が言った。


「父様――愛してる」


 膝が、床へ落ちた。


「……ごめん」


 声を押し殺しても、止まらなかった。


「日向……壹與。俺、何もできなかった……」


 黒縄の声。佐士の絶叫。日向の最期の息。


 壹與が預けた、小さな灯。


「大人にしてやれなかった。海も……見せてやれなかった……」


 肩が震えた。


 あの子は、たった一人で命を燃やした。その最期を、歴史書は一行も伝えてくれない。


 名が残っていても、それだけでは足りなかった。壹與がどんな声で笑い、何を願っていたか。それを知る人が、この世界にはいない。


「忘れないから」


 壹真は、ガラスの向こうを見上げた。


「誰に笑われても、俺は忘れない。壹與……俺の娘……」


 最後は、言葉にならなかった。


 拓本の黒い線が、涙の向こうでにじむ。胸が痛い。けれど、その痛みだけは手放したくなかった。


 まだ、ここにいる。二人が生きた光は、消えていない。


 * * *


 七 父様、どうか生きて


 そのとき、光が揺れた。


 ガラスに映る照明が、白く伸びる。涙のせいかと思った。けれど、瞬きしても消えない。


 光は、ひとりの女性の形になった。


 白い衣。長い黒髪。額の小さな勾玉。


 日向だった。


 壹真は声を出せなかった。彼女はまっすぐこちらを見つめ、胸に手を当てた。


 ゆっくり、首を横に振る。責めてなどいないと、伝えるように。


「――ありがとう」


 壹真にだけ届く、かすかな声。


「日向……!」


 指を伸ばす。触れる前に、彼女の姿が透け始めた。


 その隣に、もう一つの光が浮かんだ。


 母と同じ黒髪。強く、美しく、少し気弱な笑み。


 壹與。


 娘は、壹真を見て微笑んだ。その声は、胸の奥へまっすぐ届いた。


「泣かないで、父様」


 涙が、また頬を伝う。


「私ね、最後まで幸せだったよ」


 壹與は、胸の前で両手を合わせた。


「生まれてこられて、よかった。あなたを父様って呼べて、母様の娘になれて……倭の人たちを守れて」


 壹真は首を横に振った。もっと生きてほしかった。もっと、見せたいものがあった。


 言葉にならない思いを、娘は見つめていた。やがて、少しお転婆な笑みを浮かべる。


「知ってる? 父様と一緒に歩いた三年間、私、世界一強いって思ってたの」


 世界一強い。世界一、愛されている。


 あのころと同じ、無邪気な声だった。


「だから、もう後悔しないで」


「……壹與」


「私は消えたわけじゃないよ。父様の世界にも、心にも、ちゃんと残ってる」


 淡い光が、娘の頬を照らす。


「どうか、生きてね。私と母様の分まで」


 胸の痛みに、温もりが混じった。


「あなたは、この時代に必要なんだよ」


 壹與は、最後に言った。


「愛してる、父様」


 白い光がほどけた。日向も、壹與も、細かな粒となって消えていく。


 壹真は両手で顔を覆った。涙は止まらない。それでも、胸の奥には灯が残っていた。


 失われた光ではない。受け継いだ光だった。


 しばらくして、壹真は顔を上げた。膝に力を入れ、ゆっくり立ち上がる。


(生きるよ)


 あの子が望んだ、この世界で。


 では、何をして生きるのか。


 歴史の空白を、自分の記憶だけで埋められるわけではない。けれど、あの人々が祈ったことまで、なかったことにはしたくなかった。


 誰かを守りたい。誰かに、もう一度会いたい。


 あの谷で受け取った願いを、今を生きる人へ渡したい。


 答えが、胸の内で形になった。


(……神職になる)


 人の祈りを受け取り、次へつなぐ。その道を、自分の時代で歩こう。


 すると、拓本に淡い金色が差した。黒墨の線が、かすかに波打つ。


(父様)


 聞き間違えるはずがなかった。


(大丈夫。私は、ここにいるよ)


 壹真は、息をのんだ。


(父様が選んだ道を歩いてくれるなら、私も母様も幸せだよ)


 光が、静かに明滅した。


(いつか、たくさんの人が、この鏡の前に立つよ)


 鏡の前に。


(そのとき、父様が伝えた光が、誰かの心に残る。だから……父様の時代で、生きて)


 金色が消えた。ケースの中には、黒墨の拓本だけが残った。


 壹真は、その線をもう一度見つめた。


「所在・伝来ともに未詳。拓本のみが資料として残る」


 実物の鏡がどこにあるのかは、分からない。自分が感じたことは、史実を証明するものでもない。


 それでも、受け取った言葉は確かに胸にあった。


「……ありがとう」


 日向に。壹與に。鏡を鋳た職人に。祈りを守り続けた、名も知らぬ人々に。


 展示室の入口で、柔らかな音がした。


「まだ、お客様がいらしたんですね」


 白い作務衣の初老の男性が立っていた。展示の案内を手伝う、地元の研究者だという。


 男性は壹真の隣に立ち、拓本を見つめた。


「鏡は、光を映すものですからね。昔の人が、そこに境界を感じたのかもしれません」


「境界……」


「この世と、向こう側。そのあいだに祈りを託したのではないかと、私は思うんです」


 門。壹與の言葉が、記憶の中で重なった。


 男性は、外縁の線へ目を移す。


「水行、陸行。距離を示す言葉ですが、眺めていると、人が何かを越える道にも見えてくる」


 壹真は、自分の胸に手を当てた。男性が、その横顔を見た。


「鏡に、何かご縁が?」


 すべてを話すことはできなかった。代わりに、今なら言える言葉があった。


「……祈りを、伝えたいんです」


 男性は、しばらく黙っていた。やがて、穏やかに微笑んだ。


「そうでしたか。その思いを、大切になさい」


 静かな声が、展示室に響く。


「祈りは、人が受け取り、次の人へ渡すことで、道になるのでしょうね」


 男性は拓本に一礼し、部屋を出ていった。


 足音が遠ざかる。壹真は、もう一度、黒い線を見た。


 一瞬だけ、金色に揺れた気がした。


 それでいいよ、父様。そんな笑顔を、胸の中に思い浮かべた。


 * * *


 八 ここから始める


 季節が巡った。


 進路を決める時期になり、壹真は調査票に書いた。


「神道系大学 神職養成課程志望」


 担任は目を丸くした。


「歴史学科か、考古学だと思ってたぞ」


「まあ……家の事情、みたいなものです」


 小春は、その答えを聞いてため息をついた。


「拗らせ方が、本格的になってきた」


 ユウタは真顔だった。


「イケメン神主って、バズりません?」


「お前、そこから離れろよ」


 壹真が言うと、二人が笑った。


 高校を卒業する日も、そんなふうに過ぎた。世界は、どこまでも普通だった。


 ただ、壹真がその先へ持っていくものだけが、前とは違っていた。


 ――数年後。


 宇佐神宮から遠くない、小さな古社。白衣に浅葱袴の青年が、境内を掃いていた。


 まだ学生の面影が残っている。けれど、その目には、歳月をくぐってきた静けさがあった。


 少し離れた場所で、若い神職たちが話している。


「新しく来た人、若いのに、妙に年季が入ってるよな」


「宇佐に縁のある家筋なんだって。先祖の記録をたどって、戻ってきたらしい」


 青年の名は、壹真。


 箒を動かしながら、本殿を見上げる。朝の光が、木々の隙間から屋根へ差していた。


 あの谷で見た夜明けに、よく似ていた。


(おはよう、日向)


(おはよう、壹與)


 毎朝、心の中で呼びかける。どこまで届くのかは、確かめられない。


 それでもよかった。


 二人が生きた時間に、自分は確かに触れた。その記憶を抱いて、今日も誰かの祈りを受け取る。


 箒を片づけ、拝殿の前に立った。静かに一礼する。


「今日も、ここから始めます」


 鏡面に、光が揺れた。黒髪の女王と、娘の微笑みが映った気がした。その後ろに、若い神職の横顔が重なる。


 失われた光。


 それは、紙の上からこぼれた時間だったのかもしれない。記録されなかった人々の、祈りだったのかもしれない。


 けれど、空白と呼ばれた場所にも、確かに光はあった。


 日向の光。壹與の光。それを受け取り、生きていく人々の光。


 高千穂から、宇佐へ。鏡の向こうから、こちらへ。


 たとえ覚えている者が、世界に一人だけでも。その生涯は、もう空白ではない。


 壹真は、朝の境内へ歩き出した。


 そのとき、社務所のテレビが地震速報に切り替わった。


 壹真は足を止め、少しだけ耳を傾けた。まだ、自分に関わる出来事だとは思わなかった。


 朝の光は、変わらず屋根を照らしている。


 その下で、地の底で。まだ名のない次の物語が、静かに目を覚まし始めていた。


「失われた光 Lost Light」 完


 * * *


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 あなたの心に残った場面や言葉があれば、応援コメントで教えていただけるとうれしいです。


 読み終えての評価やレビューも、これからこの物語に出会う読者への道しるべになります。

 また読み返したいと思ってくださった方は、作品をフォローしていただければ幸いです。


 書籍版や今後の制作については、プロフィール・近況ノートなどにまとめてご案内します。


【おことわり】


 本作はフィクションです。実在の地名・神社名が登場しますが、人物、出来事、展示資料、古鏡の伝来、神職や関係者の描写には創作上の設定が含まれます。


 宇佐神宮の由緒・祭神については、公式な説明を尊重しています。卑弥呼・壹與と比売大神を重ねる表現、古鏡や墓に関する連想は、物語上の仮説・幻想であり、史実や神社の公式見解を示すものではありません。作中の古鏡拓本や展示は、実在する展示資料の紹介ではありません。


 高千穂の夜神楽・天岩戸神話への描写は、地域の神話・民俗文化への敬意をもとにした創作です。「もう一つの高千穂」、童歌と儀礼の関連づけは幻想表現であり、実在の神社・保存会・観光団体の公式見解を示すものではありません。

「失われた光」は、Web小説と主題歌「Lost Light」が同時に紡ぐクロスメディア体験。

アニメではなく、“読む冒険”がここから始まる。

主題歌を聴く ➡ https://linkco.re/1SGztvQR

公式サイト ➡ https://sumikazama.com/novellostlight

記事全文・設定資料公開中 ➡ https://note.com/sumikazama


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