第82話・残酷な猶予
戦闘の余韻がまだ体に残っていた。
これまでにない量の残骸が、足元に無造作に散らばっている。人差し指の鈍い痛みが、引き金を引いた感触を繰り返し思い出させた。
政府軍の撤退を確認した直後、トリス通信が入った。
日本は今頃、昼食の時間だろうか——そんなどうでもいい思考が、頭の片隅をよぎる。
〔零士さん、聞こえていますか?〕
「ええ、ハッキリと」
〔そちらの状況はどうですか? アメリカ軍は……〕
「いや、まだですね。夕方ごろだと予測しています」
NATOとアメリカ軍の配備状況は、ジャックが観測してくれている。どうやら当初想定していたより、かなり遅れているらしい。時間にして五、六時間ほどだ。
この遅れが、命を拾うための時間になるのか。それとも、ただ絶望を深めるだけの残酷な猶予になるのか——今はまだ、判断できない。
〔えっと、零士さん……〕
「はい……」
〔あの、言い方が悪かったら謝ります〕
藤堂堅治の声がわずかに淀んだ。
〔そこから、生きて帰れる可能性は……どのくらいですか?〕
一瞬、呼吸が止まる。
まるで自分の命を値踏みされているような問い。可能性が極端に低かったら見捨てるのか?
……いや、ここには彼の妹もいる。その選択は無いと思いたい。
「それは、どういう意味です?」
〔ああ、すみません。伝えるべきかどうか、迷っている事があって〕
「……と、言うと?」
少し苛立っていたのは確かだった。戦闘直後ということも影響しているのだろう。彼の言葉に他意はないはずなのに、どうしても穿った見方をしてしまう。
しかし彼の口から出たのは、そんな邪推を一蹴するような一言だった。
〔織田さんはドゥラのスパイじゃありません〕
「――は?」
彼はなにを言っているんだ? 織田真理が裏切り者なのは明白なはずなのに……
〔彼女はあなたを助けようとして、今、角橋会長に拘束されています〕
「拘束? ちょっと待って……あの女が裏切り者だって、テロ組織の人間がはっきりと――」
〔その人間は、どこまで信用できるのですか?〕
「――っ」
〔ふざけているように聞こえますか? こちらも、かなり危険な状況なんです。だから今、伝えておくべきだと判断しました〕
「しかし……」
〔ほんの十秒でいいです。俺の言ったことを考えてみて下さい〕
ギリッ……と頭蓋骨に音が響いた。無意識に歯を食いしばっていたようだ。彼女がスパイじゃないのなら、一体誰がこのオレを罠にかけたというのだろう?
「じゃあ、誰がオレをこんな場所に放り込んだって言うんだ!」
〔零士さん、よく聞いてください。その裏切り者は――〕
直後、通信がプツリと途絶えた。
「え? ……藤堂さん?」
語りかけるも、ノイズすら聞こえてこない。完全に途切れている。なにかトラブルがあったのだろうか? ――ひとつだけ確かなのは、藤堂堅治は裏切り者が誰か知っているという事だ。
◇
「おい、張飛」
「これまた凄い剣幕ですねぇ」
HV倉庫に戻ると、メンテナンススタッフの中に張飛の姿を見つけた。オレは迷わず胸ぐらをつかみ、倉庫の裏に引っ張り出した。
「オレを騙しただろ!」
「……さて、なんの事でしょう?」
張飛の態度は、相変わらず飄々としていた。掴まれた襟を気にする様子もなく、ただ静かに胡散臭い顔をこちらに向けている。
「お前、織田真理が裏切り者だって言ったよな?」
「おだま……? ……はて?」
「とぼけんじゃねぇ!」
「いえ。言っていませんよ。私は、『発信機を入れた者』と言ったのです」
――ほんの一瞬、思考が止まった。張飛はそれを感じ取ったのか、わずかに目を細めた。
「角橋の現地スタッフの事ですが。眠くなりましたでしょ? 差し出された水を飲んで」
「まさか……あいつが……」
「あなたの勝手な勘違いですね」
「なんで違うって言わなかったんだよ」
「必要あります? そんな義務も権利もないのに」
握っていた力が、わずかに緩む。
倉庫の裏は少しだけひんやりとしていて、機械油の匂いが鼻を突いた。張飛の表情には、嘲笑も動揺もなく、ただ事実を淡々と突きつける冷徹さだけがあった。
「それよりもいいんですか?」
「……なにがだ」
「脱出のための打ち合わせですよ。私の命もかかっているのですから、しっかりしていただかないと」
正直、怒りが先に立って失念していた。だが、こいつに指摘されるのは、どうにも腹立たしい。
しかし一番許せないのは――無実の女性を裏切り者と決めつけ、嫌悪していた、自分自身だ。
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