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ファントム・シェイド ~5000マイルの絆~  作者: 幸運な黒猫
第六章:襲撃・暗躍・唐変木(日本)

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第69話・緊急コール

 一瞬。――ほんの一瞬だけ『ここにスパイが?』と頭をよぎったが、すぐにそれを振り払った。


「ま、それはないな」


 もし八神家(ここ)にスパイがいるのなら、その時は一切無抵抗で降参してもいい。俺は、そのくらい八神やその家族を信用している。


「藤堂さん、黒服が外にいるって本当?」


 声に振り向くと、ボートネックをルーズに着た織田さんが立っていた。ゆったりとしたオーバーサイズのTシャツからは、左肩が(あら)わにも覗いている。


 ……この蒸し暑さでは仕方がないと思うけど、もうちょっと警戒心を持って欲しい。 


 そんな心情を知ってか知らずか、織田さんはスッと俺の横にくると、慎重に外をのぞき始めた。


 月明りが彼女の輪郭を柔らかく照らし、シャンプーの香りがふわっと漂う。


 そして、大きく開いたネックラインからは白い胸元が……


 いや、見えていない。決して見ていない。俺は慌てて視線を窓の外に移し、ゆっくりと、そして静かに息を吐いた。


 深夜の静けさのせいか、自分の心臓の音が耳の奥で大きく響く。織田さんに聞こえていないかと、妙に気になってしまう。……なぜこんなに動揺するのか、自分でもわからない。


「……薄明りでよかった」

「なにか言いまして?」

「いえ、なにも」

「はあ……それで、どこにいるのです?」

「左の斜向(はすむ)かい、薬屋さんの看板の下です。あれはどう見ても昼間の連中の仲間ですね」

「じゃあ、やっぱり……拳銃を?」

「……多分」


 いや、持っているか持っていないかではなく、確実に持っていると考えて行動するべきだ。


「とにかく、これ以上ここに迷惑をかけるわけには……」

「おい、藤堂ぉ〜今更だろ。これ以上ないくらいどっぷりじゃんよ」


 女性陣を起こしに行った八神が、いつの間にかそこにいた。


「……すまん、八神」

「気にするな」

「そうは言っても……」


 ――そうは言っても、だ。『ここがバレるとは思わなかった』と言い訳はできるけど、八神家の人たちを巻き込んでしまった後ろめたさが消えるわけではない。 


 気にするなと言われて、本当に気にしないほど鈍感だったらどんなに楽だっただろうか。


 ……それはそれとして。


「八神、いつからそこにいたんだよ」

「いつからって、お前が真理ちゃんの胸元を凝視しているあたりから?」

「——ば、お前なにを言って」


 直後、織田さんは座ったままズズズと後ずさり、首元の隙間を塞ぐようにTシャツの襟をぎゅっと掴んだ。


「え~……」

「藤堂さん……見ました?」

「い、いえ、見てな……」


 織田さんの視線が俺を刺した瞬間――


「――ええ、バッチリ見てましたよ」


 八神が即座に言葉を被せてきた。


「藤堂の視線、完全に釘づけだったな」

「八神、マジでやめろって。見てないって、いませんて!!」

「……本当ですか〜?」


 織田さんのジト目が痛い。完全に濡れ衣だけど、それでも()()()()()()()()()()()、真っ直ぐに見返す事ができなかった。


 ――ガラッ


 その時、店舗入り口が開いた。


「え、親父さん?」


 覗いている窓の真下だ。左手に片手鍋を持ち、そして右手には麺棒を握っている。


「まさか、あれで戦う気か!?」


 年季の入った鍋が、街灯にギラリと鈍く光る。


「なにやってんだよ親父」


 八神が慌てて下に降りようとしたその時――


 カンカーン、カカカカン、カカン、カンカン……


 突然、親父さんが鍋を叩きはじめた。湿った夏の夜空に、どこか気の抜けた金属音が響き渡る。


 時間にして十数秒。その一定のリズムが三周目に入るころ、連鎖的に家々の明かりが灯りはじめた。二階の窓から顔を出す人、通りに出てくる人もいる。


 この状況は想定していなかったのか、黒服の男たちに明らかな動揺がみえる。それでもその場から離れないのは、角橋会長を恐れての事だろう。


 人殺しを命令するくらいだ。なにもせずに逃げ帰る事の代償を、彼らはよく知っているはず。


「下に行こう」


 俺たちが店舗に繋がる扉を開けた時、ちょうど親父さんが正面入口の鍵をかけ終えていた。


 テーブルの上には、ひと仕事を終えたボコボコの鍋が佇んでいる。明日はメニューから筑前煮が消えるのだろうか。


「バカ親父、なにやってんだよ。年考えろって……」


 八神が悪態をつくが、その声には心配が滲んでいた。親父さんはそんな息子の気持ちをよそに、麺棒で肩をトントンと叩きながら俺に聞いてきた。


「堅治、あれか?」

「ええ、俺の部屋にきた黒服の仲間だと思います」

「そうか……」


 その時、店の裏手にある勝手口がガチャリと開いた。一瞬身構えた――が、八神も親父さんも悠然としている。


 入ってきたのは、数時間前までここで飲んだくれていた、商店街のスケベ親父たち。


「おいおい、こんな夜中にどうしたよ?」

「緊急コールなんて初めて聞いたぞ」


 あのリズムは戦時中に危険を知らせる合図として、もう八十年以上も前に商店街で決めたものらしい。


 そのあとも自分の家のように無遠慮に、勝手口からどんどんと入ってくる人々。皆、ノコギリやバール、鉈などを手にしている。 


 この辺りの家々は裏庭が繋がっていて、板で仕切られているだけの構造。子供のころから家族同然に出入りしてきた彼らにとって、これが日常風景なのかもしれない。


 それにしても――


「物騒すぎないか? この商店街」



※ 裏庭が他の家と繋がっている構造は、『映画:男はつらいよ』で出てくる寅さんの実家・とらやのイメージです。

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