第36話・本質
細い路地を抜け、大通りを走り、監視の目を警戒しながら駅の近くにあるファミレスに飛び込んだ。
とりあえずでも人目があれば、敵もうかつに手を出してこないだろうと考えての事だった。
初夏とはいっても気温は高く、太陽は容赦なく照りつけてくる。そんな中を荷物を持って全力疾走するのは相当キツイ。ラグビーで鍛えた、体力自慢のこの身体でも、だ。
言問さんは普段から外回りで体力がついているのだろう、息は上がっているけどまだ少しは動けそうに見える。
「ふう……」
運ばれてきた水を一気に飲み干し、テーブルに備えつけてあるウォーターポットの水を半分くらい飲んだころ、言問さんが口を開いた。
「まさか、でしたね」
「ええ……」
本当に『まさか』としか言葉がでない。……あの織田女史がスパイだったなんて。突拍子もない話だけど、テロ組織の人間から聞き出した情報であればこその信憑性といえる。
「望月部長も……」
と話しながら、言問さんはスーツの内ポケットからタバコを取り出した。箱の下の方をトントンと叩いて飛び出た一本を咥える。
「織田女史が怪しいって言っていましたから」
「部長まで……」
昨晩は全く顔に出さなかったけど、部長までもがそう判断していたのか。あれだけ人間を見る目を持つ人の言葉なら……とは思うけど。
……ただ、それでも俺はまだ、織田女史がスパイだとは思えない。
「人の本質を見抜く人ですからね。判断に間違いはないと思いますよ」
ふ~、と煙を吐き出しながら、なぜか得意げな表情。
……なんだろう、この違和感は? 原因も理由もわからないけど、電話を受けた時からおかしな感覚がずっと残っている。
「織田さん、大丈夫でしょうか」
「まだそんな事を言っているのですか?」
「ですが、俺の知る織田さんとはかけ離れていて。あんな所に閉じ込めてきて、もしスパイじゃなかったらと思うと……」
望月部長の家で流した涙、そして零士・ベルンハルトと通信が繋がった時の涙。そのどちらもが、本当の涙に見えた。俺にはあれが演技だとはどうしても思えない。
「そもそも藤堂さんは、織田女史のなにを知っているのですか?」
――だから、確かめなければ。
「なに、と言われても……ん~、朝は弱いとか」
「はぁ?」
自分の目で見て、自分で判断するんだ。周りの状況を見て、味方の位置を把握して、瞬時に動く。そう、ラグビーの試合のように!
「でも、寝起き顔は完璧とか」
「ちょっと藤堂さん、それって……」
「あ、意外と抜けている所もありますね。テレビ見ながらコロッと寝ちゃうところとか」
言問さんがなにかを言いかけたその時、『ご注文よろしいですか?』と、ウエイトレスさんが注文の確認にきた。呼び出しベルを一向に押さず話し込んでいたからだろう。
「ちょっと、トイレ行ってきます……あ、自分はアイコーで」
動揺し、イライラしながらもテンション下がり気味の言問さん。ここまでわかりやすい反応をするとは思わなかった。
「ウェイトレスさん。ちょっと頼みがあるのですが」
俺はメニュー表を見ながら注文し、そして伝言を頼んだ。これで時間稼ぎができれば……
♢
「——織田さん、大丈夫ですか!?」
俺はマンションに全力疾走し、横倒しになったキャビネットを持ち上げてどかした。急いでドアを開けると、そこには膝を両手で抱え、目を赤く腫らした織田女史がいた。
ぐすん、と鼻を鳴らして涙を浮かべている。零士・ベルンハルトの事で泣いた涙なのか、それとも閉じ込められた事による涙なのか。乾いていないところを見ると多分後者だろう。
……俺の中で、ものすごく後ろめたい感情があふれた。
「立てますか?」
肩を掴んで抱き上げ、洗面台脇のスツールに座らせた。俺はちゃんと謝ろうと思い、織田さんの正面で片膝をつく。子供にそうするように、目線を合わせるために。
しかし、俺の目の前には彼女の胸。高さを合わせそこなった。——息を飲み、慌てて視線を上げる。
「藤堂さん……」
「は、はい」
俺の鳩尾に、力の入っていないパンチが飛んできた。
……華奢な手に握られた彼女の本音。痛みはない。しかし、どんなタックルを食らった時よりも、重く、胸に響いた。
「二度としたら……ぐすっ……許しませんから」
全く毒のない悪態。目と鼻を赤くした彼女が、俺にはたまらなく可愛く見える。
織田さんと丸一日以上、それも、飲んだり走ったりラブホテルに入ったりと、とにかく感情が近づく要因が沢山あった。だから『これも一種のストックホルム症候群なのだろうか?』などとくだらない事を思いもした。
だけど、今、俺が織田さんを信じるのにはもっと別の、確信に足る理由がある。
言問さんは、望月部長の事を『人の本質を見抜く人』と評価していた。その事に一切の異論はない。
――だが、だからこそ、だ。
本質を見抜いたからこそ、部長夫婦は織田真理という個人と長くつき合っているのであって、その彼女に対して『怪しい』などと簡単に言う人たちじゃない。そう感じていたのなら、俺の目の前でだろうと堂々と尋ねる人だ。
……俺は、最初から考え違いをしていたんだ。
※ アイコー
アイスコーヒーの事。スタッフ間の略称が何となく一般化してしまったらしい。昭和~平成初期に多く見られた。ちなみに関西では同じ意味でレイコー(冷コーヒー)と呼ぶ。
言問が何故そんな古い言葉を使っているのかは、その年代の人との付き合いが多いという背景がある為。
※ ストックホルム症候群
精神医学用語の一つ。 被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象。




