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ファントム・シェイド ~5000マイルの絆~  作者: 幸運な黒猫
第四章:虚言・怨恨・逆恨み(日本)

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第35話・あるわけがない

 オレは織田女史にタオルを手渡して、洗面所へ連れて行った。あの場で泣き崩れたのを、放っておくわけにいかなかったからだ。


 零士・ベルンハルトとは、落ち着いてからゆっくり話をすればいいのだから。


 しかし――。


「あ、あとな、零士」


 トリスでの通信は言問(こととい)さんに窓口としての力を発揮してもらっていた。いわば司会進行役だ。零士・ベルンハルトも気兼ねなく話せるだろう。


「ここにもう一人いるのだが」

〔もう一人?〕

「えっと、あの……あ、藤堂です。藤堂、堅治」

〔え……〕


 挨拶の後、お互いに無言になってしまった。彼もなにを話していいかわからないのだろう。


「あ、あの、本当に申し訳ないです。俺の代わりに拉致とか……」

〔いえ、気にしないでください。オレじゃなくても誰かがこうなっていたのですから〕


 そう言ってくれるのは、ありがたいけど……言葉通りに受け取ってよいのか、皮肉が入っていて反応しない方がいいのかわからない。


「望月部長から零士さんを助けるようにと、このトリスって通信装置を預かって……」

〔——そんな事より藤堂さん〕


 今、なんて言った? 彼は自分自身の命に関わる話を『そんな事』で流すのか? 


 それ以上に重要な話があるとは思えない。彼を救おうと、何人もの人が危ない橋を渡っている。少なくとも俺には、零士・ベルンハルトの一言が、織田女史や望月部長を軽んじる言葉に聞こえていた。


 周りの人に対する感謝ができないヤツなのかと、少しイラッとした時だ。彼の口から出たのは、俺がまったく想像すらしていなかった最悪の事態だった。


〔穂乃……あなたの妹、藤堂穂乃花(ほのか)さんがドゥラの捕虜になっているんです〕


 ――なんだって?


 一瞬で 頭が真っ白になった。穂乃花が……ドゥラに?


〔オレと同じころに拉致されたみたいですが〕

「冗談になってないぞ……」


 俺は、とにかく確認をしなければと、頭の中がいっぱいになっていた。


「すみません、ここちょっとお願いします」


 言問さんはスッと手を上げて『了解』の合図をすると、零士・ベルンハルトとの会話を続けた。


 背を向け、慌てて穂乃花の番号を探す。普段から親兄弟なんて“そこにいて当たり前”くらいに思っていたから、連絡なんて全然していなかった。


〔お客さまのおかけになった電話番号は、電波の届かない位置か――〕


 だから、こんなメッセージが家族の携帯から流れてくるなんて、思いもよらなかった。すぐさま、実家の番号を探す。


 大学生で一人暮らしをしているはずの妹が、たまたま実家にいる可能性なんてないに等しい。それでも『なにバカな事を言ってんの?』と悪態をついて欲しいとコールを続けた。が……状況は、なにも変わらなかった。


 結局、電話に出た母親も普段から穂乃花と連絡を取っていなかった。当たり前と思っていた日常が、実は非常に脆いものだったと痛感させられただけだった。


「あ、あの、零士さん……」

〔大丈夫です。絶対とは言い切れないけど、全力で守りますので〕

「お願いします……こんな事、頼める義理じゃないのに」


 零士・ベルンハルトが、自分の命を『そんな事』と斬り捨てたのは、俺の妹のためだった。


 そんな事も考えずに……いや、こんな事態を想像できる方がおかしいだろう。それでも、彼に対して『感謝ができないのか?』などと思った俺は、大馬鹿野郎でしかない。

 

〔それと、織田さんはそこにいますか?〕

「いや、今洗面所だけど。呼んでこようか?」


 水が流れる音がしている、多分顔を洗っているのだろう。生存すらわからなかった最愛の人と言葉を交わせたのだから、その感動は俺が量れるものじゃない。


〔——いえ、待ってください〕


 声のトーンが急に変わる零士・ベルンハルト。それまでも浮ついたところのない落ち着いた話し方だったけど、今は緊迫感のある雰囲気が漂っていた。


〔えっと……あの女には警戒してください〕

「織田さんにですか?」


 なぜ急にそんな事を言い出すのだろうか? それも『あの女』なんて呼び方までして。


 言問さんもそのひと言で、眉間にシワを寄せていた。


〔彼女はテロ組織のスパイです。ヤツらから聞き出しました〕

「まさか……騙されているんじゃないですか? 彼女ほど零士さんの事を心配している人はいませんよ」

〔あの女から渡されたお守りの中に、発信器が仕込まれていたんです。拉致する標的がわかるようにと〕


 ――嘘だろ? あの涙が演技だって? 


 まさかだけど、この状況で……いや、そうでなくても織田女史がスパイだなんて事は冗談で言える事ではない。ましてや戦地に放り込まれた零士・ベルンハルトが、自分で見て確認した話なのだから。


 ……それでも俺は信じる事ができず、言葉がでなかった。


「零士、一旦切るぞ」

〔はい、二人とも気をつけて下さい〕

「ちょっと、言問さん……」


 ここは、織田女史を連れてきてハッキリさせるのが先じゃないのか? そう言おうとした時にはすでに、言問さんが電源を落としていた。


 彼は手早くコード類をまとめ、部屋の隅に転がっていた俺のボディバッグに詰め込みながら、小声で話す。

 

「藤堂さん、逃げるんですよ」

「え……なんでです?」

「彼女がスパイなら、ここにいたら危険でしょ」

「危険って、女性一人ですよ? それにまだ織田さんがスパイって決まったわけじゃ……」


 言問さんは一瞬動きがとまり、驚いたような目で俺を見ると……ため息と共に作業を続けた。


「多分今頃、顔を洗うふりをして会社に連絡入れているんですよ」

「……え?」

「わからないかなぁ? 映画とかでよくあるでしょ。秘密を知った者を消す黒服とか」

「まさか。この日本でそんな漫画みたいな事があるわけないじゃないですか」


「——あるわけない事があったから、零士はあんな所に拉致されたんじゃないんですか?」


 確かにその通りだ、常識が通用する状況ではなくなってきている。『あるわけがない』って言葉は、現実から目を背ける為のごまかしなんだと言われた気がした。


 言問さんは周りを見渡すと立ち上がり、部屋の角にあるキャビネットに手をかける。


「そっち持って」

「は、はい……」


 二人でキャビネットを持ち上げ、洗面所のドアに立てかけて織田女史が出られないようにした。中から『どうしたの?』『なにをしているのよ!』と聞こえてくる。


 言問さんは俺にボディバッグを投げ渡すと、トリスを抱えて走り出した。


「多分この部屋にはすぐにヤバい連中がきます。もう戻れないと思って下さい」


 言問さんが言う事は正論だと思う。テロ組織とつながりがある会社の事だ。秘密を隠そうとするのなら、零士と繋がった俺たちを野放しにしておく事は危険なのだから。


「藤堂さん、どうしたのですか? 藤堂さん……」


 開かないドアを必死で叩きながら叫ぶ織田女史の声が遠くなっていく。彼女がスパイで仲間を呼んでいるとしたら、ここに留まるのは危険だ。


 だけど、ここまでする必要があるのか? 


 俺は、優柔不断なのかもしれない。


 この期に及んでまだ……迷いの中にいた。 

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