第10話・鬼
「す~~……っ……ふうぅ……」
美味い空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。ごみごみした東京では味わえない、なんとも香しく清々しい風が、体に染み渡るようだ。
キラキラと光を反射する山中湖。その先に見える富士山は、太陽を背に受けてその姿をくっきりと映し出す。初夏のこの時期は花が咲き乱れ、その雄姿は艶やかさを纏う。
そんな霊峰を間近に臨む風光明媚な場所に、角橋重工の富士吉田支社は立っている。
一般的に見れば、富士山を間近見ながら職務に従事できるという“最高の環境”に思えるかもしれないが、実際はかなりの激務に『山なんぞ観ている余裕はない』というのが現状だ。
♢
「お、藤堂じゃん。またデカくなったんじゃないか?」
真っ先に俺の姿を見つけ、背中をパンッと叩いたのは富士吉田支社の望月部長。技術開発部の責任者で、俺がここにくると色々と面倒を見てくれる。その上、いつも家にまで泊めてくれるありがたい存在だ。
出向社員は寮の空き部屋に放り込まれるのが通例だから、この人には本当に頭が上がらない。
「いや~、なんか昨日になって急に出張が決まってしまいまして」
「相変わらずだな、うちの会社は」
もう呆れるしかないと、部長は歯を見せる。
「ところでお前、いろいろと大丈夫なのか?」
「はあ、なんとか」
特に神妙な顔になる事もなく、さらっと笑いながら聞いてくるのは、俺にプレッシャーを与えないように配慮してくれているのだろう。
「そうか、ならいいや。今夜飲みながらでも聞かせてくれ」
「美郷さんの手料理が楽しみですよ」
「ただなあ……ひとつわからんのだが」
しかし、ここで急に気難しい顔になる部長。なにか引っかかる事でもあるのか?
「ん~、なんでお前が彼女と一緒にいるんだ?」
「……はい?」
言われて振り返ると、そこには織田女史が立っていた。
「うおっ……」
「あら、たまたまですよ、望月部長」
にこやかに返事をする織田女史。午前中は法事の体で、午後から合流予定のはずだったのに。……なんでいるのだろう?
「私は別件でお聞きしたい事がありまして」
「そうか。ま、理由はなんでもいいだろ。嫁も娘もよろこぶよ。泊っていくんだろ?」
「はい、そうさせていただきますわ」
「ところで……」
部長は俺と織田女史を交互に見て口を開いた。
「二人は同じ部屋がいいか?」
「「そういうの止めてください」」
図らずもハモってしまった。こんな風に織田女史を揶揄えるのはこの人くらいのものだろう。しかし彼女も負けてはいない。『セクハラ言質頂きました』と、部長をグサリと刺していた。
そのあと、俺は表向きの業務『エキスポ出展機の代替品検証』に入った。とはいえ、とってつけた口実なので、結局従来品で出展するしかないのはわかっている。
その間、雑談を装ってデータの提出先や最近の動向を探ったが、普段通りの内容しか得られなかった。
織田女史はといえば、『有給取っているんだから』と、部長の奥さんと子供を連れて河口湖に遊びに行ってしまった。
……なにをやってんだ? とその時は思ったが、彼女は彼女なりに考えての行動だったと、後で思い知らされる事になる。
その日の夕方、望月部長の家にお邪魔すると、テーブルの上にはすでに料理が並んでいた。ちょっとしたパーティー状態だ。
「二人が同時にくるなんて滅多にないから、気合入っちゃったよ」
と、デキる女全開の美郷さん。この人が部長の奥さんだ。
織田女史と同期だから、かなりの年の差婚。それでも部長は周りからの揶揄に対して、『たかだか二十歳の差なんて、すぐに追いつかれちまうよ』とわけの分からない力説でねじ伏せていた。
そして一人娘の葵ちゃんは、くりくりとした愛らしい目にプニプニほっぺが殺人的な可愛さ。つくづく、『母親似でよかったね』と思う。
「ところで、また身長伸びたんじゃない?」
「……夫婦で同じネタやらないでください」
ほのぼのと暖かい、そんな家庭だ。
しかし俺たちは、この状況を楽しむわけには行かなかった。社内の誰がスパイなのかわらかない以上、申し訳ないけど部長夫婦も疑惑の人として警戒しなければならない。
美味い料理をご馳走になりながら、しばらく歓談が続く。
「——あ、うっかり」
と声を上げたのは美郷さんだった。
「ごめんなさい、藤堂君はお刺身はダメでしたよね」
「駄目じゃないけどイメージが、その……」
「そういえば、正露丸でアニサキス倒せるってSNSで話題になってましたよ」
「さすがにそれは胡散臭いでしょ……」
聞いた事はあるけど、成虫には効果がないとか容量がわからないとか、色々と難点も多いって話だ。
「藤堂さんの皿にだけ、ワサビの代りに正露丸を乗せておいたら?」
このやりとりを横で聞いていた織田女史は、横目でこちらを見ながらニヤリと笑った。
「……あんた鬼か」
葵ちゃんは鬼……いや、織田女史によくなついていて、ものすごく嬉しそうにはしゃいでいた。俺は子供の扱いが苦手でいつもぎこちなく、結局主導権を握られるばかりだ。情けない。
やがて葵ちゃんが眠い目をこすり始めた頃だ。美里さんが優しく抱きかかえ寝室に連れて行くのを確認すると、部長は頃合いとみて話し始めた。
「……それで、二人がきた理由は、藤堂、お前と零士の件だろ?」
部長の目が、静かに俺たちを射抜いた。




