第9話 鏡花の温度
『魔法少女は結婚したい 〜最強すぎて婚活全敗のアラサー三人娘、今日も世界を救ってから合コンに向かいます〜』
第9話 鏡花の温度
「氷室、アポなしは困る」
赤城局長がデスクから顔を上げた。
防衛省魔法少女管理局。地下三階の局長室。窓はない。観葉植物が一つ、隅に置かれている。枯れかけている。赤城には、植物を育てる才能がない。人類を守る才能はあるが、鉢植え一つを守る才能はないらしい。
鏡花がドアを開けたまま、入口に立っていた。後ろに、ひまりとるる。三人揃って乗り込んできた。秘書が廊下で、「お止めしたんですが」と今にも泣きそうな顔をしている。
「座れ」
赤城が応接の椅子を三つ、手で示した。
「座らない」
鏡花が言った。
茶封筒をデスクに叩きつける。白城の渡した、代償リスト。続けて、あの金属装置を封筒の横に置いた。
「説明しろ」
赤城は封筒を見た。装置を見た。それから、鏡花の目を見た。
「どこで手に入れた」
「質問しているのは私だ」
鏡花の声が低かった。廊下を歩いていた職員が、思わず足を止めた。氷室鏡花が怒っている。それだけで、建物全体の空気が張りつめる。
赤城がネクタイを緩めた。五十代の、大きな手。白髪交じりの頭を、一度だけごしと掻いた。
「ドアを閉めろ」
鏡花が振り返りもせずに、後ろ手でドアを蹴った。ドアが閉まる。蝶番がぎいと悲鳴を上げた。
「壊すな。税金だ」
「説明しろ」
赤城が長い息を吐いた。椅子の背にもたれる。天井を見上げた。
「……知っていた」
三人の空気が、固まった。
「代償のことも知っていた。敵が誘導されていた可能性も把握していた」
ひまりの拳が握られた。るるは無表情だった。それが自然な無表情なのか、感情が出ないせいの無表情なのか、もう本人にもわからなかった。
「十六年間、黙っていたのか」
鏡花の声がさらに低くなった。
赤城が鏡花を見た。
「言えば、辞めるだろう」
「当然だ」
「辞めたら、代わりがいない。お前たちの代わりになれる魔法少女は十六年間、ただの一人も現れなかった」
「それは」
「お前たちが戦い続けたから、東京は守られた。横浜も守られた。日本が、守られた」
赤城が立ち上がった。鏡花より少しだけ背が高い。
「その判断が正しかったとは、言わない」
声が変わっていた。局長の声ではなかった。もっと個人的な、重たい声だった。
「外せば、街が滅ぶ。戦わせれば、いつかお前たちが壊れる。俺はその二つの間で、ただ立ち尽くしていた。進行を止める方法を探して……見つけられなかった」
ひまりが口を開きかけた。
その前に、るるが聞いた。
「この装置は、何ですか」
声が平坦だった。怒りで平坦なのではない。感情が乗らない、平坦さだった。赤城がるるを見た。その目が、一瞬だけ揺れた。
「次元裂けの発生を誘導する、周波数発振器だ。管理局の技術で製造されている」
「誰が使ったんですか」
「わからない。管理局内部の人間か、技術を持ち出した外部の人間か。今、調査中だ」
「調査中って……いつからですか」
「三年前からだ」
ひまりが、声を上げた。
「三年? 三年間ずっと、誰かにわざと怪獣を呼ばれてたってことですか。私たち、三年間、やらせの敵と戦ってたんですか」
「すべてがやらせとは断定できない。だが、一部が誘導されていたのは事実だ」
鏡花の拳が、テーブルを叩いた。
——音が、出なかった。
寸前で止めていた。テーブルの表面に、拳がただ触れているだけ。でも、鏡花の腕は小刻みに震えていた。
赤城が、その拳を見た。それから、鏡花を見た。
「鏡花。お前に話さなければならないことが、もう一つある」
「まだあるのか」
「二十年前にも、魔法少女がいた」
鏡花の震えが止まった。
「その子は浄化型だった。るると同じ能力系統だ。代償も同じ。感情の吸収。三年間戦い続けて、日本を守って――感情を、すべて失った」
るるが自分の左手を見た。光のない、指輪。
「今も、都内の施設にいる。体は健康だ。だが、何も感じない。笑わない。泣かない。怒らない。名前を呼んでも、返事をしない。生きてはいる。だが、その心はそこにいない」
赤城の声が小さくなった。
「俺は、その時の担当管理官だった。あの子を守れなかった。だから、お前たちの代償をずっと監視してきた。二度と同じことを起こさないために」
鏡花が口を開いた。もう答えを知っている口調で。
「……その魔法少女の名前は?」
赤城が鏡花を見た。長い間、見ていた。言うべきか迷う、その長さだった。
「氷室……薫」
——音が、消えた。
エアコンの音が消えた。ひまりの息が止まった。るるの手が固まった。
「お前の、姉だ」
鏡花は動かなかった。
三秒。五秒。十秒。
「……知っていた」
鏡花が言った。
ひまりとるるが、同時に、振り向いた。
「姉さんが魔法少女だったことは知っていた。私がまだ幼い頃に、いなくなったことも。母が夜になると泣いていたことも。姉さんがどこへ行ったのか、誰も教えてくれなかったことも」
鏡花の声は淡々としていた。まるで、報告書を読み上げるように。
「全部知っていて、私は――同じ道を、選んだ」
赤城が目を閉じた。
「底まで知っていたなら。姉がどうなったか、想像できたはずだ」
「姉さんを探すためだ」
声が、揺れた。
氷室鏡花の声が揺れた。十六年間ずっと一緒にいて、ひまりも、るるも、一度も聞いたことのない音だった。
「魔法少女になれば、管理局に入れる。管理局に入れば、姉さんの記録にアクセスできる。そう思った。……十六年、かかった」
鏡花の拳がテーブルから離れた。力なく、体の横に落ちた。
「会わせろ」
声が震えていた。震えているのだ。感情が、ある。鏡花には、まだ感情がある。
赤城がデスクの引き出しを開けた。古い変身コンパクトを取り出す。ピンク色。塗装が、あちこち剥げている。光を失っている。鏡の部分が白く曇って、もう何も映さない。
「薫のコンパクトだ。ずっと預かっていた」
鏡花が受け取った。
自分のコンパクトと並べてみる。鏡花のコンパクトは銀色で、まだ光っている。姉のコンパクトはピンク色で、死んでいた。
未来と、過去が。手のひらの上に並んでいた。
鏡花が椅子を蹴った。ドアに向かう。
「鏡花ちゃん」
るるが呼んだ。
鏡花は振り返らなかった。ドアを開けて、出て行った。
今度は、蹴らなかった。静かに開けた。
その、静かに開けたことのほうが、二人にはずっと怖かった。
ひまりが赤城を見た。
「施設って、どこですか」
「教える。だが、先に氷室を追え」
ひまりとるるが走った。
管理局の廊下を走り、エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がった。地下三階から屋上まで。ひまりの短い足が、途中でもつれた。るるが、その手を引いた。今度は、るるが引く番だった。
屋上のドアが開いていた。
鏡花がフェンスの前に座り込んでいた。
膝を抱えていた。氷室鏡花が膝を抱えている姿を、二人は初めて見た。いつもまっすぐ伸びている長い足が、小さく折りたたまれて、顔が膝の谷間に埋まっている。
両手に、二つのコンパクトを握りしめていた。銀色と、ピンク。光っているのと、死んでいるの。
ひまりが、隣に座った。
るるが、反対側に座った。
三人で、フェンスの前に並んだ。
東京の空が、広い。雲が、ゆっくり流れている。
管理局の屋上から見下ろす東京は、三人がいつも守ってきた街だった。
「鏡花ちゃん」
ひまりが言った。
「代償のこと、いつから知ってたの」
「白城の文書を読んだ時だ。自分の欄を見た」
声が膝に吸われて、くぐもっていた。
「感情の段階的喪失。最終段階――完全な無感情」
るるが息を呑んだ。
「姉さんと同じだ。姉さんは、最終段階まで行った。私も行く。時間の問題だ」
「鏡花ちゃん」
「姉さんを探すために魔法少女になった。姉さんと同じ代償を受けることも、覚悟していた。……だが、るるの分まで知った時に、計算が狂った」
鏡花が顔を上げた。
目が赤かった。でも、泣いてはいなかった。泣き方が、わからないのだ。涙の出し方を、体が忘れている。目は赤くなるのに、涙が出ない。壊れた蛇口みたいだった。
「お前たちに話すつもりはなかった。自分の代償は、自分で引き受ける。そう思っていた。でも、るるの代償を知って――黙っていられなくなった」
るるの目から、涙がこぼれた。
るるは、まだ泣ける。まだ感情が残っている。その事実が、今の鏡花には、何よりの救いだった。
「それでも、鏡花ちゃんは私たちに先に教えてくれた。自分のことは、後回しにして」
るるが、涙を拭きもせずに言った。
「るるのほうが緊急だった。それだけだ」
「それを、優しいって言うんだよ。鏡花ちゃん」
ひまりが、鏡花の肩にこてんと頭をもたせかけた。
「感情がなくなるって言ったけどさ。今の鏡花ちゃん、めちゃくちゃ感情あるよ。声、震えてるし。目、赤いし。私たちのこと、心配しすぎだし。メモを七回も書き直す人が、無感情なわけないでしょ」
鏡花が黙った。
「……それが本当の感情なのか、感情の模倣なのか。自分ではわからない」
「わからなくて、いいよ」
るるが鏡花の手を握った。光の消えた指輪の手で、鏡花の手を握った。
「わからなくても。鏡花ちゃんが、私たちのために怒って、心配して、メモを七回書き直してくれたのは事実でしょ。それが本物かどうかなんて、どうでもいい。鏡花ちゃんが、そうしてくれたっていうことが、大事なの」
鏡花が、ピンクのコンパクトを握りしめた。
「姉さんに、会いたい」
小さな、声だった。十六年間、一度も口にできなかった言葉のようだった。
「行こう」
ひまりが立ち上がった。スカートについた屋上の砂を、ぱんと払う。
「三人で行こう。鏡花ちゃんの、お姉さんに会いに」
「一人で」
「何言ってんの。三人に、決まってるでしょ」
るるが立ち上がった。鏡花の手を引く。
「一人にしないって、約束したばっかりだよ。もう忘れたの。鏡花ちゃん、記憶力いいくせに、都合のいい時だけ忘れるの、禁止」
鏡花が引っ張り上げられた。立ち上がる。
二人より背が高い。いつものように、二人を見下ろす形になる。いつもの構図だ。
でも、今は。今は、その二人が、鏡花を支えていた。
「耳、赤いよ。鏡花ちゃん」
「うるさい」
屋上のドアに向かって、三人が歩き出した。
ドアの前で、鏡花がふと足を止めた。
「屋上から出る前に、一つ言っておく」
「なに」
「さっきドアを蹴ったのは、蝶番に悪いことをした。帰りに修理代を払う」
ひまりが吹き出した。るるが笑った。
鏡花は、笑わなかった。でも、耳が、赤かった。
三人が管理局の建物を出た。
外で、白城が壁にもたれて立っていた。
手に、コーヒーを三つ、持っている。
「盗み聞き、してたんですか」
ひまりの声が、冷たい。
「していません。ただ、出てくるのを待っていただけです」
白城がコーヒーを差し出した。鏡花だけが受け取った。
「聞きましたか」
「聞いた。次は、お前の話を聞く番だ」
鏡花がコーヒーの蓋を開けた。湯気が、夕方の空気に立ちのぼる。
白城が頷いた。
「代償を止める方法は、あります。ただし、条件がある」
三人が足を止めた。
白城の目が、三人を順番に見た。ひまり。るる。鏡花。
「僕の話を、聞いてください。全部、話します。――薫さんのことも、含めて」
鏡花の、コーヒーを持つ手が止まった。
「姉を……薫を知っているのか」
「僕の父は生前、僕の管理局入りを強く反対していました。反対の理由を知ったのは、いくらか出世して、父が残した記録にアクセスできるようになってからでしたが。……父は、薫さんの最後の面会を担当したんです」
風が吹いた。東京の風。ビルとビルの間を抜けてくる、初夏の風。三人の髪を、同じ方向に揺らした。
「場所を変えましょう。長い話になります」
白城が歩き出した。
三人が、その背中を見ていた。
ひまりが、るるを見た。るるが、ひまりを見た。二人で、鏡花を見た。
鏡花がコーヒーを一口、飲んだ。
温かいはずだった。それを、温かいと感じられたかどうかは、鏡花にもわからない。でも今は、その曖昧さごと、前に進むしかなかった。
「行くぞ」
三人が、白城の後を追った。




