第10話 してほしいこと、三つ
「箱根についたら、最初に何する?」
ひまりがロマンスカーの窓に額をくっつけた。流れていく景色を、食い入るように見ている。見た目が完全に、遠足の小学生である。
「温泉」
鏡花が即答した。
「温泉の前にチェックインがあるよ、鏡花ちゃん」
「チェックインしてから温泉」
「お昼ごはんは」
「温泉の後」
「お土産は」
「温泉の後」
「全部温泉の後じゃん」
るるが笑った。
笑えた。今日は笑えている。
三人で箱根に向かっている。いつかの居酒屋の後、ひまりが予約した温泉旅行だ。あの時はまだ、代償のことも白城のことも知らなかった。世界が、もう少しだけ単純だった頃の約束。
でも、約束は約束だ。
昨日、白城からすべてを聞いた。
管理局の調査課が潰された経緯。代償の進行メカニズム。鏡花の姉、薫が収容されている施設の場所。そして――代償を止める方法。
代償を止める条件は、一つだった。
三人が魔法少女を引退すること。
変身コンパクトを返却し、指輪を外す。能力を完全に手放す。そうすれば、代償の進行は止まる。すでに失われた感情は戻らないが、これ以上は失わずに済む。
ただし、三人が引退すれば、東京を守る戦力がなくなる。
その問題を解決する方法がある、ようやく提案できる段階までこぎつけた、と白城は言った。詳細は来週話す、と。
だから、今日は考えない。
今日は温泉に行く。三人で温泉に入って、ご飯を食べて、夜更かしして、何も考えない日にする。そう決めた。
鏡花が決めた。
鏡花が自分からそう言い出したことに、ひまりとるるは驚いた。そして、喜んだ。鏡花は普段、そういうことを言わない。だから、これは良いことだ。そう決めた。
旅館は、古かった。
木造の二階建て。玄関に、打ち水がしてある。水の匂いと、古い木の匂いがした。仲居さんが三人を見て、一瞬だけ首をかしげる。大人二人と子供一人に見えたのだろう。ひまりが無言で免許証を出した。慣れている。
部屋は、十二畳の和室だった。窓から山が見える。緑が、深い。東京にはない色だ。畳の匂いが、すっと鼻に抜けた。
「温泉、行こう」
鏡花が浴衣に着替え始めた。チェックインから四十秒後の行動だった。
脱衣所で、三人が服を脱いだ。
ひまりは小さい。身長百四十センチ。ヒールを脱ぐと、いつもより小さく見える。
鏡花は高い。身長百七十三センチ。脱ぐと、骨格の美しさが際立つ。薄く、しなやかに筋肉がついている。戦闘で鍛えた体だが、モデルと間違われそうな体でもあった。
るるはすごい。身長百五十六センチ。胸が、すごい。それ以外に表現のしようがない。すごいのだ。
「るるさんと並ぶと、私の存在意義が問われる」
ひまりが自分の胸を見下ろした。見下ろすまでもなかった。
「ひまりちゃんは、可愛いよぉ」
「可愛いじゃなくて、セクシーって言われたい人生だった」
「鏡花ちゃんは、セクシーだよね」
「セクシーではない。筋肉だ」
「筋肉はセクシーだよ」
「そうなのか」
「そうだよ」
「知らなかった」
鏡花は本当に知らなかった。
露天風呂に出た。
湯気の向こうに、山がある。空が、広い。湯の温度が、完璧だった。岩に囲まれた湯船に、夕暮れ前の光が淡く差している。
「あー」
ひまりが湯に沈んだ。鼻の下まで浸かる。目だけが、出ている。完全に、カピバラだった。
鏡花が湯の温度を手で確かめた。
「四十二度。適温だ」
偵察報告みたいに言う。
るるがタオルを手に取った。反射的に、ひまりの背中に手を伸ばそうとする。
「るるさん」
ひまりが、その手を止めた。
「今日は、るるさんが洗ってもらう日だよ」
「え、でも」
「座って」
ひまりの声が、いつになく強かった。百四十センチから発せられる、命令。
るるが戸惑った。
「ひまりちゃん、私がやるよ」
「だめ。今日は、るるさんは何もしない日。鏡花ちゃん、シャンプー取って」
「了解」
鏡花がシャンプーを渡した。二人がかりで、るるの背中を流し始める。ひまりが背中の上半分、鏡花が下半分。その分担が、戦闘フォーメーションとまったく同じだった。
「二人とも、力が強い」
「戦闘用の筋力だから、加減が難しい」
「痛いって言ってるの、鏡花ちゃん」
「すまない。調整する」
るるの肩から、ふっと力が抜けた。
誰かに背中を流してもらうのは、いつ以来だろう。思い出せない。子供の頃、母にしてもらって以来かもしれない。
温かかった。
湯の温度ではなく、二人の手が温かかった。
「るるさん、気持ちいい?」
「うん」
声が小さかった。
「もっと、大きい声で言っていいよ」
「気持ちいい」
少し、大きくなった。
「もっと」
「気持ちいい」
笑った。三人で笑った。
露天風呂の湯気が、山に向かってゆっくり立ち上っていた。
夜。
旅館の夕食を食べた。刺身と、天ぷらと、茶碗蒸し。
鏡花が茶碗蒸しを三杯食べた。好物だったらしい。十六年間、知らなかった情報だ。
「鏡花ちゃん、茶碗蒸し好きだったの?」
「嫌いではない」
「それを好きって言うんだよ」
「そうか」
「今度、作ってあげる」
部屋に戻ると、布団が三組、敷いてあった。
真ん中が、るる。両側に、ひまりと鏡花。十六年間、変わらないフォーメーションだ。
るるが鞄からメモ用紙を取り出した。
折り目がついている。冷蔵庫にずっと貼ってあった紙だ。白紙のまま。
「これ、カウンセラーの木下さんに出された宿題なの」
るるがメモをテーブルに置いた。
「してほしいこと、三つ」
ひまりと鏡花が、黙って聞いていた。
「ずっと、書けなかった。何がしてほしいのか、わからなかったの。考えようとすると、頭が真っ白になる。いつも誰かのために動いてたから、自分のためにっていう回路が、なくて」
るるが指先でメモの角をなぞった。
「でも最近、少しだけわかってきた」
ペンを取った。
手が震えていた。
「一つ目」
書いた。
『頭を撫でてほしい』
文字が丸い。るるの字だ。
ひまりが黙って、るるの隣に移動した。
「二つ目」
『大丈夫だよって言ってほしい』
鏡花が立ち上がった。テーブルを回って、るるの反対側に座る。
「三つ目が、出てこないの」
るるがペンを止めた。
「二つは、書けた。でも三つ目が、わからない。何がしてほしいんだろう。私は、何がしてほしいんだろう」
目が潤んだ。
鏡花の手が、るるの頭に乗った。
不器用だった。撫でるというより、押していた。力の加減ができていない。るるの首が、かくんと傾いた。
「痛い」
「すまない」
力を弱めた。今度は弱すぎて、ただ手を頭に置いているだけになった。
「鏡花ちゃん、中間がないの?」
「ない。戦闘以外の力加減を、習得していない」
ひまりが、るるの手を握った。
「大丈夫だよ、るるさん」
「ひまりちゃん」
「大丈夫。るるさんは大丈夫。笑えなくなるかもって言ってたけど、今日めっちゃ笑ってたよ。温泉で笑ってたよ。茶碗蒸しで笑ってたよ」
「茶碗蒸しで笑ったのは、鏡花ちゃんが三杯食べたからで」
「理由なんて、なんでもいいの。笑えたことが大事なの」
るるの目から、涙がこぼれた。
泣けた。
まだ泣ける。感情は、まだある。薄くなってはいるけれど、消えてはいない。
鏡花の手が、まだ頭の上にあった。力加減はめちゃくちゃだったが、温かかった。
「三つ目」
るるがペンを取った。涙で字がにじんだ。
『一人にしないでほしい』
書いた瞬間、左手が光った。
指輪だった。
ずっと暗かったるるの指輪が、微かに光っていた。蛍みたいな、弱い光。でも、確かに光っていた。
三人が左手を見た。
「光ってる」
ひまりが呟いた。
「なんで?」
わからなかった。なぜ今、光ったのか、三人にもわからなかった。
でも、光っていた。
るるがメモ用紙を両手で持った。三行の宿題。涙でにじんだ、丸い字。
「書けた」
笑った。
泣きながら、笑った。
鏡花が手を下ろした。
「よくやった」
短い言葉だった。でも、声が柔らかかった。鏡花の声が柔らかくなっていることに、鏡花自身が気づいているかは、わからなかった。
ひまりが、るるに抱きついた。百四十センチが百五十六センチに抱きつくと、ちょうど胸のあたりに、すっぽり収まった。
「るるさん。ずっと一緒にいるからね。私も、鏡花ちゃんも」
「一人にしない」
鏡花が言った。
「約束する」
るるが、二人を抱きしめ返した。今度は二人の世話を焼くためではなく――自分が、してほしかったことを、してもらうために。
布団に入ったのは、深夜一時だった。
枕元にスマホを置く。
白城からメッセージが来ていた。三人のグループに、送られている。
『代償を止める条件について。三人が魔法少女を引退すること。ただし代わりの戦力がいない現状では、防衛に穴が開く。その解決策を、僕が持っています。来週、詳しく話させてください』
ひまりが天井を見上げた。
「引退したら……普通の女の子に戻れるかもしれない」
静かな声だった。
あの時も、同じ言葉を言った。婚活の「戦果」を報告した、あの居酒屋で。
あの時は逃げたくて言った。今は、違う。今は、現実の選択肢として言っている。
鏡花が布団の中から答えた。
「戻りたいか?」
「鏡花ちゃんは?」
「姉さんに会ってから決める」
るるが布団の中で寝返りを打った。
「私はね、前は戻りたかった。普通の女の子に。普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に誰かのお嫁さんに、なりたかったの」
「今は?」
「わかんない」
正直な答えだった。
「普通に戻るって、この指輪を外すってことでしょ。この指輪、外れないんだよ。外れないものを外すって、自分の一部をちぎるみたいで」
「るるさんらしい」
「何が」
「指輪を嫌いになれないところ」
るるが笑った。暗い部屋で、小さく笑った。
鏡花が目を閉じた。
ポケットの中の、二つのコンパクト。銀色と、ピンク。自分のと、姉のと。
来週、姉に会う。
十六年ぶりに、姉に会う。
感情をすべて失った姉に、何を言えばいいのかわからなかった。感情を失いかけている自分が、何を感じればいいのかも、わからなかった。
でも。
「鏡花ちゃんに、言ってなかったことがある」
るるの声が、暗がりに響いた。
「メモの裏に書いたの、読んでくれた?」
——鏡花ちゃんは優しい人だよ。私が決めたの。
「読んだ」
「反論は」
「認めません、だったな」
「そう。認めません」
鏡花は天井を見た。旅館の、古い天井。木目が、複雑な模様を描いている。
「認めないが、否定もしない」
「それ、認めてるのと同じだよ、鏡花ちゃん」
「違う」
「同じだよ」
「違う。論理的に異なる」
「はいはい」
ひまりは、すでに寝息を立てていた。遠足の夜に、真っ先に寝てしまう子供のようだった。
るるの呼吸も、だんだんゆっくりになっていく。
鏡花だけが起きていた。
左手を見た。自分の指輪は、まだ光っている。るるの指輪も、微かに光り始めた。
光が何を意味するのか、まだわからない。
でも、るるが三つ目の宿題を書いた、その瞬間に光ったことは覚えている。
——一人にしないでほしい。
鏡花は、布団の中で拳を握った。
来週、姉に会う。
三人で行く。
一人では行かない。もう、そういう約束をしたから。
窓の外で、虫が鳴いていた。東京では聞けない音だった。
普通の夜だった。
この普通が、いつまで続くかわからないけれど。今夜は三人で、箱根にいる。
それだけでよかった。




