第11話 光のないコンパクト
「姉に会いに行く。来てほしい」
電話の向こうで、ひまりが三秒、黙った。
「今、鏡花ちゃんが、来てほしいって言った?」
「言った」
「生まれて初めて?」
「初めてではない。たぶん」
「たぶん」
「幼少期に言った可能性がある。記録がないので、断定を避けた」
ひまりは電話を切った。
十二分後には鏡花のマンションの前に立っていた。九センチのヒールで走ってきたらしい。運動能力はすごいが、学習能力がない。
るるは十五分後に来た。手に紙袋を提げている。
「お姉さんに、手土産」
「施設に食べ物の持ち込みは」
「焼き菓子なら大丈夫だって、電話で確認した」
るるがいつの間に施設に電話したのか、鏡花は知らない。たぶん、鏡花から連絡を受けて、すぐだろう。世話焼きの速度だけは光を超える。
三人で電車に乗った。
都心から四十分。郊外の住宅街。駅から徒歩八分。
白い建物が見えてきた。四階建て。外壁に蔦が絡んでいる。
看板には「あさひ療養センター」とだけあった。陽だまりのなかで、静かに古びた建物だった。
受付で、名前を書いた。鏡花の字は角張っている。作戦書のような字だ。
「氷室薫さんのお部屋は、三階の302です。ここ数日、少し変化がありまして」
受付の看護師が言った。
「変化?」
「窓のほうを、向かれるようになりました。以前は、ずっと天井を見ていらしたんですが」
鏡花は何も言わなかった。エレベーターのボタンを押した。
三階。白い廊下。消毒液の匂い。窓から午後の光が静かに差している。
302号室。
ドアを、開けた。
白い部屋だった。
ベッド。テーブル。椅子が一つ。窓にカーテン。
花瓶に花が一輪。管理局が定期的に届けているのだろう。
部屋には生活の匂いがなかった。
誰かが暮らしている部屋ではなく、誰かが置かれている部屋だった。
窓際に、女性が座っていた。
車椅子。白い服。長い黒髪が背中に流れている。
母に似ている、と鏡花は思った。
女性は窓の外を見ていた。
看護師の言ったとおりだった。天井ではなく、窓を見ている。外の景色を見ているのか、ただ光のほうを向いているだけなのか、それはわからない。
ひまりが、息を呑んだ。
るるが、紙袋を握りしめた。
鏡花が部屋に入った。一歩。二歩。三歩。
姉の横に立った。
「姉さん」
声が、出た。思ったより、普通の声だった。
震えていない。震えないことが、怖かった。
感情が出ていないのか、押さえ込んでいるのか、自分でも、わからない。
「鏡花だ。覚えているか」
薫は、窓を見ていた。
目は開いている。瞬きもする。呼吸もしている。体温がある。心臓が動いている。
でも、そこにいない。
体はここにあるのに、薫という人間がここにいない。
ひまりの目が赤くなった。
るるが唇を噛んだ。
鏡花が薫の前に膝をついた。姉の手を取る。冷たかった。
初夏の手ではなかった。真冬の手だった。
血が巡っていないわけではない。感情が巡っていないのだ。
ポケットからピンクのコンパクトを出した。
魔法少女だった頃、薫が使っていたコンパクト。赤城から預かったもの。塗装が剥げている。鏡の面が白く曇っている。光を失っている。
薫の手にコンパクトを置いた。
薫の指がコンパクトに触れた。
反応は、なかった。
鏡花は話し始めた。
姉さんがいなくなった日のこと。母が泣いていたこと。父が黙り込んだこと。誰も、何も教えてくれなかったこと。
自分も、魔法少女に、なったこと。
「姉さんを探すために、変身した。管理局に入れば、記録にアクセスできると思った。……十六年、かかった」
棒読みでは、なかった。
いつもの報告口調でも、なかった。言葉が、溢れるように出ていた。止められなかった。止める気も、なかった。
「仲間がいる。二人。ひまりと、るる。今日、一緒に来た。姉さんに、会わせたかった」
ひまりが小さく手を振った。振ってから意味があるのかわからなくなって、手を下ろした。
るるが紙袋を持ち上げた。
「焼き菓子、持ってきました。鏡花ちゃんのお姉さんだから、甘いもの好きかなと思って」
薫は、窓を見ていた。
「姉さんは、甘いものが嫌いだ」
鏡花が、ぽつりと言った。
るるが紙袋を静かに下ろした。
「姉さん。私はもうすぐ、魔法少女を辞める」
鏡花の声が変わった。低くなった。
「遅くなった。本当に、遅くなった。でも、見つけた。姉さんを、見つけた」
薫の目が、動いた。
窓から、鏡花のほうへ。ゆっくりと。
見ている。
見ているのか、ただ目が動いただけなのか、わからなかった。
薫の唇が、動いた。
音になるか、ならないかの、震え。空気が、かすかに揺れた。
「きょう、か」
ひまりの手が口を押さえた。
るるの目から涙がこぼれた。
鏡花は、動かなかった。
動かなかったが、薫の手を握る力が強くなった。
「きょうか」
もう一度。今度は、もう少し明瞭だった。
鏡花の目から、涙が落ちた。
泣けないと、思っていた。泣き方を、忘れたと思っていた。
代償で感情が削れて、涙の出し方を、体が忘れたと思っていた。
出た。
熱かった。
涙が、こんなに熱いものだったことを、忘れていた。
「ここにいる。姉さん。鏡花は、ここにいる」
薫の指が動いた。
鏡花の手を、握り返した。弱い力。赤子のような力。でも、確かに、握り返した。
筋肉の反射ではなかった。
今度は、断定できた。これは反射ではない。姉が、妹の手を握っている。
鏡花は薫の手を両手で包んだ。
泣いていた。
声は出さなかった。涙だけが落ちていた。銀髪の隙間から涙が落ちて、薫のピンクのコンパクトの上に、落ちた。
コンパクトの曇った鏡の面に、涙の跡が残った。拭ったように、その部分だけ、少し透明になった。
光ったわけでは、ない。魔力が戻ったわけでも、ない。
でも、人の温もりが触れた場所だけ、鏡が、少し晴れた。
ひまりがるるの腕をつかんでいた。泣いていた。声を殺して、泣いていた。
るるもひまりの肩を抱いていた。泣いていた。
三人と一人が、白い部屋にいた。
二十年ぶりの姉妹が、光のないコンパクトを挟んで、手を握っていた。
帰り道。
三人で、電車に乗った。
鏡花の目は赤かった。ひまりの目も赤かった。るるは目が赤いうえに、鼻まで赤かった。
三人揃って目の赤い女が、電車に乗っている。周りの乗客が少しだけ引いていた。
誰も何も言わなかった。
電車は四十分走って、駅に着いた。
改札を出たところで、鏡花が立ち止まった。
「腹が、減った」
唐突だった。
ひまりが吹き出した。今日いちばんの、脈絡のなさだった。
「鏡花ちゃん、空気読まないにも、ほどがある」
「空気で、腹は膨れない」
「それは、そう」
三人で、ラーメン屋に入った。
カウンター席が三つ空いていた。鏡花が端に座り、真ん中にるる、反対の端にひまり。るるが自動的に真ん中に配置される。これは、十六年間変わらないフォーメーションだった。
鏡花が味噌ラーメンを頼んだ。ひまりが醤油。るるが塩。
ラーメンが来るまでの間に、鏡花が口を開いた。
「姉さんの指に、指輪がなかった」
ひまりが顔を上げた。
「そういえば」
「引退すれば、外せるということだ。引退すれば、代償の進行は止まる。姉さんが、その証拠だ」
るるがレンゲで水を飲んだ。緊張すると水を飲む癖がある。
「お姉さん、目が動いたよね。鏡花ちゃんを見た」
「ああ。医師も、変化があると言っていた」
「鏡花ちゃんの声が、届いてるんじゃないの」
「そんな、非科学的な」
「魔法少女が科学を語るの、さすがに無理があるよ」
ひまりのツッコミに鏡花が黙った。
ラーメンが来た。
鏡花が食べ始めた。速い。戦闘以外で鏡花が速いのは、ラーメンを食べる時だけだ。
三分でスープまで飲み干した。
「もう一杯、頼んでいいか」
「替え玉にしなよ」
「替え玉では足りない。もう一杯だ」
二杯目の味噌ラーメンが来た。
鏡花がそれを食べている間に、ひまりとるるは目を合わせた。
泣いた後に腹が減る鏡花を、二人は初めて見た。でも、それは鏡花の体が正常に動いているということだ。感情の後に、空腹が来る。当たり前の生理現象。当たり前であることが、こんなに嬉しいことは、なかった。
ラーメン屋を、出た。
夜になっていた。空に星は見えない。東京だから。
鏡花がスマホを見た。
白城からメッセージが来ていた。三人のグループ宛て。
『来週土曜、代替戦力の件で、全員集合をお願いしたい。場所は管理局。赤城局長にも、話を通してある。三人の人生に関わることなので、全員揃ってほしい』
ひまりが画面を覗き込んだ。
「白城さんと、顔合わせるのか」
複雑な顔だった。怒りと、怒りだけではない何かが混じっている。
「行くぞ」
鏡花が歩き出した。
「行くけどさ」
ひまりが後を追う。
「鏡花ちゃん、目赤いまま電車乗る? さすがに、もう少し落ち着いてから」
「目は赤くない」
「赤いよ。るるさんも、まだ赤いし。三人で赤い目のまま歩いてたら、ホラーだよ」
「ホラーではない。感情の発露の、結果だ」
「一般人には、ホラーなの」
るるが三人の真ん中に入った。右手でひまりの肩を抱き、左手で鏡花の腕を取る。
「二人とも、今日はうちに泊まらない? ……一人に、したくないの」
「私は、一人で大丈夫だ」
「私が、大丈夫じゃないの。鏡花ちゃんを、一人にしたくないの」
鏡花が、黙った。
「……泊まる」
小さな声だった。
ひまりが笑った。
「私も泊まる。でも、るるさん、朝ごはんは私たちが作るからね」
「ひまりちゃん、料理できるの?」
「目玉焼きくらい、できるよ」
「それだけ?」
「目玉焼きを、なめないで」
三人で歩いた。星の見えない東京の夜を、目の赤い三人が並んで歩いた。
明日は会議がある。白城がいる。赤城がいる。
聞くべきこと、決めなければならないことが、ある。
でも、今夜は三人で泊まる。
それだけで、十分だった。




