第8話 るるの指輪が消える日
「豊科さん、今日のお相手は、小学校の先生です」
結婚相談所のカウンセラー、木下さんが、資料を差し出した。
写真の男は、穏やかな顔をしていた。丸い眼鏡。少しくせのある髪。やわらかい笑顔。プロフィールの趣味の欄に、「読み聞かせ」と書いてある。小学校教師で、趣味が読み聞かせ。人格の良さが、写真から滲み出ているようだった。
「いい人、そう」
るるが言った。
木下さんが、ファイルを閉じた。
「豊科さん。前回の宿題、やってきましたか」
——してほしいこと、三つ。
「……まだです」
「まだ。先月も、先々月も、まだでしたね」
「すみません。考えてるんですけど、出てこなくて」
嘘ではなかった。考えている。毎晩、考えている。冷蔵庫に貼ったメモ用紙は、ずっと白紙のままだ。
「今日のお見合いで、一つだけ意識してください。相手のためじゃなくて、自分のために、何かしてみること」
「自分の、ために」
「たとえば、自分が食べたいものを注文する。自分が行きたい場所を提案する。小さいことで、いいんです」
るるは頷いた。
自分が食べたいもの。自分が行きたい場所。
簡単なはずだった。
簡単なはずなのに、考えようとすると、頭の中が真っ白になる。
お見合いは、日本橋のレストランだった。
落ち着いた照明の、静かな店。白いクロスのかかったテーブルに、磨かれたカトラリーが整然と並んでいる。相手の名前は、藤野慎一。三十四歳。目黒区の小学校で、二年生を受け持っているという。
「はじめまして、藤野です」
穏やかな声だった。写真のとおりの笑顔だった。
椅子を引いてくれた。水を注いでくれた。
るるより、先に。
「あ」
るるの手が、止まった。水差しに伸ばしかけた手が、宙に浮いている。
「すみません、つい。職業病で」
藤野が、照れたように笑った。
「子供たち相手だと、何でも先に動いちゃう癖がついてて」
るるは、目を丸くした。
自分より先に世話を焼く人間に、生まれて初めて出会った。
メニューを開いた。木下さんの言葉を思い出す。自分が食べたいものを、注文する。
パスタのページを見た。カルボナーラ。ペペロンチーノ。ボロネーゼ。
——どれが、食べたいだろう。
わからなかった。
いつもなら、どれでもいい。相手が選んだものに、合わせる。相手がパスタならパスタ。相手がリゾットならリゾット。るるの食事の選択基準は、いつだって、自分ではなく相手だった。
「豊科さんは、何にします?」
「え、あ、えっと」
メニューが、読めない。文字は見えているのに、意味が頭に入ってこない。自分が何を食べたいのか、本当に、わからないのだ。
「僕はカルボナーラにしようかな。こういう店で食べるカルボナーラって、家で作るのと全然違うんですよね」
藤野が、メニューを楽しそうに眺めている。
「……じゃあ、私も、カルボナーラで」
また、合わせた。
ため息が漏れそうになって、それを、そっと飲み込んだ。
会話は、滑らかに流れた。
藤野の話は、面白かった。二年生の子供たちが、給食のプリンをめぐって壮絶な心理戦を繰り広げた話。学芸会で、ライオン役の子が緊張しすぎて、猫みたいな声になってしまった話。
面白い。
面白いと、思う。
思っている、はずだ。
でも——笑うまでに、一拍、かかった。
藤野が話し終えて、こちらを見ている。笑い待ちの、間がある。
遅れた。
〇・五秒。いや、一秒近く、遅れた。
口角を上げる。笑った。笑え、た。
でも、作った。
今のは、作った笑いだった。
以前は、こうじゃなかった。
面白い話を聞いたら、考えるより先に、笑っていた。体が、勝手に反応していた。今は、頭が先に動く。面白い、だから笑うべきだ、だから口角を上げる——そうやって、ひとつずつ手順を踏んでいる。心の中で、笑い方の取扱説明書をめくっている。
カルボナーラが、運ばれてきた。
るるは、フォークを手に取った。
ふと、藤野の皿に目が行った。パセリが、端に寄っている。直したい。ナプキンが、少しずれている。直したい。水のグラスが、半分になっている。注ぎたい。
手が、動いた。
気づいたら、藤野のグラスに、水を注いでいた。
「あ、すみません。ありがとうございます」
続けて、ナプキンの位置を、直していた。
「あの、豊科さん」
「はい」
「それ、僕がやりますよ」
「え」
手が、止まった。フォークを持ったまま、藤野の皿のパセリに手を伸ばしかけている自分に、気づいた。
他人の皿のパセリを、動かそうとしている、三十一歳の女。
「……すみません」
顔が、熱くなった。恥ずかしい。——恥ずかしい、という感情は、まだある。よかった。それだけで、少しほっとした。
藤野が、笑った。優しい笑い方だった。
「豊科さんって、すごく面倒見がいいんですね」
「……よく、言われます」
「僕も職業柄そうなんですけど、豊科さんには、負けるなぁ」
それから、少しだけ、間があった。
「これ言うと、失礼かもしれないんですけど」
——来る。
「お母さん、みたいですね」
——来た。
四人連続。これで、五人目。
しかし、今回は、何かが違った。
怒りが、来ない。
悲しみも、来ない。
四人目までは、この台詞を言われるたびに、何かが胸の奥で痛んだ。笑顔が、一瞬だけ消えた。悔しかった。悲しかった。
今は、何もない。
さっき、面白い話を聞いた時と、同じだ。頭では、理解している。ここは傷つくべき場面だと、認識している。でも——胸が、反応しない。痛むべき場所が、しんと静まっている。
「よく、言われます」
同じ台詞を、返した。四人目の時と、同じ台詞。声のトーンも、同じ。でも、中身が、違う。四人目の時は、必死の強がりだった。五人目の今は、ただの、事実の報告だった。
るるは、フォークを置いた。
「……すみません、お手洗い」
立ち上がった。足が、少し、ふらついた。
レストランのトイレは、白かった。鏡花の部屋みたいに、白かった。
鏡を、見た。
笑おうと、した。
頬の筋肉に、命令を送る。口角を上げろ。目尻を下げろ。
動かない。
動かない、というより——動かし方を、忘れてしまったような感覚だった。
体と心の、接続が、ずれている。
もう一度、試した。鏡の中の自分に向かって、笑え、と命じた。
口角が、わずかに上がった。でも、目が、笑っていなかった。口だけの、笑顔。仮面のような、笑顔だった。
るるは、鏡から、目をそらした。
左手を、見た。
指輪の光が、消えていた。
いつもうっすらと白く光っていた指輪が、今は、ただの金属の輪に、なっていた。外そうと、した。引っ張った。動かない。指と一体化したように、外れない。
結婚指輪みたいだ、と思った。
誰にもらったわけでもないのに、外せない指輪。
——笑えなかった。
藤野に謝って、お見合いを早めに切り上げた。体調が悪いと言った。嘘だった。体は、元気だ。魔法少女の回復力で、体だけは常に万全だ。
壊れているのは、体ではない。
駅まで、歩いた。
スマホを、取り出した。
ひまりの番号を、押した。
三コールで、出た。
「るるさん? お見合い、どうだった?」
「……ひまりちゃん」
声が、平坦だった。自分でも、わかった。抑揚が、ない。感情を声に乗せる方法を、体が忘れかけている。
「どうしたの。るるさんらしくない、声」
「私、笑えなくなる、かもしれない」
電話の向こうが、静かになった。
「鏡の前で、笑おうとしたの。口は動くんだけど、目が笑わないの。前は、できたのに。ひまりちゃんの前では笑えるのに、一人だと、笑い方が、わからなくなるの」
「るるさん」
「指輪も、光らなくなっちゃった。外れないの。ずっとつけてるのに、光らないの」
ひまりの息が、震えた。
「今、どこ?」
「日本橋。駅の、前」
「動かないで。迎えに行く」
「ひまりちゃん、私」
「動かないで。すぐ行くから」
電話が、切れた。
るるは、駅前のベンチに、座った。
人が、行き交っている。スーツの男。買い物袋を提げた女。手を繋いだカップル。走り回る子供。
全部、見えている。全部、聞こえている。
でも、全部が、少しだけ、遠い。ガラスを一枚はさんだ、向こう側の景色みたいに。音も、色も、自分のところまで届く前に、どこかで薄まっている。
左手の指輪を、見た。
暗い、金属の輪。
十六年前、この指輪をもらった日のことを、思い出した。
嬉しかった。
怖かった。
ワクワク、していた。
あの時の感情を、今のるるは、思い出せる。記憶としては、ちゃんと残っている。
でも、再生できない。録画は残っているのに、再生ボタンの壊れたプレイヤーみたいだった。映像は確かにそこにあるのに、もう一度、その気持ちを流すことが、できない。
二十分後、ひまりが、走ってきた。
息を、切らしていた。九センチのヒールで、走ってきたらしい。正気の沙汰ではない。
「るるさんっ」
ひまりが、るるの前に、膝をついた。
小さな手が、るるの手を、ぎゅっと握った。温かかった。——温かいと、感じた。感じた。まだ、感じられる。それだけのことが、今は、ひどく嬉しかった。
「ひまりちゃん。ヒールで走ったら、危ないよ」
「今、それ言う? 心配してるの、こっちなのに」
「だって、危ないでしょ」
——気づいた。
ひまりの、心配をしている。
ひまりのヒールを、気にしている。
また、相手のことを、自分より先に、考えている。
でも、それは。
それは、母性なのだろうか。それとも、友情なのだろうか。
削れていく感情の中で、最後まで残っているこの「誰かを思う気持ち」だけは、いったい、どちらなのだろう。
ひまりが、スマホを取り出した。
「鏡花ちゃん。るるさんが、おかしい。すぐ来て」
電話の向こうから、鏡花の声が聞こえた。低くて、硬い声。
「わかっている。管理局に行く。二人も、来い」
ひまりが電話を切った。
るるの手を握ったまま、離さなかった。
「るるさん。泣いて、いいよ」
「泣け、ないの」
るるが、言った。
「泣きたいのに、涙が、出ないの。悲しいはずなのに、悲しいの場所が、わからないの」
ひまりの目から、涙がこぼれた。ぽろぽろと、続けて落ちた。
「じゃあ、私が泣く。るるさんの分も、私が泣く」
「ひまりちゃん、それ、逆だよ。いつも、私が、泣くひまりちゃんを慰めてたのに」
「たまには、逆でいいの」
ひまりが、るるの手を、両手で包み込んだ。小さな、温かい手だった。
光の消えた指輪が、ひまりの手のひらの中に、すっぽりと隠れた。
日本橋の雑踏の中で、十二歳に見える女が、三十一歳の女の手を握って、泣いていた。
通りすがりの人は、誰も、立ち止まらなかった。
この国を何度も守ってきた二人だと、誰も知らないまま、夕方の人波は二人の脇を流れ続けていた。




