第5話 フォーメーションC
「終わったらさ、三人でご飯行こ」
ひまりがそう言ったのは、防衛省の地下指令室だった。
壁一面に、モニターが十二面並んでいる。その全部が、赤い。全部が、警報を表示している。横浜みなとみらい上空に、大型の次元裂けが観測されていた。推定脅威レベル、A。通常の、三倍。
低い警報音が、絶え間なく室内を満たしている。空調の効いた地下の空気は、いつもより張りつめて、乾いていた。
「ひまりちゃんの奢り?」
るるが、変身コンパクトを手のひらの上でくるくる転がしながら聞いた。緊張をほぐすときの、彼女の癖だ。
「割り勘です」
「えー」
「るるさん、先月おごったでしょ。あれは例外。泣いてる人にはおごるルール」
「毎月泣けばいいってこと?」
「泣くな。強く生きて」
鏡花は、指令室の壁に背を預けていた。腕を組んで、赤いモニターの群れを、じっと見ている。
「行く」
一言だった。
ご飯に行く、という意味だ。鏡花の了承は、いつも短い。
指令室のドアが、空気の抜ける音とともに開いて、上司の赤城が入ってきた。
五十代。白髪交じりの短髪。防衛省魔法少女管理局の、局長である。三人の直属の上司であり、十六年間、ずっとこの三人に人類の危機を丸投げし続けてきた男でもある。
「ブリーフィングを始める。今回の敵は、次元獣クラスA。過去のAクラスより、一回り大きい。推定全長、八十メートル」
「デカいですね」
「デカい。あと、たぶん硬い」
「たぶん?」
「初見だからな。叩いてみないと、わからん」
るるが、すっと手を挙げた。
「局長、今回は何秒で終わらせればいいですか」
「終わらせられるなら、早いほうがいい。ランドマークタワーに当たる前に、頼む」
鏡花が、壁から背中を離した。
「了解した」
三人が、地下通路を歩く。
ヘリポートまで、二百メートル。非常灯の緑がかった光が、等間隔に通路を照らしている。三人分の足音が、コンクリートの天井に反響した。ひまりの軽い足音、るるの柔らかい足音、鏡花の硬い足音。リズムの違う三つの音が、不思議と一定の歩調に揃っていく。
ひまりが足を速めて、鏡花の横に並んだ。
「鏡花ちゃん、白城さんの件、ありがとね。調べてくれて」
鏡花は、前を向いたまま答えた。
「礼はいい。あいつの目的が、まだわからない。それが気になるだけだ」
素直じゃない。
でも、ひまりはもう慣れている。慣れていて、その不器用さが、少しありがたかった。
るるが、二人の後ろから、明るく声をかけた。
「二人とも、大丈夫。私たちが揃えば、何とかなるよ」
明るい声だった。
その左手の薬指で、指輪の光が、わずかに暗い。
本人は、気づいていないふりをした。
ヘリに乗り込んだ。
横浜まで、六分。
六分あれば、変身できる。
三人が、それぞれのコンパクトを開いた。
いつもは、作業のように変身する。制服を着るように、靴を履くように。手順は体に染みついている。
でも今日は、ほんの少しだけ、違った。
ひまりが、コンパクトの鏡を、じっと見つめた。
鏡の中の、自分の顔。もう、ずっと十二歳に見える顔。十六年間、変わらなかった顔。
この顔のせいで、デートは潰れた。
この顔のせいで、年齢確認で弾かれた。
この顔のせいで、何年生かと、子供に聞かれた。
でも――この顔が、最強の魔法少女ティアラの、顔だ。
コンパクトが、光った。
三人が、同時に変身した。
ヘリの狭い機内が、まばゆい光で満ちる。
光が引いたとき、ひまりは白とピンクの戦闘服をまとっていた。小さな体に、不釣り合いなほど巨大な杖。見た目は完全に、小学生のコスプレだ。だが、この杖のひと振りで、ビルを一棟、丸ごと消し飛ばせる。
鏡花は、黒と銀の戦闘服。腰に、二振りの剣。彼女が抜刀してから、敵が両断されるまでの時間は、〇・〇三秒。人間が一度まばたきするより、ずっと速い。
るるは、白と金の戦闘服。武器は、ない。彼女の武器は、その両腕、そして全身だ。敵を抱きしめ、その魔力を浄化する。比喩ではなく、物理で。
ヘリの窓の外に、横浜の海が見えた。
みなとみらいの上空が、縦に裂けている。
黒い亀裂から、巨大な腕が、ぬっと突き出ていた。
デカい。
赤城の言ったとおりだった。
推定全長八十メートル。実際は、もう少しあるかもしれない。
ヘリが、ぐっと旋回した。降下ポイントに入る。風圧で機体が震えた。
「行くよ」
ひまりが、巨大な杖を構えた。
三人が、ヘリから、夜の空へ飛び降りた。
着地。
三人分の重みで、アスファルトに、放射状のひびが走った。
次元獣が、こちらを見た。
赤い目が、六つ。その全部が、ぎょろりと三人を向いた。
そして、口が、開いた。
低い、声。人間の言葉ではない。
だが、意味だけは、なぜか伝わってきた。
『子供が、来たのか』
ひまりの足が、止まった。
外見の話を、している。この怪獣もまた、ひまりの見た目を見て、子供だと思っている。
合コンでも、デートでも、マチアプでも言われ続けたことを、ついに、怪獣にまで言われた。
「……うるさいなぁ」
ひまりの声が、すっと低くなった。
杖が、光った。
魔力が、膨れ上がっていく。空気がびりびりと震えた。
鏡花が、無言で前に出た。
剣を、抜いた。
次元獣の腕めがけて、跳ぶ。
銀の斬撃が、夜に走った。
だが――弾かれた。
硬い。赤城の言ったとおりだ。鏡花の剣が通らなかった敵は、過去に三体しかいない。火花が、虚しく散る。
次元獣の尾が、鞭のようにしなって、振り下ろされた。
鏡花が、回避する。だが、動きが、荒い。いつもの、研ぎ澄まされた冷静さがない。
ひまりへの侮辱に、怒っている。
自覚のないまま、怒っている。
連携が、乱れた。
ひまりが、杖を振った。光弾が、次元獣の胸に当たる。表皮が、焦げた。しかし、致命傷には、ほど遠い。
次元獣の腕が、今度はひまり目掛けて、振り下ろされた。
るるが、割り込んだ。
両腕を広げ、ひまりを庇って、その前に立つ。
衝撃。
るるの体が、三十メートル、後ろへ吹き飛んだ。ビルの壁に、背中から激突する。コンクリートの壁に、蜘蛛の巣状のひびが走った。るるの口から、押し殺した、小さな声が漏れた。
「るるさんっ」
ひまりが、叫んだ。
鏡花が、振り返る。その目が、見開かれていた。
るるが、壁から、ずるりと落ちた。膝を、つく。戦闘服の肩が、裂けている。左腕から、赤い血が、一筋流れていた。
「……大丈夫」
るるが、立ち上がった。
笑っていた。痛みを全部、その笑顔の奥に押し込めて。
「二人とも、落ち着いて」
ふらつく足で、それでも前に出る。
「鏡花ちゃん。怒ってるでしょ。わかるよ。でも、怒りで動いたら、連携できない」
鏡花が、唇を、噛んだ。
「ひまりちゃん。あんな言葉、気にしなくていい。あの子は、ひまりちゃんの本当の強さを、知らないだけ」
ひまりが、杖を、握り直した。
るるが、大きく、息を吸った。
「二人ともっ。私の話を、聞いて」
るるの声が、戦場に響いた。
いつもの穏やかな声ではなかった。
「ひまりちゃんが、怒る役。鏡花ちゃんが、斬る役。いつも、そう。私はいつも、後ろで見てる。……でも今は、三人で動かないと、勝てないよ」
ひまりと鏡花が、顔を見合わせた。
血を流して笑うるるが、いつもの三人の「形」を、変えようとしている。それが、二人の頭を一瞬で冷やした。
「フォーメーションC」
鏡花が、言った。
「了解」
ひまりが、頷いた。
るるが、前に出る。
鏡花が、左。ひまりが、右。るるが、中央。
初めて、るるが先頭に立つ陣形だった。
次元獣が、咆哮した。
るるが、走った。正面から、まっすぐに。
両腕を、大きく広げる。
次元獣が、腕を振り下ろす。
るるは、かわさなかった。
受け止めた。
両腕で、次元獣の巨大な拳を、まるごと包み込む。
浄化が、始まった。
るるの指輪が、光った。白い、光。
だが、その光の端に、ひとすじ、暗い影が、混じっていた。
次元獣の動きが、鈍くなる。
その、一瞬の隙に――鏡花が、跳んだ。首筋。表皮の中で、唯一柔らかい部分。一撃。
斬れた。
次元獣が、よろめく。
すかさず、ひまりの杖が、光を放った。全力の、一撃。胸の装甲が、内側から砕ける。
そして最後に、るるが、抱きしめた。
崩れ落ちていく次元獣の頭を、その両腕で包み込んで、残った魔力のすべてを、浄化しきった。
静寂が、降りた。
横浜の海風が、戦いの跡を、ひゅうと吹き抜けていく。焦げた匂いと、潮の匂いが、混ざった。
るるが、その場に、膝をついた。
「るるさん、大丈夫?」
ひまりが、駆け寄る。
「大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
るるが、笑った。左手の指輪が、暗く変色していた。白い光は、もう、ほとんど残っていない。
鏡花は、無言で、現場を見回していた。
次元獣の崩れた残骸の傍らに、小さな金属の装置が、ひとつ落ちていた。見たことのない形状。明らかに、次元獣の体内から出たものでは、ない。
鏡花は、何も言わずにそれを拾い上げ、戦闘服のポケットに、そっと収めた。
帰りは、歩いた。
ヘリを呼ぶ気力すら、なかった。三人とも、ぼろぼろだった。変身を解いた私服は、あちこち煤で汚れ、裾が破れている。
みなとみらいの夜景が、何事もなかったように、きらきらと光っていた。
「普通の女の子はさ、こんな夜は、彼氏とイルミネーション見てるんだろうね」
ひまりが、夜空を見上げて、ぽつりと言った。
鏡花が、少し遅れて、答えた。
「私たちは、ここにいる」
それは、慰めでも、強がりでもなかった。ただ、事実だった。そして、その事実を、鏡花なりに肯定する言葉でもあった。
るるが、二人の手を取った。
左手で、ひまりの手を。右手で、鏡花の手を。
ひまりの手は、小さくて、温かかった。
鏡花の手は、冷たくて、骨ばっていた。
その両方の温度を、るるは、しっかりと握った。
「ご飯、行こう。約束したでしょ」
三人で、歩いた。
頭上で、観覧車が、ゆっくり回っていた。
その下で、カップルが、笑っていた。
誰一人、三人のことを、見ていなかった。
ほんの一時間前、この街を救ったのが自分たちだと、誰も知らない。
それでいい。知られないことが、守れたという証だ。
居酒屋に、入った。
いつもの席。いつものビール。いつもの枝豆。
油と出汁の匂い、客のさざめき。世界が、何も変わらずに、そこで続いていた。守られた世界の、当たり前の喧騒。
「かんぱーい」
るるが、ジョッキを掲げた。包帯を巻いた左腕で。
「かんぱい」
ひまりが、ジョッキを両手で持ち上げた。
見た目が、完全に小学生の飲酒である。一時間前に八十メートルの怪獣を倒した本人だとは、誰も思うまい。
「乾杯」
鏡花が、ウーロン茶のグラスを上げた。
三人のグラスが、こつんと触れ合った。
鏡花が、ポケットの中の、金属装置に指で触れた。
まだ、二人には言わない。情報が、足りない。確証のないことで、二人を不安にさせたくはなかった。
るるが、左手を、そっと膝の上に隠した。指輪の光は、ほとんど消えている。
まだ、二人には言わない。せっかくの、約束の夜だ。心配を、かけたくない。
ひまりが、ビールをぐいとあおった。何も知らずに、いちばん無防備に。
「ねえ、次の休みさ、三人で温泉行かない?」
「いいねぇ」
「行く」
「じゃあ箱根。私が予約する」
「ひまりちゃんが幹事? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。マチアプより簡単でしょ」
「……それはそう」
笑った。三人で、笑った。
それぞれ、言えない秘密をひとつずつ抱えたまま、それでも笑える。それが、十六年間の、この三人だった。
そのとき、居酒屋の引き戸が、からりと開いた。
新しい客が、入ってくる。
よりによって、隣の席に、腰を下ろした。
ひまりが、何気なく、横を見た。
目が、合った。
白城誠が、そこにいた。
穏やかな笑顔。あの、柔らかい目。あの、完璧な微笑み。カフェで見たのと、寸分違わない表情で。
「偶然ですね、蓮見さん」
声が、近い。手を伸ばせば、届いてしまう距離。
「いえ……ひまりさん、と呼んだほうが、いいですか」
ひまりの背筋が、すっと凍りついた。
白城の視線が、三人の顔を、ゆっくりと順番に、なぞっていく。
「魔法少女、ティアラ」
それは、変身後の、名前だった。
鏡花の手が、テーブルの下で、音もなく拳を握った。
るるの顔から、笑顔が、消えた。
白城は、まだ微笑んでいる。穏やかなまま。それが、何より不気味だった。
「少し、お話しませんか。三人、揃っているなら――ちょうど、いい」
居酒屋の喧騒が、すうっと、遠のいていく。
三人のジョッキの上で、立っていたはずの泡が、静かに、消えていった。




