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第4話 お母さんと呼ばないで


「ひまりちゃん、毛布もう一枚いる?」


るるが聞いた。


「いらない」

「お茶のおかわりは?」

「いらない」

「おなか空いてない? おにぎり作ろうか」

「いらないってば」

「じゃあ、このクッション」

「るるさん」


ひまりが、こたつ布団の中から、ぬっと顔だけ出した。


「一分間に四回も世話を焼かないで」


鏡花のマンションの、朝だった。

カーテンの隙間から、白い冬の光が一筋、フローリングに伸びている。窓の外は晴れていて、遠くで電車の走る音が、かすかに聞こえた。リビングの真ん中に、場違いなほど生活感のあるこたつが鎮座している。


これは、鏡花の趣味ではない。るるが去年の冬に、勝手に買って運び込んだものだ。鏡花は搬入の日、最後まで抵抗した。

だが、一度足を入れてみたら、二度と出られなくなった。最強の魔法少女も、こたつの引力にだけは勝てない。

今もその天板の上では、昨夜の名残りのティッシュの箱と、ひまりのスマホが転がっている。


鏡花が、キッチンからコーヒーを三つ、盆にのせて運んできた。

マグカップが、三つとも同じ柄だった。白地に、青い線が一本。余計な装飾は、どこにもない。徹底して鏡花らしい食器だった。湯気が、三本、まっすぐ立ちのぼっている。


「昨日の件」


鏡花が、こたつに足を入れながら言った。背筋は、こたつに入っても伸びたままだ。


「白城誠。調べた」

「調べたって、いつの間に」


ひまりが、目を丸くして顔を上げた。


「お前たちが寝てから」

「鏡花ちゃん、寝てないの?」

「徹夜の必要はなかった。三時間で、十分な情報が出た」


鏡花が、スマホをこたつの天板に置いた。

画面には、メモアプリが開かれている。整然とした箇条書き。文字が、几帳面に小さくそろっている。鏡花のメモは、いつだって、作戦書のフォーマットだった。


「白城誠。三十二歳。フリージャーナリスト。五年前まで、防衛省関連メディアに所属していた。退職理由は不明。現在は独立して、ウェブメディアを運営している。過去の記事を見る限り、魔法少女関連の取材を専門にしている」

「専門って……それ、ストーカーじゃん」

「ジャーナリストとストーカーの境界は、本人の自認による」

「それ、境界ないのと同じだよ」


ひまりが、コーヒーに口をつけた。

昨夜、エントランスであれだけ泣いたのに、目の腫れはもうすっかり引いている。泣き慣れているわけではない。魔法少女の回復力が、無駄に高いのだ。傷も、涙も、体に関することなら何でもすぐに治る。でも心はそうではない。


「記事を、読んだ」


鏡花が続けた。湯気の向こうで、目が一度、細くなる。


「悪意のある内容ではなかった。魔法少女制度の問題点を指摘する論調だ。ただし、取材対象への接触方法に、倫理的な問題がある」

「マチアプでデートのふりして近づくのは、取材じゃなくて、詐欺だよ」


ひまりの声に、抑えきれない怒りが混じった。マグを持つ手に、力が入る。


るるが、ひまりの肩に、そっと手を置いた。


「ひまりちゃん」

「……わかってる。怒っても仕方ないのは、わかってる」

「ううん、怒っていいよ。怒っていいの。でもね」


るるが、ふんわりと微笑んだ。


「怒りながら、コーヒーこぼしてるよ」

「あっ」


ひまりが、慌ててマグを置いた。こたつ布団に、茶色い染みがじわりと広がる。

鏡花が、無言で、キッチンの方からキッチンペーパーを一枚、放った。それは、緩やかな弧を描いて、ひまりの手のひらにぴたりと着地した。コントロールが、完璧だった。戦闘中の連携が、すっかり日常生活にまで侵食している。


「詳しいことは、まだ調べる。今は、情報が足りない」


鏡花が、立ち上がった。コーヒーは、もう飲み干していた。


「ひまり。あいつの件は、私に任せろ。お前は、無理にアプリを開くな」

「うん。ありがとう、鏡花ちゃん」

「礼はいい。あいつの目的がわからない。それが気になるだけだ」


素直じゃない。

ひまりとるるは、こたつ越しに目を合わせて、くすりと笑った。窓の光が、少しだけ高くなっていた。



昼前に、ひまりは帰っていった。


駅まで送って、改札の前で手を振って、その小さな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、るるは見送った。雑踏の中でも、ひまりの後ろ姿はすぐに見分けがつく。誰よりも小さいから。


それから、るるは一人で歩き出した。


今日は、予約がある。

結婚相談所。月に一回の、カウンセリングの日。



ビルの、七階。

白い壁に、まっすぐ整えられた観葉植物。空気清浄機の低い稼働音だけが、静かな室内に満ちている。

カウンターの奥に、カウンセラーの木下さんが座っていた。四十代。バツイチ。仕事はそつなくこなすが、人生のほうは少しだけうまくいっていない。そのことを、るるは三回目のカウンセリングで知った。

木下さんが、聞いてもいないのに、自分から話し始めたのだ。人は、るるの前だと、なぜか自分のことを話したくなるらしい。


「るるさん、あ、いえ、豊科さん、お久しぶりです」


木下さんが、向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。


「先月のお見合いの件、先方からご感想をいただいてます」

「はい」

「えっと……素敵な方だけど、お母さんみたいで、と」


るるの笑顔が、一瞬だけ、消えた。


本当に、一瞬だけ。

すぐに、また笑った。慣れた、やわらかい笑みに。


「そう、ですか」

「これで、四人連続ですね」

「記録更新、しちゃいましたね」


声は、明るかった。

声だけは、どこまでも明るかった。


木下さんが、手元のファイルを、ぱたんと閉じた。


「豊科さん。今日は、少し突っ込んだお話をしてもいいですか」

「はい」

「あなた、お見合いの席で、何をしていますか」

「えっと……相手のお話を聞いて、お料理を取り分けて、飲み物がなくなったら頼んで」

「それです」


木下さんが、ペンの尻で、テーブルをこつ、と軽く叩いた。


「男性はお見合いに、恋人候補を探しに来ているんです。お母さんを探しに来ているんじゃ、ないんです」

「でも、相手が困っていたら、助けたくなるんです……気づいたら、お世話を、しているというか」

「助けるのと、世話を焼くのは、違います」


るるが、口を、つぐんだ。


「前回のお見合い、思い出してみてください。相手の佐藤さんが、箸を落としたとき、どうしましたか」

「……新しいお箸を、頼みました」

「佐藤さんが、自分で呼ぼうとしていたのに、あなたが先に呼びましたよね」

「だって、佐藤さん、自分で言うの、恥ずかしいかなと思って」

「恥ずかしいのを、フォローするのが恋人で。恥ずかしくなる前に片づけてしまうのが、お母さんなんです」


るるは、膝の上に揃えた、自分の両手を見た。


この手は、敵を抱きしめて浄化する手だ。

戦場では、最強の癒やし手。どんな凶暴な敵でも、この腕の中に包み込めば、やがて力を失っていく。抱きしめることで戦う、ただ一人の魔法少女。攻撃の魔法は、何ひとつ使えない。


でも、その同じ手が、日常では、恋愛を壊している。

誰かを包もうとする手が、誰からも、女として見てもらえなくしている。


「豊科さん。一つ、聞いていいですか」


木下さんが、少しだけ声を落とした。


「あなた自身は、何がしたのか。つまりあなたの希望は何なのか」


るるの、指が止まった。


何がしたいか。


ひまりの世話を焼きたい。鏡花のフォローをしたい。戦場で、敵を浄化したい。困っている人を、助けたい。


——全部、誰かのため、だった。

自分が、と主語を置いた望みが、ひとつも出てこない。


「……どうしたら、お母さんじゃなくて、女の子に見てもらえますか」


るるが、聞いた。今日はじめて、芯から本気の声だった。


木下さんが、腕を組んで、少し考えた。


「まず、『してあげたい』を、封印してください。代わりに、『私が、してほしい』を、言えるようになること。それが、第一歩です」


してほしいこと。


るるは、考えた。


誰かに、頭を撫でてほしい。

誰かに、大丈夫だよ、って言ってほしい。

誰かに、るるちゃんは頑張ってるね、って、言ってほしい。


——でも、それを口にしたことは、生まれてから一度もなかった。

言い方が、わからなかった。「してあげる」言葉はいくらでも溢れてくるのに、「してほしい」の文法だけ、学んだことがなかった。


「次のお見合いまでに、宿題です。自分が、してほしいことを、三つ書いてきてください。相手にしてあげたいことじゃなくて。自分が、してほしいことを」


木下さんが、一枚のメモ用紙を、すっと差し出した。


るるは、それを、両手で受け取った。

受け取る手つきが、やっぱり、丁寧すぎた。



帰り道、コンビニに寄った。


冷蔵ケースの前で、お弁当を選んだ。一人分。

明るい蛍光灯と、入口のチャイムの電子音。冷ケースから漏れる、ひんやりした空気。それを、レジに持っていく。


「お箸は、一膳でよろしいですか」


店員が、聞いた。


「はい。一膳で」


声が、自分でも驚くほど、小さかった。

一膳で。いつも、一膳で。



マンションに、帰った。

一人の、リビング。一人の、テーブル。その上に置く、一人分の、お弁当。

部屋は、しんと静まっていた。世話を焼く相手のいない部屋は、こんなにも音がしないのだと、こういう夜にだけ気づく。


ふと見ると、コンパクトが、テーブルの上に出ていた。

無意識のうちに、鞄から取り出していたらしい。


開くと、鏡がある。

鏡の中のるるが、笑っている。

三十一歳。胸が大きくて、目が大きくて、笑顔が、やわらかい。


みんなが、安心する顔だ。

みんなが、甘えたくなる顔だ。

みんなが、お母さんだと、思う顔だ。


——女の子だと、思ってくれる人は、いない顔だ。


コンパクトを、ぱちん、と閉じた。


左手の薬指の、指輪が目に入った。戦闘用のリング。魔力の源。

光って、いなかった。

いつもは、肌の上でうっすらと、青白く光っているのに。今夜は、ただの銀の輪のように、暗く沈んでいる。


気のせいだと、思うことにした。

お弁当の、蓋を開けた。


一人で、食べた。

咀嚼する自分の音だけが、やけに大きく部屋に響いた。


スマホが、震えた。


鏡花からの、メッセージだった。


『白城は、元・魔法少女管理局の人間だ。辞めた理由は、まだわからない』


続けて、もう一通。


『それと、来週の大型案件。嫌な予感がする』


るるは、お弁当の蓋を、そっと閉じた。

中身は、半分、残っていた。


食欲が、なかったわけではない。


一人分のお弁当を、一人で食べきることに、今日はどうしても、慣れることができなかった。たぶん、明日なら、平気だ。たぶん、いつもなら、平気だった。今日だけ、だ。



宿題の、メモ用紙を、冷蔵庫の扉に貼った。


白紙の、ままで。


してほしいこと。三つ。


一つも、書けないまま、るるはマグネットでメモを留めると、リビングの電気を、ぱちんと消した。

暗くなった部屋で、冷蔵庫に貼られた白い紙だけが、わずかな常夜灯の光を受けて、ぼんやりと浮かんでいた。

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