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第3話 剣と沈黙のフルコース


「鏡花ちゃん、笑って」


るるが、おしぼりで丁寧に自分の指を拭きながら言った。


「笑っている」

「それは般若」


合コン開始、七分前。


渋谷の、雑居ビルの三階にある個室居酒屋。襖で仕切られた六畳ほどの座敷に、まだ二人きりだった。

壁の向こうから、別の客の笑い声と、店員が通る足音、注文を通すよく響く声が、薄い壁越しに漏れてくる。油と焦げたタレの匂いが、空調にのって座敷の中まで流れ込んでいた。


鏡花は腕を組んで、座布団には座らず、壁に背中を預けて立っていた。

白いシャツの、第一ボタンまできっちり締めている。葬式でも、ここまでは締めない。冠婚葬祭のどれにも当てはまらない締め方だった。


「なぜ私が合コンに?」

「ひまりちゃんが来られなくなったから。代打だよ」


ひまりは、体調不良で欠席した。

本当の理由を、るるは知らない。鏡花も、聞いていない。

ただ、昨夜の電話の声が、いつものひまりと違っていたことだけを、二人とも覚えている。語尾が、湿っていた。


「私は合コンに向いていない」

「でも鏡花ちゃん美人だし」

「美人だから向いていないんだ。怖がられる」

「今日は大丈夫だよ。私がフォローするから」

「前回もそう言って、男が二人泣いた」

「あれは鏡花ちゃんが、手刀で割り箸をまっぷたつにしたから」

「場を盛り上げようとした」

「素手で割り箸を縦に裂く盛り上げ方は、世間一般では普通じゃないの」


個室の襖が、すらりと開いた。


「すみません、男性側のお席はこちらでよろしいですか」


店員が、まっすぐ鏡花に向かって言った。


るるが、座布団から一秒で立ち上がった。


「この子、女の子です」

「え、あっ、大変失礼しました」


店員が、三回頭を下げて、襖を閉めて去っていった。


鏡花は、表情ひとつ変えなかった。慣れている。身長一七三センチ、ひとつに結んだ髪、人を射抜くような鋭い目つき。黒のスラックスに、ボタンを締めきった白シャツ。むしろ、間違えないほうが難しい。


「スカート、履いてくればよかったかな」

「鏡花ちゃん、スカート持ってるの?」

「持っていない」

「……今度、買いに行こう」


そうこうするうちに、男性陣がやってきた。


三人。

全員が、座敷に入った瞬間、鏡花を見て一瞬、動きを止めた。


空気の温度が、すっと下がるのがわかった。これはいつものことだ。鏡花の周囲半径二メートルは、平均気温が三度低い。物理的にではなく、精神的に。座布団に腰を下ろす三人の動きが、どこかぎこちない。


「えっと……氷室さん?」


幹事らしき男が、おそるおそる席につきながら聞いた。声が、わずかに上ずっている。


「氷室だ」

「お、お仕事は何を」

「公務員だ」


嘘は言っていない。怪獣を斬るのは、民間には任せられない。れっきとした公務である。


「趣味とかは」

「刃物の手入れ」


るるが、光の速さで割り込んだ。


「鏡花ちゃんは、お料理が得意なの。包丁にこだわっててね、何本も持ってるの」

「料理はしない」

「鏡花ちゃん、今は趣味の話だから」

「趣味の話をしている。刃物を研ぐのが好きだ」


男三人の箸が、そろって宙で止まった。取り分けようとしていた唐揚げが、皿の上に着地できずにいる。


るるが、満面の笑みでビールを注いだ。

注ぎながら、男Aのジャケットの肩についた糸くずをそっと取り、男Bのグラスの底の水滴を自分のおしぼりで拭き、男Cの手元に枝豆の殻入れの小皿をすっと寄せた。

十秒間で、三人分の世話を完了している。誰に頼まれたわけでもなく。


「氷室さんって、好きなタイプとかあります?」


男Bが、勇気を振り絞って聞いた。偉い。この空気の中で質問を続けられるのは、もはや勇者の所業だ。


「命令を聞く人間」


沈黙。座敷の中だけ、壁の向こうの喧騒から切り離されたように静まった。


るるが、即座にフォローに入った。


「鏡花ちゃん、お仕事で部下がいるから、しっかりした人が好きってことだよね」

「いや、命令を聞く人間が好きだ。聞かない人間は、戦場で死ぬ」


男Bが、目の前の水を一気に飲み干した。喉が、ごくりと大きく鳴った。


「せ、戦場……?」

「職場のことだよぉ。体育会系なの、鏡花ちゃんの部署」


るるの笑顔が、すごかった。聖母どころか、菩薩が後光を背負って降臨していた。

しかし、その菩薩が懸命に積み上げるフォローを、鏡花は片端から、表情ひとつ変えずに燃やしていく。

賽の河原で石を積むるると、それを蹴り崩す鏡花、という地獄絵図だった。


「お酒は、飲まないんですか」


男Cが、鏡花のグラスを見て聞いた。中身はウーロン茶。氷が、からんと音を立てる。


「飲まない」

「苦手なんですか」

「酔うと、手が出る」


三人が、申し合わせたように椅子を五センチ引いた。畳の上を、座布団がずずっと後ずさる。


鏡花の言う「手が出る」は、能力の暴発のことである。

酔った勢いで、うっかり衝撃波を放ってしまったことが、過去に二回ある。

一回目は、居酒屋の壁に大人ひとり通れる穴が開いた。

二回目は、店の外の自動販売機が二十メートル吹き飛んで、翌朝ニュースになった。


しかし、そんな文脈を、目の前の一般人が知るわけもない。


今、彼らの前にいるのは、DV気質の美形公務員で、趣味が刃物で、シラフで、命令を聞く人間が好きだと言い切る、一七三センチの人間である。しかも酔うと「手が出る」。

怖い。理屈抜きで、普通に怖い。



合コンは、一時間半で終わった。


体感では、三時間だった。

終わってみれば、るるだけが汗だくだった。一人で全員のフォローをし続けていたからだ。男三人それぞれの愚痴を聞き、鏡花の物騒な発言を片っ端から日常語に翻訳し、料理を取り分け、空いたグラスに飲み物を足し、ほつれかけた場の空気を、最後まで縫い続けていた。針仕事のような一時間半だった。


鏡花とるるは、二人で夜道を歩いていた。

渋谷の喧騒を背中に置いて、人通りの少ない裏通りに入ると、急に足音だけが響くようになる。アスファルトが、昼間の熱をまだ少し残している。どこかの店の換気扇が、油の匂いを吐き出していた。


自販機の前で、鏡花が立ち止まった。

青白い光が、二人の足元を照らしている。鏡花は小銭を入れ、缶コーヒーを二本買った。ごとん、ごとん、と取り出し口に落ちる音が、二回続いた。

一本を、るるに差し出す。


「ありがとう。いろいろ、悪かった」


鏡花は、るるの顔を見ないで言った。視線は、自販機の光のあたりに固定されたままだった。


るるが、缶を受け取った。鏡花の指先が、ひやりと冷たかった。さっきまで、ずっと冷えたグラスを握って世話を焼いていたのは、るるのほうのはずなのに。


「鏡花ちゃんが楽しそうで、良かった」


るるが笑った。お世辞ではなく、本心だった。


鏡花の足が、止まった。


「楽しかった、のか。あれが」


本当に、わからない、という顔をしていた。眉が、かすかに寄っている。


合コンの、何が楽しいのか理解できない。

複数の他人と、同時に会話する意味がわからない。

自分の、何を見せればいいのかわからない。

相手の、何を見ればいいのかもわからない。


戦場なら、簡単だ。

敵がいて、味方がいて、斬るべきものを斬ればいい。

判断に迷いはない。

合コンには、斬っていいものが、ひとつもない。


「鏡花ちゃんも、普通にデートとかしたいでしょ?」


るるが、缶コーヒーのプルタブに指をかけながら聞いた。


「普通が、わからない」


鏡花が、缶を開けた。

ぷしゅ、かしゃん、と小さな音が、夜の道に落ちて、消えた。

湯気が、ほんの少し立ちのぼる。


「何が普通なんだ? 手を繋ぐことか。映画を見ることか。相手の話に、相槌を打つことか。……全部、やり方がわからない」

「やり方なんてないよ。一緒にいて楽しければ、それがデートだよ」

「私が一緒にいて楽しいのは、お前たちだけだ」


鏡花が、缶に口をつけた。温かい湯気が、その鋭い目元を、一瞬だけやわらかく曇らせた。


るるが、一瞬だけ、黙った。

それから、ゆっくりと、穏やかに笑った。


「同期だもんね、私たち」


十六年前。

ひまり、鏡花、るるの三人は、同じ日に魔法少女になった。

同じ日に変身コンパクトを手渡されて、同じ日に、生まれて初めての敵と戦った。何もわからないまま、ただ三人で背中を合わせて。


あの日から、ずっと一緒だ。十六年経った今も、まだ一緒に戦っている。


るるは、温かい缶コーヒーを、両手で包み込んだ。


「私ね、鏡花ちゃんのこと、怖いと思ったこと、ないよ。一回も」


鏡花の足が、止まった。


「刃物のことも、命令のことも、手が出ることも、全部知ってる。全部知ってて言うけど、鏡花ちゃんは、優しい人だよ」

「優しくは、ない」

「自販機で、二本買う人は、優しい人なの。私が決めたの。反論は認めません」


鏡花が、小さく息を吐いた。

笑ったのかもしれない。街灯のない暗がりだったから、よく見えなかった。

ただ、白い息に似た湯気だけが、夜気にゆっくりとほどけていった。



鏡花のマンションに着いた。


鏡花が鍵を取り出して――その手が、ふと止まった。


エントランスの自動ドアの前に、誰かが座り込んでいた。

小さな背中。

膝を抱えている。

ショルダーバッグを胸の前にぎゅっと抱きしめて、顔を、膝の谷間に深く埋めている。エントランスの照明が、その丸まった背中に、頼りない影を落としていた。


ひまりだった。


鏡花が、早足で近づいた。革靴が、コンクリートを鋭く鳴らす。るるが、その後を小走りで追った。


「ひまり」


鏡花が、声をかけた。

ひまりが、のろのろと顔を上げた。


目が、赤かった。頬に、乾いた涙の跡が、幾筋も光っている。右手に、スマホをきつく握りしめていた。指が白くなるほど、強く。


「鏡花ちゃん……」


ひまりの声は、すっかりかすれていた。


「私……取材対象、だったみたい」


握りしめたスマホの画面が、暗がりの中で青白く光っていた。

白城誠のウェブサイト。その、最新記事のタイトル。


『独占 魔法少女の私生活 最強の代償とは』


鏡花は、それを、三秒間、無言で見つめた。


「殺すか」


真顔だった。声に、芝居の響きは一切なかった。


るるが、すかさず鏡花の腕をつかんだ。


「殺さないの」

「記事を消させるだけでもいい。方法はいくらでもある」

「物理的な方法は、だめ。全部だめ」


ひまりが、鼻を、ずっとすすった。

それから、ほんの少しだけ、泣き腫らした顔で笑った。


「……二人に、会いたかった」


その一言で、夜道で凍りかけていた何かが、すっとほどけた。


鏡花は、何も言わずに、鍵を回してエントランスの扉を開けた。


「入れ。コーヒーくらいは、淹れられる」


刃物を研ぐ手で、誰かのために淹れるコーヒー。

それがどんな味になるのか、ひまりにもるるにも見当はつかなかったけれど、今はそれでよかった。


三人が、明るいエントランスの中へ消えていった。


夜道の自販機の脇、リサイクルボックスの丸い投入口には、二人が飲み終えて並べて入れていった缶が二本、青白い光の下で、かすかに口を覗かせていた。

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