第19話 さよなら魔法少女
「最後の変身だね」
ひまりが言った。
ヘリの中。午前六時十二分。東京湾上空。高度三百メートル。
夏の朝日が海面を照らしている。金色の光が窓から差し込んで、三人の顔を染めた。
鏡花が膝の上のコンパクトを見ていた。銀色。十六年間の傷がある。角が削れている。蓋の留め金が少し緩い。六年前に品川の怪獣戦で地面に叩きつけられた時に、ずれた。直さなかった。そのまま、使った。
るるがコンパクトを両手で包んでいた。白。表面に細かい擦り傷。戦闘中、るるは常に最前線にいるから、傷が多い。両腕で敵を抱きしめる時、コンパクトも一緒に、敵に押し当てられる。
ひまりのコンパクトはピンクゴールド。三人の中で、一番きれいだ。ひまりは遠距離砲撃型なので、直接殴り合いをしない。そのぶん、コンパクトへのダメージが少ない。
三つのコンパクトが朝日を受けて光っていた。
「感傷に浸る暇はない」
鏡花が言った。
「鏡花ちゃん、それ毎回言うけど、今コンパクトの傷なでてるよね」
「なでていない。点検だ」
「点検で、親指でさするんだ」
「摩耗度の確認だ」
「はいはい」
赤城の声がヘリの通信機から聞こえた。
「残存次元裂け痕跡、計七カ所。全て東京湾岸。小規模だ。発振器は全て回収済みなので、自然消滅を待ってもいいが、念のため物理的に閉じる。最後の仕事だ」
「了解」
三人の声が揃った。
「行くか」
鏡花が立ち上がった。
コンパクトを開いた。
光が満ちた。
何百回とやった動作。体が覚えている。光が体を包む。服が変わる。体が変わる。魔力が全身を巡る。世界が広がる感覚。
でも、今日は違った。
光が、体を離れていくのがわかった。
変身が完了した瞬間に、この光がいつか消えることを知っている。最後だと、知っている。
ひまりの、白とピンクの戦闘服。巨大な杖。十二歳の体に不釣り合いな武器。この姿も、今日が最後だ。
鏡花の、黒と銀の戦闘服。二振りの剣。この剣を抜くのも、今日が最後だ。
るるの、白と金の戦闘服。武器なし。両腕だけ。最強の浄化型。この腕で敵を抱きしめるのも、今日が最後だ。
三人がヘリから飛び降りた。
海面に着地した。水の上に立っている。魔法少女だから、立てる。明日からは、立てなくなる。
第一ポイント。品川沖。小さな裂け目。ひまりの砲撃一発で、閉じた。
第二ポイント。台場沖。るるが手のひらを裂け目に当てて、浄化。三秒で消えた。
第三ポイント。羽田沖。鏡花の斬撃で、空間ごと断ち切った。
第四、第五、第六。豊洲、晴海、芝浦。順番に潰していった。三人の連携に無駄がなかった。言葉がなくても動けた。視線だけで位置を決め、呼吸だけでタイミングを合わせた。十六年間の蓄積が体に刻まれている。
残り、一つ。
第七ポイント。横浜ベイブリッジの、真下。
最後の一つだった。
裂け目は小さかった。幅二メートル。もう消えかけている。放っておいても、数時間で自然消滅するだろう。
でも、最後は三人で閉じたかった。
「フォーメーションC」
鏡花が言った。
最後のフォーメーション。
るるが中央。鏡花が左。ひまりが右。
十六年間で、何百回もやった配置。
「行くよ」
るるが両手を裂け目に向けた。浄化の光が広がった。白と金の光。指輪が光った。旧型の指輪。もうすぐ外す指輪。今は、精一杯光っている。
鏡花が剣を振った。裂け目の端を断ち切った。きれいな断面だった。十六年間で、最もきれいな斬撃だった。
ひまりが杖を掲げた。光弾を裂け目の中心に撃ち込んだ。
裂け目が閉じた。
空間が修復された。
ベイブリッジの下に、夏の朝の海だけが残った。
終わった。
三人が海面に立っていた。足元に、波がある。朝の海の水は、まだ夜の名残でひんやりしているはずだが、魔法少女の足には関係ない。
明日からは、その冷たさを感じる。
明日からは、海の上に立てない。
「終わったね」
ひまりが杖を下ろした。
「終わった」
鏡花が剣を鞘に納めた。
るるが両腕を下ろした。左手の指輪が、まだ光っていた。最後の浄化を終えた指輪。蛍の光よりも強く光っていた。
三人でベイブリッジの上に飛び上がった。橋の欄干に座った。足をぶらぶらさせた。
眼下に、横浜の港が広がっている。朝の光がビルの窓を反射している。観覧車が見えた。動いていなかった。営業時間前だ。
「最後の戦闘が七秒で終わるのは、地味すぎない?」
ひまりが言った。
「これまでの最短記録は、三件まとめて十四秒だった。半分に短縮されている。成長だ」
「成長っていうか、相手が弱すぎたよね」
「弱い敵で最後を迎えられるのは、幸運だ。強い敵に最後を飾られたら、入院する」
「それはそう」
るるが笑った。
三人で、ベイブリッジの上に座って笑っていた。朝の海風が、戦闘服の上を流れていく。真夏でも、戦闘服の中は涼しい。魔力で温度調節されている。最後の、温度調節だった。
下から、声が聞こえた。
「先輩!」
あおいの声だった。
ベイブリッジの下の道路に、三人の後輩が立っていた。あおいが手を振っている。凛が直立不動で上を見ている。ほのかが涙ぐんでいる。まだ何も起きていないのに、泣いている。
三人が橋から飛び降りた。着地。最後の着地。アスファルトにひびが入った。
「見に来たのか」
鏡花が言った。
「最後の戦闘、見届けたかったんです」
あおいの目がきらきらしていた。
「七秒だったけど」
「七秒でも、かっこよかったです」
ひまりがあおいを見た。十四歳。百五十五センチ。ポニーテール。きらきらの目。
この子が、次に海の上に立つ。この子が、次にコンパクトを開く。この子が、次の魔法少女になる。
「あおいちゃん」
「はい」
「最後の戦い、かっこよかったでしょ」
「はい。めちゃくちゃ、かっこよかったです」
「二十九歳、なめないでよ」
ひまりが笑った。外見の自虐では、なかった。二十九年間生きてきた全部を肯定する、笑いだった。
凛が鏡花の前に立った。
「氷室先輩。最後の斬撃、見えませんでした」
「見えなくていい。お前は、お前の速度で斬れ」
「来週の稽古、来てくれますか」
「引退しても、稽古はできる。約束する」
凛の口角がわずかに上がった。鏡花並みの、微量な笑顔だった。
ほのかが、るるに抱きついた。
「先輩っ」
「ほのかちゃん、まだ泣くの早いよ」
「先輩が、かっこよすぎるんです」
「かっこよくない。最後だから、気合い入っただけ」
「それが、かっこいいんです」
るるがほのかの頭を撫でた。十六年前、自分がこの立場だったら、先輩に撫でてほしかった。自分には、先輩がいなかった。だから、この子には先輩がいる。
白城が、道路の端に立っていた。
いつの間にか、いた。コーヒーを四つ持っていた。三人分と、自分の分。後輩たちの分は持っていない。後輩が来ることは、想定外だったのだろう。
ひまりが白城に歩み寄った。
戦闘服のまま。白とピンクの衣装。巨大な杖を背負った、百四十センチ。
「お疲れさまでした」
白城が言った。
「ただいま」
ひまりの口から、自然に出た。
あの時と同じカフェなのに、なぜこの言葉が出るのか、わからなかった。でも、出た。
白城が一瞬だけ目を見開いた。
そして、笑った。
「おかえりなさい」
ひまりの目が、熱くなった。泣かない。最後の戦闘の後に泣くのは、鏡花の専売特許だ。
コーヒーを受け取った。缶コーヒー。自販機の。高級でも何でもない、百三十円の缶コーヒー。温かかった。
鏡花がコーヒーを受け取った。白城を見た。
「間に合わせたな」
「約束したので」
「根拠がないと、言っていた」
「根拠がなくても、約束は守ります」
鏡花がコーヒーのプルタブを開けた。
「借りができた」
「返さなくていいです」
「返す。いつか」
るるがコーヒーを受け取って、後輩三人の方を向いた。
「あおいちゃん、凛ちゃん、ほのかちゃん。ごめんね、コーヒー足りないや」
「大丈夫です。自販機で買います」
あおいが走っていった。凛とほのかがついていった。三人で自販機に向かう背中が見えた。
先輩三人が残った。
白城が一歩引いた。三人の時間を邪魔しない、距離に。
ひまりがコーヒーを飲んだ。
「変身、解こうか」
鏡花が頷いた。るるが頷いた。
三人が同時にコンパクトを閉じた。
光が、消えた。
戦闘服が、消えた。
私服に戻った。ひまりのパーカー。鏡花のシャツ。るるのカーディガン。
真夏の朝の熱気が、どっと肌に押し寄せてきた。
戦闘服の温度調節が、もうない。ただの、七月の朝の空気。湿って、重くて、暑い。じわりと汗が滲んだ。遠くで、蝉が鳴き始めている。
「暑い」
ひまりがパーカーの襟をぱたぱたと扇いだ。
「暑いな」
鏡花が額の汗を手の甲で拭った。戦闘服では、かいたことのない汗だった。
「暑いね」
るるが髪を持ち上げて、首筋に風を通した。
三人で顔を見合わせた。
笑った。
暑くて笑った。魔法少女でなければ、夏は暑い。当たり前のことが、新鮮だった。
ベイブリッジの下に、赤城が立っていた。
白い箱を三つ持っていた。
三人が歩み寄った。
「これは、俺からだ」
赤城が三つの箱を差し出した。同じ大きさ。同じ白。リボンもない。装飾もない。赤城らしい箱だった。
「開けるのは、明日にしろ。今日はもう、休め」
「中身は?」
「明日、わかる」
鏡花が箱を受け取った。軽い。振ると音がする。金属が擦れる音。
「局長。十六年間」
鏡花が、言いかけて、止まった。
言葉が見つからないのでは、なかった。言葉がありすぎて、選べなかった。
赤城が手を上げた。
「言わなくていい。俺も言わない。気持ち悪いだろう」
「気持ち悪い」
「だろう。だから言わない。帰れ」
鏡花が口角を上げた。
ひまりが赤城を見た。五十代。白髪交じり。不器用な上司。十六年間、選択肢を奪い続けた男。でも、十六年間、見守り続けた男でもある。
「局長。合コンには、気をつけます」
赤城が鼻を鳴らした。
「怪獣より危険だからな」
るるが一礼した。深い礼だった。言葉の代わりに、角度で伝えた。
三人がベイブリッジを離れた。
朝の横浜を歩いた。ボロボロの私服。白い箱を一つずつ抱えて。
後輩三人が自販機の前で缶コーヒーを飲んでいた。あおいが「先輩、お疲れさまでしたー」と叫んだ。凛が黙って頭を下げた。ほのかが泣いていた。
ひまりが手を振った。
鏡花が小さく頷いた。
るるが「またね」と言った。
三人で駅に向かった。
「ラーメン、食べる?」
ひまりが聞いた。
「食べる」
鏡花が即答した。
「泣いてないのに、ラーメン食べるの?」
「泣いていなくても、ラーメンは食べられる」
「鏡花ちゃんのラーメン基準、わかんない」
駅前のラーメン屋。朝七時。開いていた。
カウンターに三人で座った。
味噌。醤油。塩。
いつもの、フォーメーション。
でも、これは最後のフォーメーションでは、なかった。
引退しても、ラーメンは食べられる。魔法少女でなくても、三人は三人だ。
「明日、管理局にコンパクトと指輪を、返しに行こう」
ひまりがラーメンを啜りながら言った。
「明日」
「うん。明日。終わらせよう」
鏡花が味噌ラーメンのスープを飲んだ。
「明日で終わる。だが、三人は終わらない」
「鏡花ちゃんが、そういうこと言うの、珍しいね」
「事実を述べている」
「事実って言えば照れてないと思ってるでしょ」
「照れていない」
「耳、赤いよ」
るるが塩ラーメンを食べながら笑った。
白い箱が三つ、カウンターの端に並んでいた。
中身は、明日。
明日が来る。
普通の、明日がやって来る。




