第20話 普通じゃない私たちへ(最終話)
「で、今月の戦績は」
ひまりがジョッキを両手で持ち上げた。
あの日と同じ台詞。同じ居酒屋。同じ座敷。同じ枝豆。
でも、一つだけ違うことがあった。
ジョッキの向こうに見える顔が、少しだけ、大人になっていた。
* * *
今朝。管理局。地下三階。
三人がテーブルにコンパクトを並べた。
ピンクゴールド。銀。白。
十六年間の傷がある。角が削れている。蓋が緩んでいる。擦り傷がある。
赤城が向かいに座っていた。
「返却手続きを行う。コンパクトと指輪を机の上に置け」
事務的な声だった。いつもの、局長の声。最後くらい感動的なことを言えばいいのに、赤城は最後まで、赤城だった。
鏡花がコンパクトを机に置いた。銀色。音を立てなかった。丁寧に置いた。
るるがコンパクトを机に置いた。白。両手で。最後まで両手で扱った。
ひまりがコンパクトを机に置いた。ピンクゴールド。指先がコンパクトから離れる瞬間、名残惜しさが指に残った。
次に、指輪。
るるが先に外した。
左手の薬指。旧型指輪。十六年間、外れなかった指輪。
引っ張った。
外れた。
するりと外れた。十六年間外れなかったものが、何の抵抗もなく外れた。
るるの目から、涙がこぼれた。
「外れた。十六年ぶりに、指が軽い」
左手を見た。薬指に指輪の跡が残っていた。白い筋。日焼けの差。十六年分の、跡。
「跡、残ってるね」
ひまりが言った。
「うん。残ってていい。これは、勲章だから」
るるが笑った。泣きながら笑った。嬉しいのか寂しいのか、わからない涙だった。どっちでもよかった。泣けること自体が、勲章だった。
鏡花が指輪を外した。
無言だった。外した指をしばらく見つめていた。同じように跡が残っていた。
ひまりが指輪を外した。
外した瞬間、体が熱くなった。
全身が光った。弱い光。変身の光ではない。もっと静かな光。
ひまりの頬の輪郭が変わった。ほんの少し。丸みが減って、大人の骨格に近づいた。目の形は変わらない。鼻も口も変わらない。でも、全体の印象が違う。
身長も伸びていた。二センチ。百四十から、百四十二に。劇的な変化ではない。でも、ヒールなしで、鏡花の鎖骨の位置が少しだけ近づいた。
止まっていた時間が進みだしたのだ。
ひまりが自分の手を見た。指が少し長くなっている気がする。これは気のせいかもしれない。
るるが化粧ポーチから鏡を出した。ひまりの前に差し出した。
鏡を見た。
「あ」
声が出た。
二十九歳の顔が、そこにあった。
十二歳のまま止まっていた時計が、十六年分を一気に進めた。十六年分といっても、外見年齢が十六年老けたわけではない。十二歳の幼さが消えて、二十代後半の落ち着きが加わった。目元が少し大人になった。顎のラインがすっきりした。
「やっと、会えた」
ひまりの声が震えた。
「大人の、私」
涙が、こぼれた。
十六年間、鏡を見るたびに、十二歳の自分がいた。マチアプで弾かれ、カフェで子供に間違えられ、合コンで子供扱いされた、顔。
今、鏡の中に、二十九歳の蓮見ひまりがいる。
小さい。相変わらず、小さい。百四十二センチ。世間的にはまだ小柄だ。童顔も完全には消えていない。たぶん今後も、年齢より若く見られるだろう。
でも、十二歳には見えない。
もう誰にも、小学生とは言われない。
「ひまりちゃん」
るるが涙ぐんでいた。
「かわいい。大人のひまりちゃん、かわいい」
「かわいいじゃなくて、綺麗って言ってよ」
「綺麗だよ。すごく」
鏡花がひまりを見た。
「変わったな」
「変わった? どのくらい?」
「五歳分くらい、老けた」
「老けたって言い方やめて。大人になったって言って」
「五歳分くらい、大人になった」
「ありがとう。素直か」
赤城が書類をテーブルに置いた。
「返却手続き、完了。本日付けで、三名の魔法少女資格を抹消する。ご苦労だった」
事務的だった。最後まで事務的だった。
「それと」
赤城が立ち上がった。
「昨日渡した箱、開けたか」
「開けるなと言ったのは、局長でしょう」
「今、開けてくれ」
三人が白い箱を取り出した。
蓋を開けた。
中に、指輪が入っていた。
三つ。銀色。新型指輪と同じデザイン。だが、明らかに違うものだった。軽い。魔力を感じない。ただの金属の指輪。
手紙が入っていた。赤城の字。角張った字。作戦書みたいな字。鏡花と、同じ癖だった。上司と部下は字が似る。
『十六年間、ありがとう。これは命令ではない。好きにしろ』
指輪の内側を見た。刻印がある。
ひまりの指輪。——ティアラ。
鏡花の指輪。——セイバー。
るるの指輪。——ヒーラー。
変身後の、名前だった。
「局長」
ひまりが赤城を見た。
「退職金は別に出る。これは、個人的なものだ。十六年間の、礼だ」
「局長が、礼を」
「言うな。気持ち悪い」
「気持ち悪くないですよ」
鏡花が指輪を手に取った。軽い。魔力がない。戦闘能力もない。何の機能もない指輪。
だが、名前が刻んである。
氷室鏡花ではなく、セイバー。戦場の名前。十六年間の、名前。
鏡花が指輪をはめた。右手の薬指。旧型は左手だった。新しい指輪は、右手に。
るるが指輪をはめた。右手の薬指。光らない。当然だ。魔力がないから。でも、指にはまっている。自分で選んではめた指輪。外せない指輪ではなく、自分で選んだ指輪。
ひまりが指輪をはめた。右手の薬指。
「魔力はないけど、名前はある」
ひまりが指輪を光にかざした。ティアラの刻印が光った。太陽の光で。魔力ではなく、太陽の光で。
「三人、揃いだね」
るるが右手を上げた。ひまりが右手を上げた。鏡花が右手を上げた。
三つの指輪が並んだ。光らない指輪。ただの金属。でも、三人の名前が刻んである。
赤城が咳払いをした。
「もう帰れ。俺は書類仕事がある」
「局長」
鏡花が赤城を見た。
「もう怪獣と戦うことはありませんが」
「ああ」
「合コンには、気をつけます」
赤城の口角がわずかに上がった。
「そっちのほうが、お前たちには危険だからな」
三人が管理局を出た。
最後に、振り返った。地下に続く階段。十六年間、通った道。
振り返って——前を、向いた。
そして、夜。
居酒屋。
一話と同じ店。同じ座敷。同じ席順。
ひまりがジョッキを両手で持ち上げた。見た目が、小学生の飲酒ではなくなっていた。小柄な二十代の女性の飲酒になっていた。店員が、心配そうにこちらを見ない。初めての経験だった。
「婚活の話ね? 戦闘じゃなくて」
るるが枝豆をつまみながら確認した。
「戦闘はもうないからね。そっちは、後輩に任せた」
「鏡花ちゃんから」
ひまりが向かいの席に目を向けた。
鏡花。白いシャツ。黒のスラックス。変わっていない。十六年前から変わらない格好。
「私は、合コンに行かない」
「知ってる」
「行かないが、凛に剣術を教える約束がある。来週」
「それ、デートじゃなくて稽古でしょ」
「稽古だ」
「鏡花ちゃんの恋愛は、まだ先かぁ」
「恋愛は予定にない。だが、姉さんが来月退院する。同居する。それで、十分だ」
薫が退院する。感情の回復は完全ではないが、日常生活ができるまでになった。煎餅を自分で買いに行けるようになった。週三回の面会が効いたのだ。鏡花が赤城に頼んだ「個人的なこと」は、薫の退院手続きの支援だった。
「るるさんは?」
「来週、四回目のデートなの」
るるが頬を染めた。三十一歳が、頬を染めている。
「藤野さん?」
「うん。今度は、私がお店選んだの。自分で選んだの。イタリアンじゃなくて、お蕎麦屋さん」
「なんで、お蕎麦?」
「食べたかったから」
食べたかったから。自分が食べたいものを選べる。それだけのことが、るるにとっては、十六年越しの成長だった。
「ひまりちゃんは?」
「あー、白城さんと、来週映画行く」
ひまりが小さく言った。
鏡花がウーロン茶のグラスを置いた。
「映画の前に、身元調査をする」
「しないで」
「元管理局の人間だ。調査は終わっている」
「終わってるなら、二回やらなくていいでしょ」
「念のためだ」
「過保護」
るるが二人のやりとりを見て笑った。
十六年前と同じだ。ひまりがボケて、鏡花がズレたことを言って、るるが笑う。
でも、全部違う。
ひまりの顔は大人になった。鏡花は泣けるようになった。るるは、自分のために選べて笑えるようになった。
三人が同じ場所にいて、全員が変わっている。けれど一緒にいる。
ビールが進んだ。日本酒が来た。つまみが増えた。
「結局さ、魔法少女は結婚できるのかな?」
ひまりが言った。
鏡花がウーロン茶を飲んだ。
「わからない。だが、可能性はゼロではなくなった」
「鏡花ちゃん、それプロポーズの返事じゃないんだから」
「プロポーズされたことがない」
「いつかされるよ。たぶん」
「たぶんは、不安だ」
「大丈夫だよ」
るるが言った。
「三人いれば、何とかなるよ」
一話でも言った台詞だ。あの時は、強がりだった。今は、本気だ。
ひまりがジョッキを掲げた。
「じゃあ、乾杯しよ」
「何に乾杯するんだ?」
「普通じゃない、私たちに」
鏡花がグラスを上げた。るるがジョッキを上げた。
「普通の女の子に戻りたいって言ってたの、覚えてる?」
ひまりが二人を見た。
「覚えている」
鏡花が答えた。
「もう、戻りたいとは思わない」
るるが言った。
「だって私たち、最初から、普通じゃなかったし」
ひまりが笑った。
「普通じゃない私たちで、よくない?」
鏡花が答えた。
「よい」
一言。
でも、その一言の中に、十六年間の全部が、入っていた。
合コンで震えられたこと。趣味が刃物で引かれたこと。命令を聞く人間が好きだと言って場を殺したこと。メモを七回書き直したこと。姉を十六年探し続けたこと。泣けなかったこと。泣けたこと。
全部が、その「よい」の中にあった。
三つのグラスが、合わさった。
ビールと、ウーロン茶と、生ビール。
右手の薬指に、三つの指輪が光っている。魔力ではなく、居酒屋の照明で。
光らない指輪が、一番きれいに見えた。
「かんぱーい」
るるが叫んだ。
「かんぱい」
ひまりが笑った。
「乾杯」
鏡花が言った。
居酒屋の喧騒が三人を包んだ。
隣のサラリーマンが「あの三人、楽しそうだな」と言った。
楽しそう、ではない。楽しいのだ。
十六年間、世界を守った三人が、居酒屋の座敷で足を崩して笑っている。
魔法少女では、なくなった。
コンパクトはない。旧型指輪はない。戦闘服はない。杖もない。剣もない。浄化の力もない。
でも、三人はいる。
枝豆はある。ビールはある。座敷はある。
それで、十分だった。
窓の外に、東京の夜景が光っている。星は見えない。東京だから。
でも、見えなくても、星はある。
見えなくても——ある。




