第17話 姉と妹のコンパクト
「来てほしい」
鏡花がその五文字を発するまでに、四秒かかった。
電話のスピーカーから、沈黙が流れた。ひまりとるるが、息を詰めて待っている。
「当たり前でしょ。今どこ?」
ひまりの即答。
「自宅だ」
「二十分で行くよ」
電話が切れた。次に、るるに電話した。
「るるさん」
るるの声では、なかった。ひまりの声だった。
「もう三人通話に切り替えた。鏡花ちゃん、すぐ行くよ」
「操作が速い」
「十六年の付き合い、なめないで」
十五分後、二人が来た。ひまりはスニーカーだった。前回の反省を生かしている。るるは紙袋を持っていた。
「また手土産?」
「煎餅だよ。甘いものが嫌いだって、前回聞いたから」
鏡花は煎餅の紙袋を見た。
「姉さんは、塩煎餅が好きだった」
「塩です」
「どこで調べた?」
「鏡花ちゃんが寝てる時に、管理局の記録読んだの」
「いつ?」
「先週、泊まった時」
「私のPCを使ったのか」
「パスワードが0000だったよ。鏡花ちゃん、セキュリティ意識低すぎない?」
「変える」
「変えても当てるよ」
三人は電車に乗った。
前回と同じ路線。同じ方向。車窓の景色が、少し変わっている。最後の決戦から、数日が過ぎていた。夏の盛りで、線路際の緑が濃い。光が、白く強い。
あさひ療養センター。受付で名前を書いた。
「薫さん、今日はお部屋で窓を開けてほしいと、おっしゃってました」
看護師が言った。
三人が足を止めた。
「おっしゃってた」
ひまりが繰り返した。
「はい。今朝、窓を指さして、『窓、開けて』、と。二語文を話されたのは、初めてです」
鏡花の手が拳を作った。
二語文。窓、開けて。
二十年間、沈黙していた人間が、窓を開けて、と言った。
三階。302号室。
ドアを開けた。
窓が、開いていた。
夏の風が、白いカーテンを揺らしている。蝉の声が、遠くから流れ込んでくる。看護師が、薫の希望どおりに開けたのだろう。
薫が車椅子に座っていた。窓の方を向いている。前回と、同じ。だが前回と、決定的に違うことがあった。
目に光があった。
曖昧な光では、なかった。窓の外を見ている目。景色を見ている目。何かを見て、何かを感じている目だった。
鏡花が一歩、踏み出した。
「姉さん」
薫の目が動いた。窓から、鏡花へ。
見ている。
前回も、見ていた。だが前回は、目が追っていただけだった。今回は、違う。認識している。鏡花を見て、鏡花だとわかっている目を、している。
薫の唇が動いた。
「鏡花」
はっきりと、聞こえた。前回の、かすれた音では、なかった。
鏡花の膝が折れた。姉の前に、崩れ落ちた。膝をつく。手が薫の手を探して、見つけて、握った。
前回より、温かかった。
まだ冷たい。普通の人間の手の温度では、ない。だが、前回の真冬のような冷たさでは、なかった。秋の終わりくらいの、温度。季節が、一つ進んでいた。
「姉さん。わかるか。鏡花だ」
「わかる」
三文字。だが、その三文字に、二十年分の重さがあった。
ひまりが入口で、立ち尽くしていた。涙が止まらなかった。声を出したら鏡花の邪魔になると思って、口を押さえていた。
るるがひまりの肩を抱いた。るるも泣いていた。泣けている。まだ、泣ける。
鏡花がポケットからコンパクトを出した。
二つ。
銀のコンパクト。鏡花のもの。
ピンクのコンパクト。薫のもの。
薫の手に、ピンクのコンパクトを置いた。
前回は、指が触れただけだった。
今回、薫の指が、コンパクトを包んだ。五本の指が、自分のコンパクトを、握った。
「これ」
薫が言った。
「私の」
鏡花が頷いた。声が出なかった。頷くことしか、できなかった。
薫がコンパクトを開いた。
鏡の面は、曇っていた。前回、鏡花の涙が落ちた場所だけ、少し透明になっていた。
薫が鏡を覗き込んだ。
曇った鏡に、薫の顔がぼんやり映った。
「老けた」
ひまりが泣きながら、吹き出した。二十年ぶりの言語機能で最初にやったのが、自虐だった。氷室家の血だった。
鏡花が笑った。
笑った。
声を出して、笑った。
鏡花が声を出して笑う場面を、ひまりとるるは、初めて見た。十六年間で、一度も聞いたことのない音だった。低くて、短い笑い声。不器用な笑い声。練習していない人間の、笑い声。
「姉さん。私は姉さんを探すために、魔法少女になった。十六年、かかった。遅くなった」
「遅い」
薫が言った。怒っているのでは、なかった。目尻に、しわが寄っていた。笑おうとしていた。筋肉が、まだうまく動かない。二十年間、使っていなかった表情筋だ。ぎこちない。でも、動いている。
「姉さんが失くしたものを、次の子たちには失くさせない。新しい指輪を作った。代償が出ない指輪を」
「そう」
薫の声は平坦だった。感情が完全に戻っているわけでは、ない。言葉は出るようになったが、声に抑揚がない。単語を一つずつ選んでいるような、話し方。
でも、話している。
二十年間の沈黙を破って、話している。
「この人、たちは?」
薫の目が、ひまりとるるに向いた。
「仲間だ。ひまりと、るる。私の同期で、友人で」
鏡花が言葉を探した。
「家族みたいなものだ」
ひまりが泣いた。るるが泣いた。鏡花が耳を赤くした。
薫が二人を見た。
「泣き虫」
「泣き虫じゃ、ないですっ」
ひまりが泣きながら反論した。完全に泣き虫だった。
「泣いてるのに泣き虫じゃないって、無理がありますよね」
るるが泣きながら笑った。
薫の口角が、わずかに上がった。
笑った。
看護師が朝、電話で言ったとおりだ。薫が笑っている。ぎこちない。ほんの少し。口角が、ミリ単位で動いただけ。
でも、笑っている。
鏡花は薫の顔を見ていた。
二十年前の姉の笑顔を、覚えている。記憶の中の姉は、いつも笑っていた。五歳の自分の手を引いて公園に行く時、笑っていた。お風呂で髪を洗ってくれる時、笑っていた。
あの笑顔と、同じではない。
でも、これは笑顔だ。
二十年ぶりの、笑顔だ。
鏡花の目から、涙がこぼれた。
泣いた。
また、泣けた。
最終決戦の朝も、姉の面会でも、泣いた。もう、決まった時にだけ泣くのではない。泣きたい時に、泣く。それが感情だ。本物の、感情だ。
「鏡花」
薫が言った。
「泣き虫」
「泣き虫では、ない」
「泣いてる」
「これは生理現象だ」
「嘘つき」
姉に嘘つきと言われた。二十年ぶりの会話で、嘘つき呼ばわりされた。
ひまりが涙を拭いた。
「お姉さん、鏡花ちゃんは十六年間、ずっと泣き虫じゃなかったんですよ。泣き方が、わからなかったんです。最近やっと、泣けるようになったんです」
「そう」
薫が鏡花を見た。
「よかった」
一言だった。
抑揚のない声だった。
でも、その一言に、二十年分の何かが乗っていた。感情と呼べるほど明確なものでは、ない。感情の、残骸。あるいは、感情の芽吹き。名前のつけようがない、もの。
るるが紙袋を差し出した。
「お姉さん。塩煎餅、持ってきました。好きだって聞いたので」
薫が紙袋を見た。
「知ってるの?」
「鏡花ちゃんに、聞きました」
薫が鏡花を見た。
「覚えてたの?」
「当然だ。姉さんが毎日、おやつに食べていた」
「毎日、ちがう。週三」
「毎日だ」
「週三」
姉妹の口論が始まった。二十年ぶりの口論。内容は、煎餅の頻度。世界で最もどうでもいい口論だった。
ひまりが笑った。るるが笑った。鏡花の耳が赤くなった。薫の口角が上がった。
部屋の空気が変わっていた。
白かった部屋に、色が戻り始めていた。花瓶の花。窓の外の空。煎餅の紙袋の茶色。るるのカーディガンのピンク。ひまりのパーカーの黄色。鏡花のシャツの白。
白い部屋に、人がいる。
人がいれば、色がある。
面会時間が終わった。
看護師が「そろそろ」と声をかけた。
鏡花が立ち上がった。薫の手を離した。
「また来る」
「来て」
薫が言った。
「毎日」
鏡花が黙った。
「毎日は」
「週三でいい」
薫の口角が、また上がった。煎餅の頻度と、同じ数字で返してきた。
「わかった。週三」
鏡花がドアに向かった。ひまりとるるが先に出た。
ドアの前で、振り返った。
「姉さん」
「なに」
「コンパクト、持っていてくれ。光らないが、姉さんのものだ」
薫がピンクのコンパクトを握った。
「きれいだったの。光ってた時」
「知っている。見たことがある。幼い頃に」
「五歳の時。見せたの。覚えてる?」
「覚えている」
「嘘つき。三歳の時」
「三歳だったか」
「三歳。鏡花が泣いたから、見せた。光ったら、泣き止んだ」
鏡花の耳が赤くなった。
ひまりが廊下で声を殺して笑っていた。三歳の鏡花が泣いていた事実。人類最強の戦闘狂が、三歳の時にコンパクトの光で泣き止んだ事実。
「帰る。また来る」
「煎餅、持ってきて」
「姉さんが食べられるのか」
「リハビリ」
「了解した」
ドアを閉めた。
廊下を歩いた。三人で並んで歩いた。
エレベーターの前で、ひまりが言った。
「鏡花ちゃん、三歳で泣いてたの?」
「覚えていない」
「お姉さんは覚えてたよ」
「記憶違いだ」
「二十年間、感情失ってた人の記憶のほうが正確って、すごいね」
「黙れ」
「やだ。一生言う」
るるが笑った。
「鏡花ちゃん。泣けたね」
「泣いた。また泣いた。最近、泣きすぎている。故障かもしれない」
「故障じゃないよ。回復だよ」
エレベーターが来た。三人が乗った。
一階に着いた。受付を通り過ぎた。外に出た。
夏の夕方の風が頬を撫でた。日が長くなって、西日がまだ高い。
鏡花が空を見上げた。
「姉さんが、笑った」
報告口調だった。でも、声が震えていた。
「うん。笑ってたね」
ひまりが頷いた。
「きれいな笑顔だったよ」
るるが言った。
「きれいでは、ない。ぎこちなかった」
「ぎこちなくても、きれいなの。私が決めたの」
鏡花が口を閉じた。
また「反論は認めません」だろう。るるのこの論法に、勝てた試しがない。
駅に向かって歩いた。三人の影が、夕方の西日に長く伸びていた。
鏡花のスマホが鳴った。
白城からだった。
『新型指輪、完成しました。予定より一ヶ月早い。誘導者のデータが大きく効いた。来週、次世代への授与式を行います。三人の最終戦闘は、その翌日に』
ひまりが画面を覗き込んだ。
「間に合った」
「間に合ったな」
鏡花がスマホをしまった。
ポケットの中に、銀のコンパクトがある。もう片方のポケットにあったピンクのコンパクトは、姉のもとに残してきた。
あと一回。
コンパクトを開くのは、あと一回。
「ラーメン、食べる?」
ひまりが聞いた。
「食べる」
鏡花が即答した。
「泣いた後にラーメンの鏡花ちゃん、本当に癖になってるじゃん」
「癖では、ない」
「はいはい。生理現象ね」
三人で駅前のラーメン屋に入った。味噌と、醤油と、塩。いつものフォーメーション。
あと何回、三人でラーメンを食べるだろう。
でも、これは最後ではない。
引退しても、三人は三人だ。魔法少女でなくなっても、ラーメン屋のカウンター席は、三人分空いているだろう。
鏡花が味噌ラーメンを啜った。
おいしかった。
おいしいと感じた。
それが、感情だ。




