第15話 あと一回の約束
「六カ所同時は、初めてだな」
赤城の声が、ヘリのローター音を割って、ヘッドセット越しに響いた。
東京湾上空、高度三百メートル。輸送ヘリの開いたハッチから、夜の東京が一望できた。いつもなら整然と碁盤目に光っているはずの街が、今夜は様子が違う。黒い亀裂が、六つ。夜景のあちこちに、まるで世界の縫い目がほつれたように、縦に裂け目が走っている。亀裂の縁が、紫がかった光をちりちりと放ち、その奥から、こちらの世界のものではない冷たい風が吹き上げてくる。風には、潮の匂いに混じって、焦げた金属のような、嗅いだことのない匂いがあった。
ヘリの床が、振動で細かく震えている。三人は手すりを握って、その光景を見下ろしていた。
「三人で分散対応は、不可能だ。東京湾の最大個体に集中しろ。残りは自衛隊が時間を稼ぐ」
「自衛隊で、持ちますか」
ひまりが聞いた。眼下では、すでに小さな砲火の閃光が、いくつかの亀裂の周辺で明滅している。地上の部隊が、もう交戦を始めているのだ。
「持たせる。四十分だ。四十分以内に東京湾を片づけて、残りを潰せ」
「了解」
三人がコンパクトを開いた。
ひまりのコンパクトが光った。白とピンクの光が、暗いヘリの内壁を染める。いつもと同じ光。でも今日は、少し眩しく見えた。
鏡花のコンパクトが光った。黒と銀の、刃のような光。
るるのコンパクトが光った。白と金の、内側から滲むような、抱擁の光。
三つの光が重なって、ヘリの中が真昼のように満ちた。
何百回とやった動作だ。制服を着るように。靴を履くように。指がコンパクトの感触を覚えていて、考える前に体が変身を始める。
でも今日は、少し長く感じた。
光が体を包む、そのほんの数秒が、いつもより長く、名残を惜しむように引き延ばされた気がした。
「最後の変身だね」
ひまりが言った。変身を終えた小さな体に、不釣り合いな巨大な杖。風がその裾を巻き上げている。
鏡花が剣の柄に手をかけた。腰の二振りが、ヘリの非常灯を受けて鈍く光る。
「感傷に浸る暇は、ない」
言いながら、コンパクトを閉じる手が、わずかに遅かった。指先が、銀色の蓋の上でほんの一瞬、留まる。鏡花も感傷に浸っている。ただ、口がそれに追いついていないだけだ。
るるが、二人の手を取った。左右から、ひまりの手と鏡花の手を、しっかりと握る。
「行こう」
三人が、夜の空へ飛び降りた。
落下。
ビル風が三人の体を叩く。眼下で、東京湾の黒い水面が、みるみる近づいてくる。その水面に、最大の亀裂が映り込んで、海そのものが裂けているように見えた。
着地。
三人の足が、海面を打った。沈まない。波紋だけを残して、水の上に立っている。魔法少女だから。海面を蹴れば、固い地面のように走れる。物理法則を踏みつけて疾走できる。
——この力とも、あと少しで、お別れだ。
足の裏に伝わる、海面のかすかな弾力。頬を撫でる、夜明け前の潮風。全部、覚えておこうと、ひまりは思った。
東京湾の次元獣は、過去最大だった。黒い亀裂から、太い腕が四本、突き出ている。鱗に覆われた腕の一本一本が、ビルほどもある。推定全長百メートル。この間の個体より、二回りはデカい。それが身じろぎするたび、湾の水が大きくうねって、白い波頭が三人の足元まで押し寄せた。
鏡花が目を細めた。獣の動きを、数秒、観察する。
「パターンが、前と同じだ。動きが読める。……誘導されている」
「発振器?」
「間違いない。探知する」
鏡花がポケットから、手のひらほどの端末を取り出した。白城が渡した、発振器探知装置。先週、試作品が届いたばかりで、使うのは今日が初めてだ。暗い海上で、画面の光だけが、鏡花の鋭い横顔を青白く照らす。
画面に、赤い点が六つ、灯った。
「六つ。次元裂け一つにつき、発振器が一つ。東京湾に一つ、品川に一つ。渋谷、新宿、池袋、横浜に、各一つずつ」
「発振器を壊せば、裂けも閉じるんでしょ?」
「理論上は」
「じゃあ、全部壊そう。フォーメーション変更。発振器の破壊を優先」
ひまりが杖を構えた。穂先に、白い魔力の光が渦を巻いて集まっていく。
「まず、東京湾のやつから」
次元獣は、強かった。腕が四本あるぶん、攻撃の軌道が読みにくい。一本が囮になり、別の一本が死角から薙ぎ払ってくる。海面が、その一撃でクレーター状にえぐれ、水柱が夜空へ噴き上がった。
だが、三人のほうが、強かった。
るるが、前に出た。迫る四本の腕を、真正面から、両腕で受け止める。足が海面にめり込み、衝撃で背後の水が扇状に吹き飛んだ。それでも、るるは退かない。腕の中に獣の拳を抱え込み、浄化を始める。左手の指輪が、白く光り出す。獣の動きが、徐々に、鈍くなっていく。
その隙に、鏡花が跳んだ。発振器の位置は、次元裂けの真下――暗い海面の、その下だ。鏡花が黒い水へ、音もなく潜る。海中で銀の光が一閃する。三秒後、水面を割って戻ってきた手には、黒い金属の装置が握られていた。握り込むと、それは乾いた音を立てて砕けた。
裂け目が、軋みながら閉じ始める。
ひまりの杖が、満ちた。全力の砲撃。白い光の奔流が、動きの鈍った獣の胸を、まっすぐに貫いた。獣の巨体が、内側から光に呑まれて、崩れていく。
一体目、撃破。
残り、五つ。
品川へ。三分で到着。
高層ビルの谷間に、亀裂が浮いていた。オフィスビルのガラス壁に、獣の影と魔法少女の影が、めまぐるしく映り込む。発振器は、立体駐車場の屋上にあった。鏡花が破壊し、よろめいた獣を、るるが抱きとめて浄化する。割れたガラスが、朝にはまだ遠い空から、雨のように降った。
渋谷。四分。
スクランブル交差点の真上に、亀裂が裂けていた。深夜でも人の絶えない街は、すでに封鎖され、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っている。誰もいないスクランブル交差点を見るのは、奇妙な眺めだった。鏡花が獣を一刀のもとに両断しながら、着地ざまに、足元の発振器を靴底で踏み潰した。雑だが、速い。
新宿。三分。
摩天楼の作る深い谷の底で、ひまりの砲撃が炸裂した。獣と発振器を、まとめて吹き飛ばす。効率的ではあったが、巻き添えで、近くのガードレールが三本、跡形もなく消えた。後で始末書を書かされるだろうな、とひまりは光の余韻の中で思った。
池袋。二分。
ここの獣は、比較的小さかった。るるが両腕で包み込むと、五秒で浄化が完了した。発振器は、鏡花が瓦礫の中から拾い上げ、片手で握り潰す。
残り、一つ。横浜。
端末の画面を、もう一度見た。赤い点が、一つだけ、残っている。
その場所が、妙だった。
亀裂の発生地点ではない。港区の外れ、海沿いの倉庫街。とうに使われなくなった、五階建ての雑居ビル。窓の多くは割れ、外壁は潮風に錆びている。
三人が、その前に降り立った。
夜明け前の倉庫街は、しんと静まっていた。波が岸壁を叩く音と、どこかで風にあおられたトタンの軋む音だけが響く。
ビルの三階の窓から、光が漏れていた。
人が、いる。
鏡花が剣を抜いた。ひまりが杖を構えた。るるが、一歩、前に出た。
「私が、先に入る」
「るるさんが先頭は、危ない」
「浄化型だから。人間が相手なら、殺さずに止められる」
鏡花が頷いた。るるが正しい。剣で踏み込めば、斬ってしまう。杖で踏み込めば、吹き飛ばしてしまう。るるの両腕だけが、人間を傷つけずに、止めることができる。
三人で、ビルに入った。埃と黴の匂い。崩れかけた階段を上がる。
三階。
点きっぱなしの蛍光灯が、一本だけ、神経質に明滅している。長机の上に、ノートパソコンが五台。壁際に、モニターが三つ。そのどれもに、発振器の制御画面が映っていた。複雑な波形が、ゆっくりと脈打っている。残りの一つの発振器は、この部屋の機材の中に、組み込まれていた。
そして、男が一人、机の向こうの椅子に、座っていた。
白衣。四十代。眼鏡。首から、管理局の身分証を下げている。逃げる素振りも、立ち上がる気配もない。三人が踏み込んでも、ただ静かに、こちらを見ていた。
鏡花の目が、細くなった。
「元、調査課か」
「元、じゃないよ」
男が、ゆっくりと立ち上がった。
「調査課は潰された。でも、研究は続けていた。たった一人で、この五年、ずっと」
怯えては、いなかった。だが、その目には、追い詰められた人間特有の、乾いた光があった。
「お前たちの戦闘データが、必要だった。実戦データでなければ、新型指輪は完成しない。代償のメカニズムを解析するには、代償が進行している状態での――生きた戦闘データが、どうしても、不可欠だったんだ」
「つまり、怪獣をわざと呼んでいたのは……あなた?」
ひまりの声が、低く沈んだ。
「三年前から。週に、一回。実戦データを収集するために、次元裂けを誘導していた。お前たちを戦わせ続けたのは――お前たちを、救うためだ」
沈黙が、落ちた。
蛍光灯が、ジジ、と耳障りな音を立てて、また明滅した。割れた窓から、夜明け前の冷たい風が吹き込んで、机の上の紙の端を、かさかさとめくっていく。
「方法が、間違っている」
鏡花が言った。
静かな声だった。怒鳴らなかった。第九話で、白城の記事を前に「殺すか」と即座に反応した、あの時とは違った。低く、抑えた、それゆえに重い声だった。
「その論理は、知っている。管理局が十六年間、私たちに使い続けた論理と、同じだ。お前たちのためだと言いながら、選択肢を奪う。赤城が、そうだった。管理局が、そうだった。そして、お前も――そうだ」
男が、口を開きかけた。
「だが」
鏡花が、遮った。
「お前のそのデータが、白城の新型指輪の開発を、加速させたのも、事実だ」
男の目が、見開かれた。予想していなかった言葉だったのだろう。
「殴りたい。今すぐ、お前を殴り倒したい。だが――殴らない」
鏡花の拳が、震えながら、握られている。
「お前のデータが、るるを救うかもしれない。その一点だけが、今、お前を殴らない理由だ」
鏡花が、機材に組み込まれた最後の発振器を、引き抜いた。手の中で、それを握り潰す。乾いた破砕音が、静かな部屋に響いた。
遠く、横浜の空で、最後の次元裂けが閉じていく気配があった。
六つ、全て。消えた。
割れた窓の外、東京の空から、黒い亀裂が、一つ残らず、消えていた。
——終わった。
三人が、ビルを出た。男は、駆けつけた管理局の保安部に引き渡した。後の処理は、赤城がやる。
横浜の埠頭まで歩いて、三人で、岸壁に腰を下ろした。
冷たいコンクリートの縁に、足を投げ出して座る。戦闘服は、もうボロボロだった。変身を解いた私服も、あちこちが破れている。るるのブラウスは、肩の縫い目が裂けていた。鏡花のスラックスは、膝に大きな穴が開いている。ひまりのパーカーには、焦げ跡が黒く残っていた。三人とも、髪は潮風と硝煙で乱れ、頬には乾いた汗の跡がある。それでも、誰も直そうとしなかった。直す気力もないほど疲れきっていて、そして、満ち足りていた。
夜明けだった。
東京湾の水平線の向こうから、太陽が、ゆっくりと顔を出してくる。黒かった海が、まず鈍い鉛色になり、それから、縁のほうから、オレンジ色に染まり始めた。光の帯が、海面を渡って、まっすぐ三人のところまで伸びてくる。沖に停泊した貨物船のシルエットが、その光の中に、黒く浮かんでいた。
潮の匂いがした。さっきまで戦場で嗅いだ、あの異界の焦げた匂いではない。ただの、海の、朝の匂いだった。かもめが一羽、鳴きながら、白み始めた空を横切っていく。
第五話のあの夜、みなとみらいの観覧車の下で見上げた夜景とは、まるで違う景色だった。あの時は、夜だった。今は、朝だ。
「普通の女の子はさ、こんな朝は、ベッドの中だよね」
ひまりが、朝焼けの空を見上げて言った。
あの時と、同じ台詞だった。あの時は、寂しさで言った。今は、違う。今は、笑いながら言っている。
「私たちは、ここにいる」
鏡花が答えた。
あの時と、同じ台詞だった。あの時は、自分に言い聞かせる慰めだった。今は――誇りだった。
るるが、二人の間に座っていた。膝を抱えて、朝日に目を細めている。その左手の薬指で、指輪が、淡く光っていた。戦闘の間は、また暗く沈みかけていた。でも今、こうして二人と並んで朝日を浴びているうちに、蛍のようなあのやわらかい光を、少しずつ取り戻している。戦いが指輪の光を削り、人といることが、それを灯し直す。るるは、もう、その仕組みを恐れていなかった。
「引退、しよう」
ひまりが言った。
静かな、けれど、迷いのない声だった。
「三人で。一緒に」
鏡花が、頷いた。
「賛成だ」
るるが、二人を見た。朝日が、その横顔を金色に縁取っている。
「新しい子たちに、ちゃんと引き継ごう。私たちみたいな思いは、あの子たちには、させない」
三人が、それぞれのコンパクトを取り出した。
ピンクゴールドと、銀と、白。
冷たい岸壁の上に、三つ、並べて置く。
昇ってきた朝日を受けて、三つのコンパクトが、いっせいに、まばゆく光った。十六年間、肌身離さず持ち歩いた、三つの相棒だった。
「次の変身を、最後にしよう」
るるが言った。
ひまりが頷いた。鏡花が頷いた。
海風が、三人の髪を、同じ方向へ撫でていく。ひまりの茶色い髪。鏡花の銀の髪。るるの黒い髪。三色の髪が、朝の光の中で、一緒になびいた。
鏡花のスマホが、鳴った。
画面を見る。施設からの着信。あさひ療養センター。
朝日に背を向けて、出た。
「氷室さんですか。薫さんのことで、お電話しました」
落ち着いた、看護師の声だった。
鏡花の背筋が、すっと伸びた。
「何か、あったか」
「今朝、薫さんが……一言、おっしゃったんです」
鏡花の、スマホを持つ手が、震えた。
「……何と」
「鏡花、と」
三度目だった。
あの面会で、二度。そして今朝、三度目。
鏡花のスマホを持つ手が、はっきりと震えていた。隣で、ひまりが気づいた。反対側で、るるが気づいた。二人が、息を詰めて鏡花を見守る。
「それだけ、ですか」
「はい。それだけです。……でも今朝は、少し、違いました」
「何が」
「薫さん、笑っていらっしゃいました。窓の外を見ながら、ふっと。お名前を呼ぶみたいに、笑って」
鏡花が、ゆっくりと、電話を耳から離した。
海を見た。昇りきろうとする朝日が、まともに目を射て、眩しかった。
涙が、出た。
また、泣けた。
引退を待つまでもなく、こうして涙が出る自分が、ここにいた。泣けることが、嬉しかった。この涙は、模倣ではない。本物だ。姉の笑顔の知らせを聞いて、泣いている。――これが感情でなければ、いったい何が、感情だというのだ。
ひまりが、隣で、泣いていた。
るるが、反対側で、泣いていた。
三人で、泣いていた。朝の埠頭で。ボロボロの私服のまま。昇る朝日に照らされて、肩を寄せ合って。
周りには、誰もいなかった。
ほんの少し前に、この国を六つの亀裂から守った三人が、こうして埠頭で泣いていることを、誰も知らなかった。
知らなくて、いい。それが、守れたということの、証だから。
「姉さんが、笑った」
鏡花が言った。涙で、声が掠れていた。
「よかったね」
ひまりが、鼻をすすった。
「よかった」
るるが、手の甲で目を拭った。
朝日が、少しずつ高くなっていく。海の色が、刻々と変わっていく。オレンジから、淡い金へ。金から、澄んだ青へ。夜が、完全に、朝になっていく。
三つのコンパクトが、岸壁の上で、朝日を照り返している。
もう、開かなくて、いい。
もう、変身しなくて、いい。
次は――あの子たちが、変身する番だ。
鏡花が、スマホをしまった。
「腹が、減った」
また、唐突だった。
ひまりが、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、吹き出した。
「鏡花ちゃん、泣いた後に腹減るの、完全に癖になってない?」
「生理現象だ」
「毎回パターン化してる生理現象って、それもう癖って言うんだよ」
「ラーメンが、食べたい」
「朝から、ラーメン?」
「朝のラーメンは、特別だ」
「いつ、そのデータ取ったの」
「今、決めた」
三人で、立ち上がった。膝も腰も、戦闘の疲れで軋んだ。
コンパクトを、ポケットにしまう。最後の一日くらいは、このポケットの中で過ごさせてやろう。管理局に返すのは、明日でいい。
三人で、朝のラーメン屋を探して、歩き始めた。
横浜の朝は、静かだった。早起きの人が、ぽつぽつと歩いている。スーツ姿の会社員。制服の学生。リードを引いて犬の散歩をする、老人。誰もが、昨夜この街の空が六つに裂けていたことなど、知らない顔で、それぞれの朝を始めている。
普通の、朝だった。
その普通を守ったのは、この三人だ。
三人は、普通じゃない。でも、普通を、守り抜いた。
それで、いい。それが、よかった。
ラーメン屋は、すぐに見つかった。朝六時から暖簾を出している店。横浜の港町には、夜勤明けの男たちのために、そういう店がある。引き戸を開けると、出汁の湯気と、にんにくの匂いが、どっと押し寄せてきた。
鏡花が味噌を頼んだ。ひまりが醤油。るるが塩。
カウンターに、いつものとおり、鏡花、るる、ひまりの順で並ぶ。
いつもの、フォーメーション。
そして、最後の、フォーメーションだった。
湯気を立てる三つの丼が、目の前に置かれる。
「いただきます」
三人の声が、揃った。




