第14話 二度目のカフェラテ
「一人で行きたい」
ひまりが言った。
鏡花のマンション。朝。三人でトーストを食べている。最近、この部屋が集会所になりつつある。鏡花は不満を一度も口にしていないが、バターの減りが三倍速になっていることは、気にしている。
「白城に会うのか?」
鏡花がマグカップを置いた。
「うん。一人で会って、ちゃんと話したい」
「危険だ。同席する」
「危険じゃないよ。カフェだよ。表参道のカフェだよ?」
「表参道にも、危険はある」
「どんな危険?」
「不明だ。だから危険だ」
論理が破綻している。鏡花が心配しすぎると論理が壊れること、論理を壊してでも心配してくれることを、ひまりは十六年間で学んだ。
るるがトーストにジャムを塗りながら言った。
「ひまりちゃん、大丈夫? 無理はしなくていいんだよ」
「無理じゃないよ。これは私の問題だから」
ひまりはジャムの瓶の蓋を閉めた。力が強すぎて、瓶が悲鳴を上げた。緊張している。隠した感情が手に出る。
「一人にしないでって約束は、覚えてる。でもこれは自分で片をつけたいの。帰ったら、全部話すから」
鏡花が黙った。
五秒。
「わかった。ただし帰りが遅くなったら、迎えに行く」
「何時から遅いの?」
「十九時」
「早すぎない?」
「二十時」
「もう一声」
「二十時三十分。これ以上は譲らない」
「はいはい」
るるが笑った。過保護な姉と、それを受け流す妹の図だった。実際の姉妹は鏡花と薫だが、この三人はもう、姉妹みたいなものだ。血よりも、ビールと枝豆で繋がった姉妹。
表参道。
前回と、同じカフェ。
同じ窓際の席。
午後の光がテーブルに落ちている。あの日と同じ角度の光。同じ木の椅子。同じメニュー。
ひまりはカフェラテを注文した。
あの日も、カフェラテだった。
あの日、ここで白城と会った。優しい人だと思った。フォローが完璧だと思った。期待していいかな、とるるに電話した。
全部嘘だったのかもしれないと、泣いた夜があった。
でも、全部嘘だったのかは、まだちゃんと聞いていない。
白城が来た。
紺のジャケット。白いシャツ。前と同じような服装。ただ、少しだけ疲れた顔をしている。新型指輪の開発を急いでいるのだろう。ひまりが頼んだ、一ヶ月半という無茶な期限のせいだ。
「すみません、お待たせしました」
「座ってください」
白城が向かいに座った。
前回と同じ構図。同じ席。向かい合う、同じ二人。
でも、全部違う。
あの日のひまりは、三時間かけてメイクをして、大人っぽい服を選んで、声を低めに出して、偽物の自分を作って座っていた。
今日は、違う。
今日のひまりは、いつものひまりだった。身長百四十センチ。九センチのヒールなし。スニーカー。パーカー。メイクは最低限。見た目は、完全に中学生。
ひまりは、テーブルの上にコンパクトを出した。
銀色のコンパクトではない。ピンクゴールドの、戦闘用コンパクト。ひまりの、本物のコンパクトだ。
白城の目が少し見開かれた。
「これが、私です」
ひまりが言った。
「二十九歳で、見た目が十二歳で、怪獣を殴る公務員です。好きな食べ物はビールと枝豆。マチアプを続けてますが、戦績は壊滅的です。プロフィール詐欺じゃなくて、これが本物の、蓮見ひまりです」
白城がコンパクトを見つめた。
「僕も、名乗り直します」
名刺を出さなかった。代わりに、両手をテーブルの上に置いた。
「白城誠。三十二歳。元管理局調査課。魔法少女を取材するため、マチアプ登録した最低な男です。好きな食べ物はコーヒーと、カフェで出てくる小さいクッキーです」
ひまりは笑わなかった。
笑いたかったが、まだ笑う気には、なれなかった。
「一つだけ、聞いていいですか」
「なんでも」
「あの日のデートで、子供にからかわれた時、フォローしてくれましたよね。若く見られるのは将来得ですよって。あれは、取材のためですか」
白城が目を伏せた。
カフェラテのカップに映る自分の顔を、見ているようだった。
長い沈黙だった。
カフェのBGMが流れている。ジャズ。あの日と同じ曲かもしれない。違うかもしれない。覚えていない。
「あの時はもう、取材のことを忘れていました」
白城が顔を上げた。
「嘘だと思われるかもしれない。でも、本当です。あなたが子供にからかわれて、笑顔が引きつっているのを見て、ただ、助けたいと思いました。他のことは、頭になかった」
「信じていいか、わからない」
「信じなくていいです」
白城が少し、身を乗り出した。
「でも、一つだけ言わせてください。あなたに会いたかったのは、嘘じゃなかった。動機は不純でした。でも、会って話して、笑って、あの夜帰った後、もう一度会いたいと思ったのは、本当です」
ひまりはカフェラテに口をつけた。
温かかった。あの時と、同じ温度。
「薫さんの話を、してください」
白城が瞬いた。話題が飛んだことに、驚いたようだった。
「管理局にいた時、薫さんのことを、調べたんですよね」
「はい……父が、薫さんの最後の担当でしたから」
「お父さん」
「二十年前の、管理局の職員です。薫さんが感情を失っていく時期、ずっと面会を担当していたのが、父でした。僕はその記録を、調査課で見つけたんです」
「薫さんは……どんな人でしたか?」
白城の手が震えた。カップを持つ手。あの会議の時と、同じ震え方。薫の話をする時にだけ出る、震え。
「父の記録に、書いてありました。優しい人だった、と。誰にでも、笑いかける人だった。施設の看護師にも、掃除のスタッフにも。父にも」
「笑いかける人」
「父が面会に行くたびに、薫さんは笑ってくれたそうです。感情が薄くなっているのは、検査でわかっていた。でも薫さんは、ずっと笑おうとしていた。笑えなくなっていく自分に気づいていて、それでも、笑おうとしていた。父はそう、書き残していました」
白城の声が小さくなった。
「ある日、面会に行ったら、笑わなくなっていたそうです。記録は、そこで途切れています」
ひまりは何も言わなかった。
「検査の数値が、五十八パーセントを切っていた。笑えなくなる、境界線です。薫さんの目から、光が消えていた。名前を呼んでも、返事をしなくなった」
白城がカップを置いた。手の震えが止まらない。
「父は、何もできなかったそうです。目の前で、人が消えていくのをずっと見ていた。体はあるのに、その人がいなくなっていくのを。毎週面会に行って、毎週少しずつ減っていく笑顔を記録して、最後は、記録するものすら、なくなった。……父は、そのことを、死ぬまで悔やんでいましたそうです。母にそう聞きました」
「それで、白城さんは管理局に?」
「父はずっと、僕が魔法少女に関わること自体、反対していましたが。理由も言わなかった。管理局で父の記録を読んで、謎が解けた。それで決めました。代償の問題を、世に出す。記事を書く。誰かに、知ってもらう。父が果たせなかったことを、僕がやる、と。最初は誰も耳を貸さなかった。魔法少女の代償なんて陰謀論だと。当時は、世界を守るには、そうするしかなかったんでしょう。だから、変えるために研究を続けました。そしてようやくその方法の目処が立った」
「それで、私に?」
「方法は間違っていました。でも、目的は今も変わっていません」
カフェが静かだった。午後の客は少ない。窓の外を、人が歩いている。表参道の並木。若葉だった葉が、もう夏の濃い緑になっている。梅雨が明けたのだ。
ひまりはコンパクトを、テーブルから取り上げた。
「白城さん」
「はい」
「まだ、許してないです」
白城が頷いた。
「許せるか、わからない。時間がかかるかもしれない。一生かかるかもしれない」
「待ちます」
「でも、白城さんがやろうとしてることは、正しいと思う。新型指輪を作って、次の子たちに代償を負わせないようにすること。薫さんみたいな人を、もう出さないこと。それは、正しい」
ひまりがカフェラテを飲み干した。
「だから、協力はします」
「それで、十分です」
白城が微笑んだ。
前回と同じ笑顔だった。目尻が下がる。柔らかい。
でも、前とは違うものが見えた。あの時は、完璧な笑顔だった。今は、完璧じゃない。疲れが見える。目の下に、くまがある。新型指輪の開発で、寝ていないのだろう。
完璧じゃない笑顔のほうが、本物に見えた。
ひまりは立ち上がった。
「あ、一つ聞き忘れてた」
「なんですか」
「新型指輪、間に合いますか。一ヶ月半」
白城が即答した。
「間に合わせます」
「根拠は」
「ありません」
「ないんかい」
突っ込んだ。反射的に、突っ込んでしまった。白城が笑った。ひまりもつられて、笑ってしまった。
笑ってから、気づいた。この人の前で笑ったのは、初めてだ。第二話のデートでは緊張していて、自然に笑えなかった。今は、笑えている。本物のひまりとして、笑えている。
「行きます」
「はい。お気をつけて」
カフェを出た。
表参道の空気が夏の匂いをしていた。梅雨明けの、まっすぐな日差し。並木の緑が濃い。第二話の時は、梅雨入り前のやわらかい若葉だった。ひと夏ぶんの季節が、過ぎていた。季節が変わっている。自分も、変わっている。
三歩歩いたところで、スマホが鳴った。
赤城からだった。
「蓮見。緊急だ」
赤城の声が硬い。管理局で聞く「仕事の声」だった。
「次元裂けが、複数同時に発生している。六カ所。東京湾、品川、渋谷、新宿、池袋、横浜。過去最大規模だ。全員出動」
ひまりの背筋が伸びた。
体が切り替わる。二十九歳のデート帰りの女から、歴代最強の魔法少女ティアラに。スイッチは、一瞬だった。十六年間の、条件反射。
コンパクトを握った。
振り返った。
白城がまだカフェの前に立っていた。
「行ってきます」
なぜその言葉が出たのか、自分でもわからなかった。行ってきますは、ただいまの前提がある言葉だ。帰る場所がある人が、使う言葉だ。
白城が一瞬だけ、目を見開いた。
それから、微笑んだ。震えのない笑顔だった。
「行ってらっしゃい。僕は、新型指輪の完成を急ぎます」
ひまりは走り出した。スニーカーだから走れる。九センチのヒールじゃなくて、よかった。
スマホに電話しながら、走った。
「鏡花ちゃん、聞いた?」
「聞いた。渋谷で合流する。るるにも連絡した」
「引退する前に、もう一仕事あるみたい」
「そのようだ」
電話を切った。
走りながら、コンパクトを見た。ピンクゴールド。十六年間の、相棒。
あと何回、開けるだろう?
あと何回、変身できるだろう?
今日が最後かもしれない。明日が最後かもしれない。
でも、まだ開ける。まだ変身できる。まだ、守れる。
表参道の人混みを縫って走る百四十センチの女を、誰も魔法少女だとは思わなかった。
ただの、急いでいる中学生だと思っただろう。
中学生じゃない。二十九歳だ。
二十九歳の、まだ現役の、魔法少女だ。




