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第13話 母性の正体


「るるの母性は、武器であり弱点だ」


鏡花がコーヒーを飲みながら言った。


鏡花のマンション。日曜の朝。テーブルに、三人分のマグカップ。白地に青い線。装飾なし。鏡花らしい食器が三つ、並んでいる。窓から差す朝の光が、湯気を白く照らしていた。


「他者のために壊れるのは、母性ではない。自己破壊だ」


「朝から重いよ、鏡花ちゃん」


ひまりがトーストをかじった。


「重くても、必要な話だ」


「せめてバター塗ってから言って」


「バターは関係ない」


「心の準備の話をしてるの」


るるはマグカップを両手で包んでいた。温かい。コーヒーの湯気が顔にかかる。


「鏡花ちゃんの言ってること、わかってるよ」


「わかっているなら、昨日の提案は何だ?」


昨日、るるが「一人で先に引退する」と言ったこと。

二人を守るために、自分を差し出す。十六年間、ずっとそうやって生きてきた。世話を焼き、敵を浄化し、自分の感情をすり減らしてきた。引退の申し出も、その延長でしかなかった。


「やり方を、知らないの」


るるが言った。


「自分のために動くやり方が、わからない。考えようとすると、頭が白くなる。メニュー見ても、自分が食べたいもの選べないし。行きたい場所聞かれても、出てこないし」


「それは代償のせいか」


「わかんない。代償のせいかもしれないし、もともとそういう性格だったのかもしれない。十六年もやってると、どっちが先だったか、忘れちゃうんだよね」


鏡花が黙った。


自分にも、覚えがある。感情が本物か模倣か、区別がつかない。鏡花の場合は感情の有無。るるの場合は、性格と代償の境界。似た苦しみの、形が違うだけだ。


ひまりがトーストを置いた。


「るるさん。木下さんのところ、行っておいで。今日、予約入ってるでしょ」


「よく知ってるね」


「カレンダー共有してるからね。鏡花ちゃんが設定した」


「情報共有は、安全管理の基本だ」


「友達のスケジュールを安全管理する人、初めて見たよ」


るるは笑って、立ち上がった。



結婚相談所。木下さんのデスク。


るるが座った。木下さんがファイルを開いた。いつもの流れだ。ただし今日は、一つ違うものがある。


るるが鞄から、メモ用紙を出した。


三行。涙でにじんだ、丸い字。


頭を撫でてほしい。

大丈夫だよって言ってほしい。

一人にしないでほしい。


木下さんが読んだ。


長い沈黙だった。


「書けたじゃないですか」


木下さんが微笑んだ。いつもの事務的な笑顔では、なかった。もっと個人的な、温かい笑顔だった。


「友達に、手伝ってもらいました」


「それでいいんです。一人でできないことを、誰かに頼む。それが豊科さんの、次のステップです」


るるはメモを見つめた。箱根の夜に書いた字。鏡花に頭を撫でてもらいながら書いた字。ひまりに手を握ってもらいながら、書いた字。


「次のお見合い、一つだけ変えてみましょう」


木下さんがペンを置いた。


「料理の取り分けを、我慢してみてください」


「我慢」


「相手にやってもらうの。水を注ぐのも、ナプキンを直すのも、全部我慢。相手がやってくれたら、ありがとうって言う。それだけ」


「それだけ」


「それが、一番難しいでしょう?」


木下さんはるるのことをよく見ている。四回のカウンセリングで、るるの核にあるものを、正確に掴んでいた。



お見合いは、翌週の水曜日だった。


日本橋のイタリアン。前回と、同じ店。


相手の名前は、藤野慎一。小学校教師。三十四歳。前回のお見合いで好感触だった、あの穏やかな男だ。


席に着いた。


藤野が笑った。


「また会えて、嬉しいです」


「私もです」


声が自然に出た。前回の一回目より、緊張が少ない。藤野の笑顔に、見覚えがある。安心感がある。


メニューを開いた。


木下さんの宿題を思い出す。自分が食べたいものを、選ぶ。


パスタのページ。カルボナーラ。ペペロンチーノ。ボロネーゼ。ジェノベーゼ。ミネストローネ。


前回はカルボナーラを選んだ。藤野に、合わせた。


今回は、自分で選ぶ。


三秒、かかった。


三秒。短いようで、長い。前回は自分で選べずに、藤野に合わせた。今日は、三秒で決められた。


「ミネストローネ、ください」


なぜミネストローネかは、自分でもわからない。温かいスープが飲みたかった。理由は、それだけ。それだけの理由で料理を選んでいいのだと、今は思える。


藤野がペスカトーレを頼んだ。


料理が来るまでの間、会話が流れた。学校の話。最近読んだ本。子供たちの読書傾向が変わっている、という話。


藤野が水差しを持った。るるのグラスに、水を注ごうとしている。


るるの手が動いた。反射的に。水差しを、取ろうとした。


止めた。


テーブルの下で、右手を握る。爪が掌に食い込んだ。


止まれ。私の手。止まれ。


藤野が、るるのグラスに水を注いだ。


「どうぞ」


「ありがとう、ございます」


言えた。声が少し裏返った。誰かに水を注いでもらう経験が、あまりにも少なくて、声の出し方がわからなかった。


料理が来た。


藤野のペスカトーレの海老が、端に寄っている。直したい。フォークの位置が少し遠い。寄せてあげたい。ナプキンが膝から落ちかけている。拾いたい。


右手がテーブルの下でグーパーしている。


握って、開いて、握って、開いて。


世話を焼きたい衝動と、戦っている。十六年間の癖。いや、もっと前からかもしれない。子供の頃から、人の世話を焼いていた。代償のせいか、性格のせいか、わからない。でも今日は、我慢する。今日は、してもらう日だ。


藤野が、るるの皿を見た。


「あ、パン取りましょうか」


パンのバスケットが藤野の側にあった。るるの手が、伸ばしにくい位置。


藤野がパンを取って、るるの皿の横に置いた。


「ありがとうございます」


また、声が裏返った。


藤野が笑った。


「豊科さん、前回より自然になりましたね」


「え」


「前回は、水を注ぐのを我慢してるのが、丸わかりでしたけど。今日はもう少し、自然で」


「バレてたんですか」


「手がずっと、テーブルの下で動いてましたよ。今日も、動いてますけど」


バレていた。完全に、バレていた。


るるの顔が赤くなった。


「取り分けたい衝動と、戦ってるんです」


口から出た。正直に、出た。


こんなことをお見合いの席で言う女が、いるだろうか。取り分けたい衝動と戦っている、三十一歳。婚活プロフィールには、書けない情報だ。


藤野が、声を出して笑った。


「じゃあ、僕がやりましょう。取り分けるの、好きなんです。職業病で」


藤野が、るるのミネストローネにパンを添えた。小さなパン。温かい。丸い。


「先生って、子供たちにもこうするんですか?」


「給食の時間は、もっと戦場ですよ。牛乳こぼす子、パンを投げる子、おかわりを五回する子」


「五回」


「五回です。成長期って、すごいですよ」


るるが笑った。


自然に、笑った。


一拍の遅れがなかった。


面白いと思った瞬間に、口角が上がった。前のお見合いでは、遅れた。今日は、遅れなかった。


ミネストローネが温かかった。


自分で選んだスープが、温かかった。



デザートの時間。


藤野がメニューを開いた。


「豊科さん、何がいいですか」


「ティラミスで」


一秒で答えた。三秒、かからなかった。


藤野が「即答ですね」と笑った。るるも笑った。即答できたことが、嬉しかった。食べたいものが、わかった。自分の中に、ちゃんと好みがあった。代償で消えかけていたのではなく、ただ蓋をしていただけ、だったのかもしれない。


会計の時、藤野が先に立ち上がった。


「ここは、僕に」


「いえ、割り勘で」


「次は豊科さんが選んだお店で、豊科さんに奢ってもらいます。だから今日は、僕に」


次が、ある。


次を前提にしてくれている。


「じゃあ……お言葉に、甘えて」


甘えた。お言葉に、甘えた。この台詞を自然に言える日が来るとは、思わなかった。



店を出た。日本橋の夜。


梅雨の晴れ間の、生ぬるい夜風が吹いていた。昼間の熱を残した風が、頬を撫でていく。


藤野が立ち止まった。


「豊科さん」


「はい」


「僕、お母さんみたいだとは、思ってないですよ」


るるの足が止まった。


「前回、お母さんみたいって言ったの、気にしてるかなと思って。撤回します」


「撤回」


「温かい人だとは、思います。でも、お母さんじゃなくて……一緒にいたい人です」


夜の空気のなかで、るるの目が熱くなった。


泣きそうだった。


泣けた。泣けることが、嬉しかった。嬉しいから泣けることが、もっと嬉しかった。


「ありがとう、ございます」


声が震えた。また裏返った。今日、何度目かの裏返りだった。


「また、会えますか」


藤野が聞いた。


「はい」


即答した。ティラミスより、速かった。


即答してから、顔が赤くなった。暗いから見えないと思いたい。


左手が光った。


指輪だ。蛍のように、明滅している。箱根の夜より、明るい。


藤野が目を丸くした。


「その指輪、光ってますけど」


「気のせいです」


「いや、かなりはっきり、光ってますよ」


「気の、せいです。イルミネーションの反射です」


るるが左手を背中に隠した。隠しきれない。指輪は明滅を続けている。感情が動くたびに、反応しているのだ。


「体質、なんです」


「指輪が光る、体質?」


「はい。その。いろいろ、ありまして」


藤野は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。聞かない優しさがあった。


改札で別れた。藤野が手を振った。るるも手を振った。光る指輪のせいで、手を振るたびに、ホタルみたいになった。




るるは電車に乗った。


ひまりに電話した。


「ひまりちゃん」


「どうだった」


「笑えた。自然に、笑えたの」


「るるさん」


「あとね、取り分けてもらった。パンと、水と。あと、ティラミス自分で選べた」


「すごい」


ひまりの声が震えていた。


「るるさん、よかったね」


「うん。よかった。すごく、よかった」


電話を切った。


電車の窓に、自分の顔が映っている。笑っている。自然に、笑っている。目も笑っている。


冷蔵庫のメモを思い出した。三行の宿題。


もう一行、足せるかもしれない。


——自分のために、笑いたい。



帰宅して、鞄を置いた。スマホを見た。


アプリの通知。マチアプの通知では、ない。ひまりから転送された、スクリーンショットだった。


ひまりのアプリに、白城のプロフィールがまだ残っていた。削除されていなかった。


添えられた、ひまりのメッセージ。


『消せてなかった。自分でも、びっくりした』


るるは画面を見て微笑んだ。


指輪が一度だけ光った。

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