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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第七章「森の隣人」

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第90話 ハクアのこと

植物について、お互いの知っていることを初めて交換したユウマとエルネア。


翌日。


今度は、ずっと二人のそばにいるハクアのことが話題になります。

 夕方。


 エルネアが帰ったあと、俺は日陰に置いていた草を一度持ち上げた。


「まだ早いな」


 茎を軽く曲げる。


 水分は少し抜けている。


 でも、裂いてまとめるにはまだ柔らかすぎる。


 もう少し待つ。


 昼間、エルネアに話したばかりのことを、そのまま自分で確かめる。


 生のままだと滑る。


 少し乾かした方が扱いやすい。


 乾かしすぎれば脆くなる。


 俺にはもう当たり前になっていた。


 でもエルネアは知らなかった。


「俺が知ってて、エルネアが知らないこともあるんだな」


 火の近くへ戻る。


 ハクアが少し離れた場所で伏せていた。


「お前のことも、俺よりエルネアの方が知ってるんだよな」


 白い耳が動く。


「マナヴォル、だっけ」


 最初に聞いた時は驚いた。


 ずっと犬だと思っていた。


 白い子犬。


 少し賢いとは思っていたけれど、それ以上のことは知らなかった。


 今も。


 マナヴォルという名前を知っただけで、ハクア自体が変わったわけではない。


「まあ、お前はハクアだけど」


 白い顔がこちらを向く。


「それでいいよな」


 返事はない。


 でも、それで困らない。


 火へ枝を一本足した。


     ◇


 翌朝。


 少し雲はあるが、雨の気配はない。


 水を汲む。


 戻って火を整える。


 昨日採った草を触る。


「これくらいか?」


 昨日より水分が抜けている。


 一本だけ裂いてみる。


 指先へ繊維が残る。


 まだ少し滑る。


「もうちょっとだな」


 元へ戻す。


 今日は遠くへ行くつもりはなかった。


 昨日の採取で、すぐ必要なものは足りている。


 拠点の近くで薪を集め、道具を少し直す。


 そのくらいでいい。


 午前の途中。


 ハクアが森へ出ていった。


「行ってらっしゃい」


 白い尾が木々の向こうへ消える。


 最近は見送ることにも慣れた。


 戻る。


 そう思えるようになったからだ。


「…………」


 最初の頃なら考えられなかった。


 姿が見えなくなるだけで。


 もう来ないかもしれないと思っていた。


 今は。


「腹減ったら戻ってくるだろ」


 それくらいに考えている。


 自分でも変わったと思う。


     ◇


 昼前。


 石の刃を確認していると、森の方から音がした。


 顔を上げる。


 白ではない。


 先に見えたのは銀色だった。


「こんにちは」


「こんにちは」


 エルネアが木々の間から出てくる。


 肩にはいつもの鞄。


 片手に採取袋。


「今日はこっち?」


「少し先を見てた」


「じゃあ、またついで?」


「今回はそう」


 もう素直に認める。


 エルネアは空き地の手前で止まった。


「入っていい?」


「どうぞ」


 中へ入る。


 すぐに周囲を見た。


「ハクアは?」


「森」


「一人で?」


「うん」


 エルネアが少しだけ残念そうな顔をする。


「会いたかった?」


「少し」


「そのうち戻ると思うよ」


「分かるの?」


「大体」


「大体」


「今まで戻ってきてるから」


 それ以上の根拠はない。


 でも、今はそれで十分だった。


 エルネアはいつもの場所へ座る。


 俺も近くへ戻った。


「水いる?」


「もらう」


 樹皮の容器へ入れて渡す。


 エルネアは一口飲み、火の近くへ置いた。


 俺は石の刃へ視線を戻す。


 しばらく静かな時間が続いた。


 エルネアは採取袋の中を確かめている。


 俺は刃の欠けを指でなぞる。


「ユウマ」


「何?」


「一個聞いていい?」


 俺は顔を上げた。


「一個?」


「一個」


「珍しい」


「誰の真似?」


「エルネア」


「私が先に言ったの」


 確かにそうだった。


「何?」


 聞く。


 エルネアは少しだけ森の方を見る。


「ハクアのこと」


「ハクア?」


「どうやって会ったの?」


 少し意外だった。


「まだ話してなかった?」


「ちゃんとは聞いてない」


「そうだっけ」


「マナヴォルだって話をした時も、ハクアが自分でここにいるってことくらい」


「ああ」


 確かに。


 出会いから順番に話したことはない。


「聞きたい?」


「聞きたい」


 即答だった。


 でも。


 俺は少し考える。


「その前に、俺も聞いていい?」


「何?」


「マナヴォルって、結局どんなの?」


 名前と、珍しいこと。


 頭がいいらしいこと。


 そのくらいしか知らない。


 エルネアが少し目を細めた。


「私が知ってる範囲で?」


「うん」


「それなら」


 エルネアは膝の上へ手を置く。


 少し考えてから話し始めた。


「まず、かなり珍しい」


「それは前に聞いた」


「本当に珍しいの」


「どのくらい?」


「私も生きている個体をこんな近くで見たのは初めて」


「エルネアでも?」


「うん」


 それなら確かに珍しい。


 森を調べているエルネアが、初めてと言うくらいだ。


「古い記録にはいくつか残ってる」


「記録?」


「見つけた場所とか、行動とか」


 エルネアは言葉を選ぶ。


「高い知性を持つ、と書かれているものが多い」


「賢いってこと?」


「そう」


 俺は森の方を見る。


 ハクアはまだ戻っていない。


「それは分かる気がする」


「どういうところ?」


「言ったこと、結構分かってそうだから」


「やっぱり?」


「全部じゃないと思うけど」


 帰ろう。


 待て。


 こっち。


 そういう簡単な言葉には反応する。


「あと、嫌なことは嫌って分かりやすい」


「それは知性と関係ある?」


「あるんじゃない?」


 エルネアが少し笑う。


「他には?」


 俺が聞く。


 エルネアの表情が少しだけ真面目になる。


「むやみに人を襲わない、という記録もある」


「襲わない?」


「絶対じゃないよ」


 すぐに付け足された。


「刺激した場合とか、状況までは分からない記録もあるから」


「じゃあ、何もしなければ襲わないかもしれないくらい?」


「そのくらいで考えた方がいい」


 断定しない。


 いつものエルネアだ。


「昔の話には、もう少し変わったものもある」


「変わった?」


「遭難した人を助けたとか」


「助けた?」


「怪我をした人の近くに現れて、安全な場所まで人を導いたとか」


 俺は少し黙る。


「ハクアが?」


「マナヴォルの話」


「ああ」


 今ここにいるハクアがやったわけではない。


「道に迷った人の前に現れて、ついていったら森を抜けられた、という伝承もある」


「へえ」


 意外だった。


 危険な魔物の話かと思えば。


 人を助ける話まで残っている。


「本当なの?」


「分からない」


 エルネアはすぐ答えた。


「記録として残ってるものもあるけど、古い話は後から大きくなってる可能性もある」


「じゃあ、伝承?」


「そういうものも混ざってると思う」


「事実かどうかは分からない」


「うん」


 それで十分だった。


 昔のマナヴォルが人を助けた。


 そういう話がある。


 今のところは、それだけ。


「でも」


 俺は少し考える。


「何となく分かる気もする」


「何が?」


「ハクア、危ない方にはあんまり行かせたがらない時あるから」


 エルネアの顔が変わった。


「本当?」


「あ」


 また研究者の目になった。


「一個ずつ」


「今のはユウマが言ったでしょう?」


「そうだった」


 逃げられない。


「例えば?」


「森歩いてる時に、先に止まる」


「何かある?」


「大体は」


 獣の匂い。


 足元の悪い場所。


 俺には分からないものを先に見つけていることがある。


「でも、それが安全な方向へ案内してるってことかは分からない」


「それでいい」


 エルネアは頷く。


「事実は、ハクアが先に止まることがある」


「そう」


「理由は分からない」


「そう」


 満足したらしい。


「記録する?」


「あとで」


「するんだ」


「する」


 即答だった。


 少し笑う。


「じゃあ次、俺の番?」


「うん」


「ハクアと会った時?」


「最初から」


 俺は少し考える。


 最初。


 白い姿。


 遠くにいた。


「最初は、近くにいなかったよ」


「どのくらい?」


「姿が見えるか見えないかくらい」


 森の奥。


 一瞬見える白。


 最初は何なのかも分からなかった。


「こっち見てた?」


「多分」


「近づいてきた?」


「全然」


 むしろ距離を取っていた。


「俺も追わなかったし」


「どうして?」


「怖がってるなら追わない方がいいだろ」


 それだけだ。


 正体も分からなかった。


 危ない生き物の可能性だってあった。


「でも気になってた?」


「まあ」


 白い毛。


 足跡。


 少しずつ存在が見えてきた。


「魚を置いたことはある」


「魚?」


「食べるかなと思って」


「近づくため?」


「違う」


 すぐ答える。


「来るかどうか見たかっただけ」


「食べた?」


「なくなってた」


「ハクアが?」


「その時は分からなかった」


 他の獣かもしれない。


 そう思っていた。


「じゃあ、それで近づいた?」


「いや」


 そんなに簡単ではなかった。


「少しずつ」


 遠くにいた。


 近くに来た。


 また離れた。


 それを何度か繰り返した。


「それから」


 思い出す。


 いつもと違った日。


「怪我してた」


 エルネアの表情が変わる。


「ハクアが?」


「前脚」


 片方。


 うまくつけなくなっていた。


「ひどかった?」


「歩けないほどじゃなかったけど、痛そうだった」


「それで?」


「水置いた」


「水?」


「近づいて直接何かするのは無理そうだったから」


 ハクアはまだ警戒していた。


 触れる距離ではなかった。


「それで?」


「その日は、水を飲んだあと森へ戻った」


「治療は?」


「次の日、ハクアが自分から近づいてきた」


「傷を水で洗って、服の端を裂いた布を巻いた」


「前脚に触れた?」


「その時、初めて触れた」


「嫌がらなかった?」


「嫌ならすぐやめるつもりだった。でも、逃げなかった」


 エルネアが黙る。


「何?」


「それでハクアは残ったの?」


「その日は空き地で休んだ」


「休める場所も作った?」


「乾いた草と葉を置いただけ。使うかどうかはハクアに任せた」


「ずっと残った?」


「すぐじゃないよ」


 また少しずつだった。


 水を飲む。


 休む。


 俺が近くにいても逃げなくなる。


 距離が縮まる。


「怪我が良くなってからも?」


「いた」


「出ていけた?」


「普通に」


 どこかへ行くことはできた。


 実際、森へ出るようにもなった。


「でも戻ってきた」


「うん」


「それから一緒に歩くようになった?」


「そう」


 最初は俺が歩く。


 ハクアが少し離れてついてくる。


 いつの間にか横にいる。


 時には先を歩く。


「名前はいつ?」


「一緒にいるようになってから」


「何でハクア?」


 そこは少し考える。


「白かったから」


「それだけ?」


「ほとんど」


 エルネアが少し笑う。


「もっと意味があるのかと思った」


「俺も後から考えたら単純だなと思った」


 でも。


 呼べば耳を向ける。


 今ではもう、その名前以外は考えにくい。


「本人が嫌そうじゃなかったから」


「本人」


「ハクア」


「うん」


 エルネアの笑いが少し消える。


 代わりに、何かを考える顔になった。


「それで、今までずっと?」


「ずっとって言っても、途中からだけど」


「捕まえたりは?」


「してない」


「紐で繋いだことは?」


「ない」


「何か約束みたいなものは?」


「ないよ」


 俺は森の方を見る。


「ハクアがいるだけ」


 朝になればいる。


 森へ行く。


 戻る。


 一緒に歩く。


 火の近くで眠る。


「出ていくなら止めない?」


 エルネアに聞かれる。


 少しだけ考える。


「寂しいとは思う」


 それは間違いない。


「でも止められないだろ」


「どうして?」


「ハクアが決めることだから」


 俺のものではない。


 名前をつけたから。


 食べ物を置いたから。


 水を置いたから。


 だからここにいなければならない。


 そんなことにはならない。


「今は戻ってくるから、一緒にいる」


 それだけ。


「…………」


 エルネアが黙った。


「また考えてる?」


「うん」


「何を?」


「最初から知らなかったんだなって」


「何を?」


「マナヴォルだってこと」


「ああ」


 それは当然だ。


「犬だと思ってた」


「まだそれ言う?」


「だって本当にそうだったし」


 白い子犬。


 それが最初の印象だった。


 エルネアは少しだけ息を吐く。


「ユウマ」


「何?」


「もし最初からマナヴォルだって知ってたら、どうしてた?」


 少し考える。


「珍しいって知ってたら?」


「うん」


「…………」


 答えはあまり変わらない気がする。


「怪我してたなら、水は置いたと思う」


「近づいた?」


「警戒してたら追わない」


「魚は?」


「食べそうなら置く」


「…………」


「多分同じ」


 珍しいかどうかは。


 その時の俺にはあまり関係ない。


「だって、怪我してたのはハクアだろ?」


 エルネアの目が少し見開かれた。


「マナヴォルだから怪我してたわけじゃないし」


 白い何か。


 怖がっている。


 前脚を痛めている。


 水が必要かもしれない。


 最初に見ていたのは、それだけだった。


「…………」


「変なこと言った?」


「ううん」


 エルネアがゆっくり首を振る。


「何か分かった?」


「少し」


「俺のこと?」


「ハクアのことと、ユウマのこと」


「また俺も入るの?」


「入る」


 研究者だからだろうか。


 でも、今の顔は昼間に植物を見ていた時とは少し違った。


「何が分かった?」


 聞いてみる。


 エルネアはすぐには答えない。


「ユウマは、珍しいマナヴォルだからハクアに近づいたわけじゃない」


「そもそも知らなかったし」


「うん」


「犬だと思ってたし」


「それはもう分かった」


 少しだけ笑われる。


「それで十分?」


「今は」


 今は。


 最近よく聞く言葉だ。


 答えを急がない。


 決めつけない。


 エルネアらしい。


     ◇


 少しして。


 森の奥から軽い足音がした。


 二人とも同時に顔を上げる。


 白い身体が木々の間から出てくる。


「あ」


 エルネアの声が小さく上がった。


「おかえり」


 俺が声をかける。


 ハクアはそのまま空き地へ入った。


 エルネアを見る。


 鼻先が少し上がる。


 でも止まらない。


 そのまま俺たちの前を通り、水の方へ向かった。


「本当に戻ってきた」


「言っただろ」


「大体、でしょう?」


「今日は当たった」


 ハクアは水を飲む。


 そのあといつもの場所へ行くかと思ったが。


 途中で止まった。


 エルネアを見る。


「…………」


 エルネアも動かない。


 少し待つ。


 ハクアが数歩だけ近づいた。


「え」


 小さな声。


 エルネアは手を伸ばさない。


 膝の上へ置いたまま。


 ハクアはその少し前で止まり、鼻を動かす。


 匂いを嗅ぐ。


「こんにちは、ハクア」


 エルネアが静かに言う。


 白い耳が動いた。


 それだけ。


 ハクアは向きを変え、いつもの場所へ歩いていった。


「…………」


 エルネアがしばらく動かない。


「近かったな」


「うん」


「触らないんだ」


「まだ」


「我慢できた?」


「できた」


 かなり嬉しそうだった。


「さっきの話聞いてたんじゃない?」


「それはないだろ」


「マナヴォルは知性が高いって」


「何でも分かるとは言ってない」


「そうだけど」


 ハクアを見る。


 白い身体はもう伏せている。


 目も少し細くなっていた。


「まあ」


 俺は火へ枝を一本足す。


「聞いてても困る話してないし」


「犬だと思ってた話も?」


「それは忘れてほしい」


 エルネアが笑った。


「記録しておこうかな」


「やめろ」


「マナヴォルを犬だと思っていた、と」


「そこ一番いらないだろ」


「重要かもしれない」


「何に?」


「ユウマが最初から希少性を知らなかった証拠」


「そういう使い方する?」


 エルネアはまだ笑っている。


 俺も仕方なく笑った。


 マナヴォル。


 珍しい。


 賢い。


 古い話では、人を助けたこともあるらしい。


 今日、少し知った。


 でも。


 俺の横で伏せている白い身体を見る。


「ハクア」


 呼ぶ。


 耳が一度動く。


 それでいい。


 種族について知ることは増えても。


 俺が最初に知ったのは。


 遠くからこちらを見ていた、白い一匹だった。

第90話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


マナヴォルには、人を助けたという古い記録や伝承も残されています。


ただし、どこまでが事実なのかはエルネアにも分かりません。


そしてユウマは、ハクアが珍しい種族だとは何も知らないまま、一匹の怪我をした生き物として接していました。


ハクアがなぜユウマのそばへ残ったのか。


その答えは、まだ分かりません。

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