第91話 森の外
ハクアについて話した翌日。
ユウマはいつもの一日を過ごします。
そしてさらに翌日、エルネアが持つ身近な道具から、今までほとんど考えてこなかった「森の外」へ話が広がります。
翌朝。
目を覚ますと、ハクアはすでに起きていた。
空き地の端に座り、森の方を見ている。
「早いな」
白い耳がこちらへ向く。
「おはよう」
返事はない。
俺は火の方へ移動した。
灰を崩す。
残っていた赤いところへ乾いた葉を寄せ、細枝を重ねる。
息を吹き込む。
小さな火が戻った。
「よし」
それから水を汲みに行く。
戻って。
食べるものを用意する。
昨日まで乾かしていた草を触る。
「これくらいだな」
一本を裂く。
前より滑らない。
繊維も切れずについてくる。
昨日エルネアへ説明した、半分くらい乾いた状態。
今日はちょうどよさそうだった。
「やるか」
何本か裂く。
細い繊維をまとめる。
少しずつ撚る。
全部を一度にやる必要はない。
必要な分だけ作る。
途中でハクアが森へ出ていった。
「行ってらっしゃい」
昨日。
エルネアにハクアとの出会いを話した。
遠くにいたこと。
魚を置いたこと。
怪我をしていたこと。
水を置いたこと。
傷を水で洗い、服を裂いた布を巻いたこと。
休める場所を用意したこと。
少しずつ近づいてきたこと。
思い返せば、随分前のように感じる。
「百日以上いるもんな」
正確な日数は毎日数えているわけではない。
それでも三か月以上経った。
最初に目を覚ました頃とは、空き地の様子も随分違う。
雨避け。
火。
棚。
容器。
石の道具。
乾かしているもの。
地図。
そして。
森へ消えた白い後ろ姿を見る。
「ハクア」
今ではそれも、この場所にあるものの一つになっていた。
◇
その日、エルネアには会わなかった。
午前中は草の繊維を処理した。
昼からは拠点の少し北側を歩き、落ちている枝を集める。
夕方にはハクアも戻った。
「おかえり」
白い身体が水を飲みに行く。
俺は集めた枝を火の近くへ置く。
普通の一日。
最近、エルネアと会う日が増えた。
でも。
会わない日は会わない。
それでいい。
俺には俺の暮らしがある。
エルネアには、エルネアのやることがある。
火へ枝を一本足す。
「明日は何するかな」
ハクアはすでに伏せていた。
その日は、それで終わった。
◇
さらに翌朝。
少し風があった。
雨避けの端に吊るしていた草がゆっくり揺れている。
「乾くな」
朝のうちに水を汲む。
戻ってから石の刃を一つ取り出した。
昨日、繊維を裂く時に何度か使ったものだ。
刃先を見る。
「少し鈍った?」
指で慎重に触れる。
切れなくなったわけではない。
でも、最初より引っかかりが弱い。
平らな石を持ってきて、刃先を軽く擦る。
角度を変える。
また擦る。
「こんなもんかな」
何度やっても。
金属の刃とは違う。
当然だ。
エルネアのナイフを思い出す。
薄く。
真っ直ぐで。
植物を切った跡も綺麗だった。
「金属、いいよな」
今まで何度か思った。
初めてエルネアのナイフを見た時もそうだった。
でも。
ないものは仕方ない。
石でできる範囲を使ってきた。
「斧とかあったらな」
今度は腰の石斧を見る。
木を切る。
枝を払う。
細いものなら使える。
ただし時間がかかる。
刃も欠ける。
柄との固定も何度か直している。
「金属の斧なら、もっと楽なんだろうな」
独り言を言いながら石を擦っていた時。
森の方で枝が鳴った。
「ん?」
ハクアが顔を上げる。
鼻先がそちらへ向く。
「エルネア?」
少し待つ。
木々の間に銀色が見えた。
「やっぱり」
エルネアが歩いてくる。
「こんにちは」
「こんにちは」
肩には鞄。
腰にはいつものナイフ。
手には記録帳を持っていた。
「今日は記録しながら?」
「少し前まで」
エルネアは空き地の前で止まる。
「入っていい?」
「どうぞ」
中へ入ってくる。
ハクアを見る。
「こんにちは、ハクア」
白い耳が動いた。
エルネアも、もうそれだけで大きく騒がない。
少し口元が緩む程度だ。
「何してたの?」
「これ」
俺は石の刃を上げた。
「少し鈍ったから」
「研いでた?」
「研ぐってほどちゃんとしてるか分からないけど」
平らな石も見せる。
「擦ってる」
エルネアが近くへしゃがむ。
俺の石刃を見る。
「これ、ずっと使ってるんだよね」
「同じやつじゃないけど」
欠けたら作り直す。
形が悪くなれば別の石を使う。
「何個目かは覚えてない」
「金属が欲しいとは思わない?」
視線が自然にエルネアの腰へ向く。
「思う」
即答した。
「特に最近」
「最近?」
「エルネアのそれ見てから」
ナイフを指す。
「切り口綺麗だし」
「これ?」
エルネアが腰の鞘へ触れる。
「普通のナイフだけど」
「俺には普通じゃない」
俺の刃は石だ。
エルネアの刃は金属。
差は見れば分かる。
「そういえば」
俺は少し考える。
「それ、どこで作ったの?」
「私が作ったわけじゃないよ」
「じゃあ誰?」
「職人」
「職人?」
「金属を加工する人」
それは分かる。
金属を熱して。
叩いて。
形にする。
そういうものがあること自体には驚かない。
俺がやったことがないだけだ。
「この森にいる?」
「いない」
答えはすぐだった。
「じゃあ外?」
「外」
その一言で。
少し前から頭の中にあったものが、急に近くなった気がした。
森の外。
エルネアから、その存在自体は聞いている。
人がこの森へあまり入らないこと。
大陸共通文字が森の外でも使われていること。
でも。
具体的にどういう場所なのかは、ほとんど知らない。
「外って」
「何?」
「どんなところ?」
エルネアが少し止まった。
「どこから?」
「……そこから聞かれると困るな」
「私も今そう思った」
少し笑われる。
俺は石の刃を横へ置いた。
「じゃあ、一個ずつ」
「ユウマが言う?」
「使えるから」
エルネアも火から少し離れた、いつもの場所へ座る。
「何が知りたい?」
俺は考える。
森の外。
最初に浮かんだもの。
「人が住んでる?」
「住んでる」
「たくさん?」
「場所によるけど、この森の中よりはずっと会うと思う」
「町とかある?」
「あるよ」
「町」
言葉自体は知っている。
人が集まって暮らす場所。
家が並び。
道があり。
いろんなものがある。
そのくらいのイメージはある。
「大きい?」
「それも町による」
「小さいところも?」
「ある」
エルネアは少し考える。
「何十軒か建物が集まってるくらいの場所もあるし、もっと人が多いところもある」
「へえ」
想像する。
建物が何十。
俺の空き地にある雨避けとは違う。
エルネアの研究拠点の古い建物にも驚いた。
それがいくつも並ぶ。
「道もある?」
「ある」
「森の獣道みたいな?」
「もっと歩きやすいところも多いよ」
エルネアが笑う。
「人が何度も通るから」
「目印なくても行ける?」
「普通の道なら」
それはかなり便利だ。
俺は森を歩く時、木や岩を覚える。
目印もつける。
地面の状態も見る。
外の道なら、人が通るための道そのものが続いているらしい。
「人と会う?」
「道なら会うこともある」
「知らない人と?」
「うん」
少し不思議だ。
この森で。
三か月以上。
最初に会った人がエルネアだった。
だから、人と会うこと自体がまだ特別に感じる。
外では。
知らない人が歩いている。
「みんな何してる?」
「いろいろ」
「雑じゃない?」
「質問が広いの」
言われて納得する。
「じゃあ」
次。
「食べ物とかどうしてる?」
「買う人もいるし、自分で作る人もいる」
「買う」
聞き慣れた言葉のはずなのに。
今の俺には少し遠い。
「店?」
「店もあるし、市場もある」
「市場」
「食料とか、道具とか、いろんなものを売ったり交換したりしてる」
「交換も?」
「あるよ」
俺は自分の周囲を見る。
食べるもの。
木。
石。
草。
全部自分で探した。
作れるものは作る。
作れなければ諦める。
それが今の生活だ。
外では。
自分で作れないものを、誰かから手に入れられるらしい。
「じゃあ」
エルネアのナイフを見る。
「金属の道具も?」
「売ってる」
やっぱり。
「斧は?」
「ある」
「金属の?」
「あるよ」
反応が早すぎたのか。
エルネアが少し笑った。
「そこ?」
「そこ」
俺は腰の石斧を取った。
「これで木切ったことある?」
「ない」
「時間かかるぞ」
石斧を持ち上げる。
「細い木でも何回も叩くし、刃欠けるし、柄もずれる」
「金属の斧が欲しい?」
「欲しい」
また即答する。
今度はエルネアがはっきり笑った。
「そんなに?」
「三か月これ使ってから言ってくれ」
石斧を見せる。
「かなり頑張ったんだぞ」
「それは見れば分かる」
刃。
柄。
固定した繊維。
何度も直した跡。
「金属なら、もっと切れる?」
「ちゃんとした斧なら」
「丈夫?」
「石よりは、かなり」
「いいな……」
思わず声が出る。
ナイフもいい。
斧もいい。
小さな刃物でも、今よりずっと作業が楽になるはずだ。
「鍋とかも金属?」
「ある」
「鍋」
今度は火の方を見る。
焼き物。
樹皮の容器。
火に直接かけられるものは限られている。
「欲しいもの増えるな」
「外の話、そこに行くのね」
「生活で使えるものが一番分かりやすい」
町の大きさより。
人の数より。
今はそっちの方が想像しやすい。
「金属製品を作る人がいる」
「いる」
「それを売る店も?」
「ある」
「食べ物も?」
「ある」
「じゃあ、自分で全部作らなくていい?」
「外ではそういう暮らしの人の方が多いと思う」
「…………」
少し黙る。
それは。
今の俺とはかなり違う。
何かが必要になる。
探す。
試す。
作る。
失敗する。
直す。
それを繰り返してきた。
外では、誰かが作ったものを手に入れられる。
「楽そう」
「全部が楽ってわけじゃないと思うけど」
「少なくとも斧は楽」
「斧から離れないね」
「欲しいから」
エルネアがまた笑った。
◇
「そういえば」
俺は少し考える。
「外にいるのって、人間だけ?」
「違うよ」
「アルヴェインも?」
「いる」
「エルネアみたいな?」
「私みたいな、が何を指してるかによるけど」
「耳」
反射的に答える。
「また耳」
「分かりやすいから」
「まあ、アルヴェインもいる」
エルネアは自分の耳へ一瞬触れた。
「ほかにも?」
「いるよ」
「どんな種族が?」
「それは今説明し始めると長い」
「じゃあやめる」
「早い」
「今日は外の話だから」
俺は最近学んだ。
一つの知らないことから、別の知らないことへ進むと終わらなくなる。
「人間以外も町に住んでる」
「そう」
「一緒に?」
「場所によるけどね」
「分かった」
今はそれで十分だ。
外には。
町がある。
道がある。
市場や店がある。
食料や道具を売ったり交換したりしている。
金属を加工する職人がいる。
人間以外の種族もいる。
今まで。
森の外という言葉だけだった場所に。
少しだけ形ができた。
「エルネアは行ったことあるんだよな?」
「あるよ」
「よく行く?」
「たまに」
「たまに?」
「必要な時に」
俺の視線が。
ナイフ。
衣服。
記録帳。
鞄。
順番に動く。
「それも?」
「外で手に入れたものもある」
やっぱりそうだ。
エルネアがここで全部作っているわけではない。
「外まで遠い?」
聞く。
エルネアが少しだけ考えた。
「それは」
そこで止まる。
「何?」
「ユウマの今の生活圏から考えると、簡単に行って帰れる距離ではないかな」
「そっか」
「道も知らないでしょう?」
「知らない」
俺が一人で行こうとしても。
今はどちらへ進めば森を出られるのかすら分からない。
それに。
外へ行く途中の水。
危険。
戻る道。
何も分からない。
「今すぐ行くのは無理だな」
「一人では勧めない」
「行くなら?」
「まず道を知ってから」
「それはそうだな」
俺自身もそう思う。
知らない場所へ。
知らないまま進む。
これまで森の探索で、何度も避けてきたことだ。
外だからといって変える理由はない。
「でも」
エルネアが俺を見る。
「興味はある?」
「ある」
今度は迷わなかった。
町。
道。
市場。
店。
金属の斧。
「特に斧?」
「斧はかなり」
「そこは分かった」
エルネアが小さく笑う。
そして。
少し間を置いて。
「ユウマは、外に行きたい?」
聞かれた。
「…………」
すぐには答えなかった。
森の外。
人がいる。
道がある。
自分で全部作らなくてもいい。
金属の道具も手に入る。
少し前まで。
外についてほとんど何も知らなかった。
そもそも。
どこに人がいるのかさえ分からなかった。
「行きたくない?」
「いや」
違う。
「見てみたいとは思う」
それは本当だ。
どんな町なのか。
人はどう暮らしているのか。
金属の道具はどのくらい便利なのか。
知らないものは多い。
「じゃあ行きたい?」
「…………」
もう一度考える。
火。
雨避け。
棚。
道具。
水場。
池。
湿地。
細沢。
自分で覚えた森の道。
そして。
空き地の端で伏せているハクア。
ここで百日以上。
少しずつ作ってきた。
最初は。
ここしかなかった。
どこへ行けばいいか分からなかった。
だから。
生きるためにここにいた。
でも今は。
少し違う。
外があると知った。
人が暮らしていることも知った。
エルネアは、そこへ行ったことがある。
いつか。
道を知れば。
俺にも行けるのかもしれない。
「今は」
口を開く。
「まだいいかな」
エルネアは何も言わない。
「興味はあるよ」
「うん」
「金属の斧も欲しい」
「それも分かった」
「でも」
俺は拠点を見る。
「今すぐここを出たいとは思わない」
外へ行けないから。
仕方なくここにいる。
今は、そうではない気がする。
「まだやることあるし」
草の処理。
道具。
食べるもの。
まだ行っていない場所もある。
直したいものもある。
「ハクアもいる」
白い耳が動いた。
「お前のこと言ったぞ」
白い顔が少し上がる。
それを見て。
自然に笑った。
「だから、今はいい」
エルネアを見る。
「いつかは行くかもしれないけど」
「うん」
エルネアはそれだけ答えた。
「行けって言わないんだ」
「どうして?」
「外の方が普通なんだろ?」
「普通だから行かなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
「…………」
少し意外だった。
「それもそうか」
「ユウマがここで暮らしたいなら、今はそれでいいと思う」
「エルネアもここにいるしな」
「私は研究があるから」
「俺も生活がある」
「同じ?」
「大体」
「雑」
いつもの返事が返ってきた。
俺も笑う。
◇
そのあと。
エルネアは少しだけ記録を書いた。
俺は石の刃をまた擦る。
話していたのは森の外。
でも。
手の中にあるのはいつもの石だった。
「……斧」
小さく呟く。
「まだ言ってる」
「だって欲しい」
「いつかね」
「いつか?」
顔を上げる。
エルネアは記録帳から目を離さない。
「外に行くことがあれば」
「…………」
そういう日も。
来るのかもしれない。
でも。
今日は違う。
「じゃあ今はこれでいいか」
石の刃を持ち直す。
擦る。
削る。
確かめる。
いつもの作業。
外には。
町がある。
道がある。
人がいて。
店があって。
金属の道具もある。
今日。
初めて少し具体的に知った。
それでも。
明日の朝。
俺はまた水を汲むだろう。
火を起こす。
ハクアと森を歩く。
今は。
その暮らしをやめる理由はなかった。
森の外には、町や道、市場、店、そして金属製品を作る職人たちがいます。
ユウマは外の暮らしに興味を持ち、特に金属の道具には強く惹かれました。
それでも答えは「今は、まだいいかな」。
外という選択肢を知った上で、ユウマは今の森での暮らしを選びます。




