第92話 研究する場所
森の外について知った翌日も、ユウマの暮らしは変わりません。
そしてさらに翌日。
今度はエルネアから、自分が普段過ごしている場所へ誘われます。
翌朝、目を覚まして火を見る。
水を汲む。
昨日までと何も変わらない。
森の外には町がある。
道がある。
店や市場がある。
金属の道具も売っている。
昨日、初めて具体的に聞いた。
それでも。
「水は勝手に来ないな」
汲んできた容器を置く。
外のことを知ったからといって、今ここに金属の斧が現れるわけではない。
「まあ、そのうち」
いつになるかは分からない。
腰の石斧を見る。
「まだ頼むぞ」
何度も直した柄。
繊維の固定。
欠けた石刃。
今まで使ってきたものだ。
急に悪い道具になったわけではない。
◇
その日はエルネアとは会わなかった。
午前中は拠点の周りを歩き、午後は東側へ向かった。
ハクアと歩きながら、使えそうな枝を拾う。
少しだけ地面の状態も見る。
いつも通りだ。
途中で外の町のことを思い出した。
何十軒も建物が集まっている場所。
知らない人が道を歩き、店で物を手に入れる。
「想像つかないな」
木々の間を歩きながら呟く。
今いる場所には、家らしい家は一つもない。
俺の雨避け。
それから、エルネアが使っているという古い建物。
「そういえば」
エルネアの拠点。
以前一度、どんな場所か少しだけ聞いた。
石と木でできた古い建物。
近くにも使われていない建物がある。
それ以上は知らない。
「どんなところなんだろうな」
ハクアの耳が動く。
「お前は知ってたりする?」
白い身体はそのまま歩く。
返事はない。
「まあ、知ってたら驚くけどな」
ハクアは振り返りもしなかった。
その日は、それで終わった。
◇
さらに翌朝。
空は晴れていた。
朝の作業を終えた頃、ハクアが空き地の端から森の方へ顔を向けた。
「来た?」
枝を踏む音がして、木々の間から銀色の髪が見えた。
「こんにちは」
「こんにちは」
エルネアが歩いてくる。
今日は採取袋を持っていなかった。
鞄だけだ。
「調査は?」
「今日はあとで」
「じゃあ、先にこっち?」
「うん」
エルネアは空き地の手前で止まる。
「入っていい?」
「もちろん」
「前より迷わなくなったね」
「もう何度も来てるから」
「何度も、って言うほどではないと思うけど」
「俺の中では何度もだ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
エルネアが小さく笑い、中へ入ってくる。
ハクアへ視線を向けた。
「こんにちは、ハクア」
白い耳が一度動いた。
「今日も返事はそれだけ?」
「ハクアなりの返事だろ」
「そうなのかな」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
エルネアが笑う。
「今日は何かある?」
俺が聞く。
「何か?」
「採取袋ないから」
「ああ」
エルネアは自分の鞄を見る。
それから俺へ視線を戻した。
「ユウマ」
「何?」
「私のところ、見る?」
「…………」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「エルネアのところ?」
「うん」
「研究してる場所?」
「研究もしてるし、暮らしてる場所」
「あ」
以前、俺がエルネアをここへ入れた時と逆だ。
「行っていいの?」
「うん。来てほしい」
その言葉に、少しだけ意外な感じがした。
「行く」
答えはすぐ出た。
気にはなっていた。
「ハクアも?」
白い身体を見る。
「一緒でいい?」
「もちろん」
エルネアもハクアを見る。
「来るかどうかはハクア次第だけど」
「それはそうだな」
「ハクア、行く?」
エルネアが声をかける。
白い耳がこちらを向いた。
「俺たちが行く場所だ」
ハクアはしばらく俺とエルネアを見比べる。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「来るみたい」
「分かるの?」
「立ったから」
「それだけ?」
「嫌な時は、もっと動かない」
「なるほど」
俺が立ち上がると、ハクアも身体を起こした。
「行く?」
白い耳が動く。
「じゃあ準備するか」
◇
必要なものだけ持つ。
水。
石の刃。
いつもの簡単な装備。
エルネアはそれを見ていた。
「そんなに持っていくの?」
「知らない場所だから」
「私がいても?」
「森が危なくなくなるわけじゃない」
「私がいれば大丈夫、くらい言ってもいいと思う」
「大丈夫なのか?」
「そこは、うんって言うところじゃない?」
「じゃあ、うん」
「遅い」
エルネアが笑う。
「でも、持っていく」
「結局そこは変わらないんだ」
「変わらない」
「慎重」
「森の中では、普通だ」
「ユウマの普通ね」
「最近その言い方するな」
「便利だから」
「研究対象にするな」
エルネアが笑う。
三人で森へ入った。
最初は知っている道だった。
西の緩尾根を越える。
湿地へ下り、細沢を渡る。
何度も歩いた場所だ。
俺なら一人でも戻れる。
「こっちまでは分かる」
「本当に?」
「森の中では、断言しない方がいい」
「それは確かにそう」
エルネアが先を歩く。
ハクアは俺たちの少し前と横を行き来していた。
細沢を越え、さらに進む。
割れ岩。
久しぶりに近くで見る。
不自然なくらい滑らかな面。
最初に見つけた時から気になっている場所だ。
「ここも通るんだ」
「近くをね」
「この先?」
「この先」
今まで一人では進んでいない場所だ。
少しだけ足が止まる。
エルネアが振り返った。
「どうしたの?」
「ここから先、ちゃんと行ったことないから」
「少し見たことはあるんだ」
「遠くから、安全そうなところまで」
「じゃあ、今日は初めての続きね」
「そうなるな」
「私から離れないでね」
「分かった」
「ハクアも」
ハクアは少し先で振り返った。
白い耳が動く。
「聞いてるみたい」
「なら大丈夫ね」
目印をつけようとは思わなかった。
今日はエルネアの場所へ行くだけだ。
一度通ったからといって、一人で歩ける道になるわけではない。
再び歩き出す。
◇
最初のうちは、景色はほとんど変わらなかった。
木。
草。
地面。
時々、岩。
森はどこまでも森だった。
エルネアが前を歩く。
「結構行く?」
「もう少し」
「エルネアの少しは、長いことがあるからな」
「今日はそんなに長くないよ」
「信じていい?」
「案内してる私を疑うの?」
「疑ってるわけじゃない。確認だ」
「同じようなものじゃない?」
少し笑いながら歩く。
しばらくして、足元が変わった。
「ここ」
俺は前を見る。
木々の間が歩きやすい。
草が少ない。
獣道とも違う。
「道?」
「昔はね」
エルネアが答える。
「今はほとんど使われてない。たまに私が使うけど」
「誰かが作った道?」
「そう」
「アルヴェイン?」
「うん」
「ここだけじゃないのか」
「昔はいくつかの場所をつないでたみたい」
「今は?」
「森に戻りつつある」
「道も、建物も?」
「そう」
地面には木の根が横切り、落ち葉も積もっている。
それでも、左右に続く形がある。
知っている森の中に、人が作ったものの跡が残っていた。
それだけで景色が少し違って見える。
さらに進む。
木々の向こうに、妙に真っ直ぐな線が見えた。
「何あれ」
「壁だと思う?」
「最初は」
「正解」
近づくと、灰色の面が見えた。
ところどころ苔がついている。
「昔の建物?」
「そう。正確には、壁だったもの」
「石なら残るんだな」
「木よりはね」
さらに数歩進むと、木々が少し開ける。
「……本当にある」
「疑ってた?」
「話で聞くのと、見るのは違う」
「それはそうね」
建物は一つではなかった。
木の間に、少し離れていくつか建っている。
石と木を組み合わせたもの。
屋根が残っている建物。
一部が傷んでいるもの。
壁だけの部分が見えるもの。
巨大ではない。
町というほどでもない。
でも、明らかに誰かが暮らすために作った場所だった。
「これ全部?」
「昔使われてた」
「全部、同じ時期に?」
「たぶん」
「エルネアも、たぶんって言うんだな」
「私だって、分からないことはあるよ」
「何でも知ってると思ってた」
「それは買いかぶりすぎ」
エルネアが歩く。
俺とハクアもついていく。
「村?」
「そこまで大きくないよ」
「何て言えばいい?」
「小さな生活区画、くらいかな」
「生活区画」
「住む場所と、作業する場所がいくつか集まってる」
「昔は何をしてた?」
「暮らして、作って、直して、食べて。普通の生活だと思う」
少人数で暮らした場所。
そんな感じらしい。
俺は周囲を見る。
今は静かだ。
鳥の声。
葉が揺れる音。
それ以外に、人の気配はない。
「ほかの人は?」
自然に聞いた。
エルネアは少し前を向いたまま答える。
「いないよ」
「今は?」
「今は私だけ」
「昔は?」
「いた」
短い答え。
俺はエルネアを見る。
「家族?」
「家族だけじゃない。ここで暮らしていた人たちがいた」
「何人くらい?」
「時期によるよ」
「多い時は?」
「今の私には多いと思う」
「俺には、二人でも多い」
「ハクアを入れて?」
「ハクアは数え方が違う」
「じゃあ、私とユウマで二人?」
「そう」
「それでも多い?」
「今は慣れた」
「エルネアがよく来るから?」
言ってから、少し変な言い方だったかもしれないと思った。
エルネアも一瞬だけ黙る。
「……そう」
それ以上は続かなかった。
俺も聞かなかった。
今は、それで十分だ。
◇
「こっち」
エルネアが一棟の前で止まる。
他より状態がいい。
壁は石。
一部に木が使われている。
屋根も残っている。
「ここ?」
「うん」
「エルネアの家?」
「生活もしてるから、そう言ってもいいかな」
「研究拠点でもある?」
「研究もしてる」
「じゃあ、生活拠点だな」
「それでいいんじゃない?」
エルネアが扉を開ける。
「入って」
「いいの?」
「いいよ」
「大事だから確認した」
「私も前に同じことを聞いた気がする」
「そうだったな」
ハクアは入口の匂いをしばらく嗅いだ。
「どう?」
エルネアが尋ねる。
ハクアは答えない。
それから、自分から中へ一歩入った。
「行くんだ」
「入っていいって言われたからな」
「ハクアの気持ちは?」
「嫌なら出る」
「それなら、たぶん大丈夫ね」
「たぶんじゃなくて、今は大丈夫だ」
「違いが分からない」
俺も中へ入った。
◇
最初に目に入ったのは。
「物、多いな」
「第一声がそれ?」
「だって多い」
「もう少し他にないの?」
「広い。明るい。俺の拠点より物が多い」
「結局そこに戻るんだ」
机。
椅子。
棚。
記録帳。
重ねられた資料。
小さな容器。
採取袋。
細かな道具。
植物らしいものを入れたもの。
壁際にも机の上にも、使う場所が決まっているように並んでいる。
「これ全部研究?」
「全部じゃない。生活のものもある」
「どれが生活?」
「布は寝具。あれは食器」
「食器まである」
「食べるからね」
「研究の合間に?」
「研究の合間じゃなくても食べるよ」
「そうなのか」
「ユウマは研究してる人間を何だと思ってるの?」
「ずっと机に向かってる人」
「食事は?」
「机で?」
「寝るのは?」
「机の下?」
「私を何だと思ってるの」
「研究者」
「研究者でも寝るよ」
「そうだった」
「納得するところ、そこ?」
俺は部屋を見回す。
机の近くは研究。
少し離れたところは寝る場所。
さらに、簡単な調理ができる場所もある。
「ここで食べる?」
「食べるよ」
「寝る?」
「寝る」
「研究する?」
「する」
「全部ここなんだ」
「大体は」
「風呂は?」
「ないよ。水場で済ませる」
「そこは俺と同じだな」
「そこだけ比べる?」
「大事なところだ」
俺の拠点も、火や寝る場所、作業場所、物を置く場所が全部近くにある。
形はかなり違う。
エルネアの方が、ずっとちゃんとしている。
でも、やっていることは少し似ている。
「何?」
エルネアが俺を見る。
「研究するだけの場所だと思ってた」
「寝ないと思った?」
「そこまでは。ただ、もっと研究だけの場所かと」
「ここで生活してるから」
「そっか」
研究者。
そういう言葉が先にあった。
でも、エルネアも食べる。
眠る。
道具を置く。
暮らしている。
当たり前だ。
なぜか今まで、そこまで具体的に考えていなかった。
「また変なこと考えてる?」
「エルネアもちゃんと暮らしてるんだなって」
「何その言い方」
「研究しかしてない感じだったから」
「失礼」
「ごめん」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、どう見えてたの?」
「森の中で植物を見て、記録して、また植物を見てる」
「だいたい合ってるけど、それだけじゃないよ」
「建物を直したり、掃除したり?」
「道具を整えたり、水を運んだり」
「研究以外も多いんだな」
「暮らしてるからね」
「そっか」
エルネアは少し睨んだままだった。
でも、口元は少し笑っている。
◇
机へ近づく。
「これ」
記録帳が何冊もある。
「全部書いたの?」
「そう」
「多い」
「長く調べてるから」
「どのくらい?」
聞いてから、エルネアが少しだけ止まった。
「それはまた今度」
「あ」
深く聞きすぎたらしい。
「分かった」
「気になる?」
「気になる」
「でも、今日は場所を見る日」
「次に聞ける?」
「いつかね」
「覚えておく」
「そういうところだけ覚えてるね」
「大事だから」
「何が?」
「エルネアのこと」
言ってから、少しだけ空気が止まった。
「……研究のことだ」
慌てて付け足す。
「分かってる」
エルネアはそう言ったが、少しだけ視線を逸らした。
別の棚を見る。
小型の容器。
「採ったもの入れる?」
「ものによる」
「生きてるものも?」
「短い間なら。観察したら戻す」
「戻す場所は分かるのか?」
「採った場所を記録してる」
「そこまで書くんだ」
「戻せなくなると困るから」
「研究って大変だな」
「ユウマは簡単だと思ってた?」
「見るだけかと」
「見るだけでも、見たことを覚えておかないといけないよ」
「俺は覚えてる」
「本当に?」
「覚えてることは覚えてる」
「じゃあ、今度試す?」
「前に見た植物の場所を当てるとか?」
「そう」
「それは嫌だ」
「どうして?」
「外れたら困る」
「やっぱり覚えてないんじゃない」
「そういう意味じゃない」
エルネアが笑う。
別の容器を指す。
「これも外?」
「外で手に入れたものもあるし、昔からここにあるものもある」
「この建物に残されていた?」
「そう」
「使う前に、いなくなったのかもしれない」
エルネアの声が少し低くなる。
「そういうこともある」
紙。
容器。
金属の道具。
布。
加工された木。
昨日、外の町の話を聞いた。
今、その一部が目の前にある。
「外に行ったら、こういうのがあるのか」
「同じものが全部あるわけじゃないけど」
「でも作った人がいる」
「そう」
「金属の道具も?」
「もちろん」
「斧も?」
「あると思う」
「石斧より使いやすい?」
「使った人は、木を切るなら石より楽だと言ってた」
「やっぱり金属いいな」
「まだ見てもいないのに?」
「話を聞いただけで分かる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは信用できない」
俺は自分の腰の石刃へ触れる。
「ここでもそれ?」
「目の前にあるから」
エルネアが笑う。
「いつか、実物を見せてもらえるかもね」
「町へ行けば?」
「うん」
「エルネアも行く?」
「必要なら」
「必要じゃなくても?」
「ユウマが行きたいなら、考える」
「町は人が多いから?」
「それもある」
「エルネアも人が多いのは苦手か」
「苦手というより、疲れる」
「俺も疲れると思う」
「まだ行ってないのに?」
「想像しただけで」
「それは早いね」
◇
ハクアは部屋の中を走り回らなかった。
入口近くで匂いを嗅ぎ、少し歩いて、また止まる。
初めての場所だからか、いつもより慎重だ。
「大丈夫?」
エルネアが小さく声をかける。
ハクアの耳が動く。
それでも、外へ戻ろうとはしない。
「嫌なら出る」
「ユウマはハクアのこと、よく見てるね」
「一緒にいる時間が長いから」
「私より?」
「比べるものじゃない」
「そう?」
「エルネアはハクアと一緒に暮らしてない。だから、俺の方が分かることもある」
「じゃあ、私の方が分かることもあるね」
「あると思う」
「例えば?」
「エルネアの場所でのハクア」
「それは確かに、私の方が今日から詳しくなるかも」
少しして、白い身体は壁際の空いている場所へ伏せた。
「あ」
エルネアが小さく声を出す。
「伏せた」
「伏せたな」
「気に入ったのかな」
「まだ一回目だから分からない」
「ユウマでも分からないことがある」
「俺を何だと思ってる?」
「ハクアの専門家」
「そんなものじゃない」
「でも、私よりは詳しい」
「それはそう」
エルネアが少し嬉しそうに笑う。
「触らないの?」
「ハクアから来たら」
「分かった」
エルネアは少し離れた場所にしゃがみ、ハクアを見ている。
「近くに行きたいなら、行ってもいいぞ」
俺が言う。
ハクアは動かない。
「今は行かないみたい」
「そのうち変わるかもしれない」
「その時は教えて」
「ハクアが自分で行く」
「そうだった」
俺もそれでいいと思う。
◇
「外も見る?」
「まだあるのか」
「少し」
「見る」
「即答」
「気になるから」
建物を出て、裏手へ回る。
「これ」
小さく開けた場所。
他の森より、植物の並びが少し違う。
「植えてる?」
「少しだけ」
「研究用?」
「それもある」
「食べられるものは?」
「あるけど、主に観察用」
「食べるために育ててるわけじゃない?」
「そう」
エルネアが近づく。
「状態を見たいものを少し」
広い畑ではない。
食料を大量に作る場所でもない。
小さな栽培区画だ。
「俺もこういうの作れるかな」
「何を育てるの?」
「分からない」
「先にそこからね」
「場所があれば、後から決められる」
「普通は逆だと思う」
「俺のやり方だ」
「分かってる」
育てたいものがあるわけではない。
単に、近くで食べるものが取れたら便利そうだと思っただけだ。
「すぐできる?」
「植物による。それに、土の状態も見る必要がある」
「水が多すぎるか、日が当たるか、ほかの植物と合うか」
「考えることが多いな」
「だから研究する」
「育てるだけでも研究なのか」
「育ち方を見て、記録する。それも研究」
「やっぱり記録するんだな」
「ユウマも記録したら?」
「覚えてる」
「本当に?」
「今度は本当に」
「じゃあ、試してみようか」
「今日はやめておく」
「記録した方がいいと思うけど」
「エルネアが記録してくれるなら」
「自分でしなさい」
何でもそうだ。
簡単に答えは出ない。
その近くで、水の音がした。
「水もある?」
「あるよ」
少し歩く。
小さな水場。
生活に使える場所だ。
「飲める?」
「煮沸すれば」
「そのままは駄目か」
「私は飲まない」
「じゃあ、駄目なんだな」
「そう判断していいと思う」
水面に木々が映っている。
「だからここに?」
「理由の一つ。建物が残っていたこと、道があったこと、調べたいものが周囲にあること」
「研究するには便利?」
「便利というより、都合がよかった」
「一人で暮らすには?」
「静かすぎる」
エルネアは水面を見た。
昔、ここに人がいた。
建物を作った。
道も作った。
水も使った。
今は、エルネアだけだ。
「寂しくない?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
エルネアは水面を見たまま答えた。
「慣れないと、ここでは暮らせないから」
「そうか」
「でも、誰かが来ると少し違う」
「俺たち?」
「うん」
エルネアがハクアを見る。
「二人増えた」
「ハクアも一人?」
「一匹って言った方がいい?」
「どっちでも」
「じゃあ、二人分くらい静かじゃなくなった」
「ハクアはあまり喋らないけど」
「歩く音や、息をする音がある」
「それで?」
「それだけでも、誰かがいるって分かるから」
白い耳が動いた。
「本人に聞く?」
「答えられないだろ」
「多分」
「使うな」
エルネアが笑う。
「でも、今のは少し分かる気がする」
「何が?」
「静かな場所に、誰かがいる感じ」
「俺のところも、エルネアが来るとそうなる」
「私、そんなに音を立ててる?」
「喋るから」
「それはユウマもでしょ」
「俺は必要なことしか言わない」
「本当に?」
「……たぶん」
「もういい」
◇
少し休んでから、帰ることにした。
日が傾き始める前に戻る。
「もう帰る?」
「暗くなる前に」
「まだ大丈夫だよ」
「大丈夫なうちに戻る」
「慎重ね」
「必要なことだ」
「はいはい」
来た道を、今度は逆へ進む。
エルネアが先。
俺。
ハクア。
昔の道の跡を通り、歩きやすい場所を進む。
やがて普通の森へ戻った。
人工的な線が木々に隠れる。
「…………」
何度か振り返った。
「気になる?」
「人が作った道が、森に戻っていく」
「草が生えて、木の根が出て、見えなくなるからね」
「人が使わなくなると、森になるんだな」
「森は、空いた場所を埋めるから」
「エルネアのところも?」
「少しずつ」
「手を入れなければ、いつか全部なくなる?」
「そうなるかも」
「エルネアがいる間は?」
「できるだけ残すつもり」
「研究のため?」
「それもある」
「それ以外は?」
エルネアは少し考えた。
「ここが、私の帰る場所だから」
その言葉が残った。
ここには、人が暮らした跡が残っていた。
今まで俺が歩いていた森とは少し違う。
「また来たい?」
「来てもいい?」
「もちろん」
「じゃあ来たい」
「建物が?」
「それもある」
「道?」
「それも」
「じゃあ、何が一番?」
「エルネアが暮らしてる場所だから」
エルネアが少し黙った。
「……そう」
「変か?」
「ううん。変じゃないよ」
割れ岩より先は、まだエルネアに案内されなければ歩けない。
行ったことはある。
でも、自分一人で安全に行って戻ってこられる場所ではない。
まだ、俺の生活の道ではなかった。
◇
割れ岩まで戻る。
「ここからなら分かる」
「本当に?」
「ここからは分かる」
「今度は信じていい?」
「うん」
湿地。
細沢。
緩尾根。
ここから先は何度も歩いた。
三人で歩く。
見慣れた場所へ戻っていく。
しばらくして、エルネアが別れる場所で止まった。
「じゃあ、私は戻る」
「さっきのところに?」
「うん」
「俺たちも戻る」
「分かってる」
「なら聞くな」
「聞きたかっただけ」
「何を?」
「ユウマが、あの場所をどう思ったか」
少し考える。
「気に入った」
「建物が?」
「それもある」
「道?」
「それも」
「じゃあ、何が一番?」
「エルネアがいたこと」
言ってから、エルネアが黙った。
「……それは、場所の感想じゃないよ」
「でも、そう思った」
「そう」
エルネアは前を向いた。
「じゃあ、また来て」
「うん」
「今度は、もう少しゆっくり見せる」
「今日も十分ゆっくりだった」
「まだ見せてない部屋もあるから」
「部屋もあるのか?」
「あるよ」
「次も行く」
「分かった」
さっきまで、エルネアの帰る場所を見ていた。
今まで、エルネアが帰ると言えば、森のどこかへ消えていくように感じていた。
今日は違う。
どこへ帰るのか、少しだけ知っている。
「じゃあ、また」
「うん。また」
エルネアが歩き出す。
数歩進んだところで、振り返った。
「ユウマ」
「何?」
「水、ちゃんと飲んでね」
「分かってる」
「火も消し忘れないで」
「分かってる」
「石斧の柄も、無理に使い続けないで」
「まだ使える」
「そう言うと思った」
「本当に使えるから」
「じゃあ、次に見た時に壊れてたら怒るよ」
「怒るのか?」
「心配する」
「それなら、壊れる前に直す」
「約束?」
「約束」
「分かった」
銀色の髪が木々の間へ消える。
俺とハクアは、自分たちの拠点へ戻る。
「帰るか」
白い身体が先へ出る。
エルネアには、エルネアの帰る場所がある。
俺たちには、俺たちの帰る場所がある。
今日は、その片方を初めて見た。
そして。
そこへまた行きたいと思った。
第92話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回はユウマとハクアが、初めてエルネアの生活兼研究拠点を訪れました。
ただし、割れ岩より先はまだエルネアに案内された道です。
一度行った場所と、自分一人で安全に往復できる生活圏は別。
三者はそれぞれの帰る場所を持ったまま、互いの場所を知るようになりました。




