第89話 名前のある草
文字を一つ覚えた翌日。
ユウマはいつもの暮らしへ戻ります。
そしてさらに翌日、湿地で見慣れた草を前に、エルネアとの会話が少しだけ変わります。
翌朝。
目を覚まして、まず火を確かめる。
灰の下にはまだ赤いところが残っていた。
「よし」
乾いた葉を寄せ、細い枝を重ねる。
息を吹き込むと、小さな火が戻った。
いつも通りの朝だ。
水を汲む。
食べるものを用意する。
乾かしている草を確認する。
昨日エルネアに文字を教えてもらったからといって、やることが変わるわけではない。
ただ。
「…………」
朝の作業が一段落したところで、俺は地面の柔らかい場所へしゃがんだ。
細い枝を一本拾う。
「ユ……」
昨日教えてもらった形を思い出す。
地面へ一本。
次。
「ウ」
さらにもう一つ。
「マ……これで合ってたか?」
三文字を書き終える。
見本はない。
少し怪しい。
特に最後。
「まあ、読める」
自分で書いて自分で読める。
それなら昨日よりはましだ。
ハクアが近づいてくる。
「踏むなよ」
白い前脚が止まった。
「昨日踏んだからな」
ハクアは地面の文字を見ることもなく、その横を通り過ぎた。
「分かってるのか?」
耳だけが動く。
「……多分」
最近よく使う言葉を自分で口にする。
その日はエルネアとは会わなかった。
午前は拠点周辺で薪を集め、午後は少し東へ歩く。
帰ってから紐を直し、石の刃を確認する。
夕方、もう一度自分の名前を書いてみた。
二文字目までは思い出せる。
三文字目で少し迷った。
「まだ覚えたとは言い切れないな」
でも昨日よりは残っている。
消して、もう一度書く。
文字は逃げない。
忘れたら、また覚えればいい。
◇
さらに翌朝。
今日は南西へ行くことにした。
湿地で採っている草が少なくなってきた。
すぐ必要になるわけではないが、状態のいいものがあれば少し持ち帰っておきたい。
「行くぞ」
ハクアと森へ入る。
西の緩尾根を越え、湿地へ下りる。
何度も通った道。
地面の硬いところ。
避けた方がいい根。
雨のあとに滑りやすい場所。
今では考える前に足が向く。
湿地の外縁へ着く。
「この辺かな」
以前から採っている草を探す。
細長い茎。
裂けば繊維が取れる。
紐を作るようになってから、何度も使ってきたものだ。
数本を見比べる。
「これはまだ細い」
一本戻す。
別のものへ手を伸ばした時。
ハクアが顔を上げた。
「いる?」
白い鼻先が少し横を向く。
俺もそちらを見る。
木々の間に銀色が見えた。
「エルネア」
少し離れた場所でしゃがんでいる。
近づくと、向こうも顔を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
足元には採取袋。
手には記録帳。
今日は湿地を見ているらしい。
「何見てる?」
「この辺の植物」
「広いな」
「今日は何種類か」
エルネアが記録帳を閉じる。
その視線が、俺の手元へ向いた。
「それ採るの?」
「うん」
持っていた草を少し上げる。
「紐に使うから」
「紐?」
エルネアの顔が変わった。
「これを?」
「そう」
「どうやって?」
予想通り、質問が来た。
「一個ずつ」
「まだ一個しか聞いてない」
「そうだった」
俺は少し笑う。
エルネアは立ち上がり、手にしていた植物を袋へ入れた。
それから俺の持っている草を見る。
「これ、使ってたんだ」
「前に拠点で見なかった?」
「乾かした状態だったから、すぐ同じものだと思わなかった」
「結構変わるよ」
俺は近くの一本を指でつまむ。
「生のままだと、裂いたあと滑る」
「滑る?」
「うん。まとめようとしても手からずれやすい」
最初に試した時のことを思い出す。
繊維は取れた。
でも水分が多く、扱いづらかった。
「だから少し乾かす」
「どのくらい?」
「完全に乾く前」
エルネアが記録帳へ手を伸ばしかける。
俺はそれを見た。
「書くの?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
何となく変な感じがする。
今までは俺が聞いて、エルネアが答えることの方が多かった。
「続けて」
「半分くらい乾いた感じが一番扱いやすい」
「半分?」
「正確には分からない」
そこははっきり言っておく。
「触って、まだ少ししなるくらい」
「完全に乾燥させると?」
「脆くなる」
俺は指で折るような動きをする。
「強く曲げると切れやすい。だから乾き切る前に裂いて、まとめたり撚ったりしてる」
「…………」
エルネアが草を見る。
次に俺を見る。
「知らなかった」
「え?」
思わず聞き返した。
「その使い方」
「エルネアが?」
「うん」
意外だった。
エルネアはこの森の植物に詳しい。
俺が知らないことをいくつも知っている。
当然、この草についても全部知っているような気がしていた。
「でも、この草のことは知ってるんだろ?」
「知ってるよ」
「名前も?」
「ある」
即答だった。
俺は手元の草を見る。
「ちゃんと名前あるんだ」
「植物だから、大体は分類して記録してる」
「俺、ずっと繊維取れる草くらいにしか思ってなかった」
「それでもユウマには通じてたんでしょう?」
「俺にだけな」
名前がなくても困らなかった。
必要なのは、どこに生えているか。
どう裂けば使えるか。
どのくらい乾かせばいいか。
それだけだった。
「エルネアは何知ってる?」
「この草?」
「うん」
今度は俺から聞く。
エルネアは少し考えてから、湿地の周囲へ視線を向けた。
「私は、生えている場所や土の水分、それから育ち具合による違いを見てる」
「水分?」
「同じ湿地でも、どこにでも同じように生えるわけじゃないでしょう?」
言われて周囲を見る。
確かに。
俺も採る場所は大体決まっている。
足元まで水が溜まっているところより、少し外側。
毎回何となくそうしていた。
「この辺に多いな」
「そういう違いを記録してる」
「俺、そこまで考えてなかった」
「でも採れる場所は覚えてる」
「使うからな」
エルネアが少し笑った。
「私は使い方を知らなかった」
「俺は生えてる理由を知らない」
「理由まで全部分かってるわけじゃないよ」
「じゃあ同じだ」
分からないところがある。
知っているところも違う。
それだけだ。
エルネアが草を一本取る。
俺が採ろうとしていたものではなく、少し細いものだった。
「これは?」
「俺なら採らない」
「どうして?」
「細いから」
「使えない?」
「使えなくはないと思うけど、取れる繊維も少ないし」
答えながら、別の一本を指す。
「こっちの方がいい」
「太いから?」
「あと、硬すぎない」
エルネアが二本を見比べる。
「なるほど」
今度は本当に記録帳を開いた。
筆記具が動く。
「何書いた?」
「太さと加工のしやすさに関係がある可能性」
「そこまでちゃんと確かめてないぞ」
「だから可能性」
「ああ」
その書き方なら分かる。
事実と考えを分ける。
エルネアはいつもそうしている。
「今度、太さ違うやつで試してみる?」
「俺が?」
「無理にじゃないけど」
「使う時ならやってみる」
わざわざ草を大量に無駄にする必要はない。
次に紐を作る時なら比べてもいい。
「その時、どうだったか教えて」
「いいよ」
答えてから、少しだけ妙な気分になった。
教える。
俺が。
エルネアに。
「何?」
「いや」
「何か変?」
「俺が教える側になることもあるんだなと思って」
エルネアが少し目を細めた。
「あるでしょう」
「今までずっと聞いてたから」
「私だって全部知ってるわけじゃない」
その答えは簡単だった。
でも、少し嬉しかった。
◇
湿地の外縁を少し歩く。
使えそうな草を数本だけ採る。
エルネアは別の植物を確認している。
ハクアは少し先を自由に歩いていた。
しばらくして、俺は別の場所で足を止めた。
「あ」
葉の形に見覚えがある。
地面近くを見る。
「これもある」
エルネアがこちらへ来る。
「何?」
「前に食べた根」
俺はしゃがみ込む。
すぐには掘らない。
今日は持ち帰る必要もない。
「これも食べたの?」
「うん」
エルネアの返事が一拍遅れた。
「どうやって?」
「掘って、火を通した」
「最初から?」
「最初?」
「見つけてすぐ全部食べた?」
「そんなことしないよ」
さすがに怖い。
知らない植物だった。
「最初はほんの少し」
指先で小ささを示す。
「火を通して、ちょっとだけ食べて、時間置いた」
「それで?」
「大丈夫そうだったから、次にもう少し」
エルネアが黙る。
嫌な予感がする。
「何?」
「よく生で食べなかったね」
「生は怖いだろ」
「それは正解」
すぐ返ってきた。
「これ、生だと刺激がある」
「刺激?」
「口に入れない方がいい」
「危なかった?」
「生で食べてたらね」
俺は足元の植物を見る。
少量ずつ試した。
火を通した。
それが結果的によかったらしい。
「十分に加熱したら大丈夫?」
「少なくとも、刺激はかなり変わる」
エルネアは植物を見ながら答える。
「私は生食を避けるべきものとして見てた」
「食べられるって知らなかった?」
「食用として試したことはない」
まただ。
エルネアが知らない。
「ちゃんと火を通すと食べられたよ」
「味は?」
「少し甘い」
「甘い?」
「ほんの少し」
最初に食べた時を思い出す。
「あと、粉っぽいというか」
「粉っぽい?」
「ほくっとする感じ」
言葉を探す。
「水っぽくない。潰すと崩れる感じ」
エルネアが記録帳へ書いている。
「また書く?」
「これは書く」
「そんなに?」
「生では刺激がある植物を、加熱して実際に食べた記録だから」
「俺の記録、かなり雑だけど」
「食べてどうなったかは覚えてるでしょう?」
「まあ」
「なら意味はある」
言われて少し考える。
俺にとっては。
食べられる。
それで十分だった。
でもエルネアから見ると、それも一つの情報になるらしい。
「何回くらい食べた?」
「最初に少し。そのあと何日か空けて、また少し」
「体調は?」
「変わらなかった」
「加熱の仕方は?」
「火の近くで中まで熱くなるくらい」
「時間は?」
「測ってない」
「量は?」
「測ってない」
「…………」
「だから雑だって」
エルネアが少し困った顔になる。
「でも、何もないよりはいい」
「そう?」
「少なくとも、ユウマがどう試したかは分かる」
正確ではない。
同じ条件でもない。
でも経験は残っている。
「次やる時は少し覚えとく?」
「無理に数字まで取らなくていい」
「いいの?」
「ユウマは研究者じゃないでしょう?」
「そうだけど」
「暮らしのついでに分かったことを教えてくれればいい」
それならできる。
「分かった」
立ち上がった時、少し先でエルネアが別の草を指した。
「ユウマ、これは分かる?」
葉の形には見覚えがある。
「見たことはある。でも、使ったことはない」
「薬草の一種。傷口を洗う時に使える」
「このまま?」
「煎じて、冷ましてから。乾燥させておけば保存もできるし、煎じたものを飲むこともある」
エルネアは一枚の葉と茎の根元を順に示した。
「葉の縁に細かい切れ込みがある。茎の根元が赤くて、葉を揉むと少し苦い匂いがする」
俺も葉を一枚だけ揉む。
青い匂いの奥に、かすかな苦さがあった。
「似た草もあるから、今の特徴が全部あるものだけ採って」
「この草だけなら、見分けられそうだ」
「最初は私と一緒に確かめて」
「分かった」
俺は教わった特徴をもう一度確かめ、数株だけ採った。
◇
昼を過ぎた頃、俺たちは拠点へ戻ることにした。
今日はエルネアも同じ方向へ来る。
「休んでく?」
「少しだけ」
空き地へ戻る。
ハクアは先に水の方へ向かった。
俺は採ってきた草を日陰へ置く。
すぐ完全に乾かすのではなく、少し水分が抜けたところで処理した方がいい。
エルネアはその様子を見ていた。
「本当にすぐ乾かし切らないんだ」
「言っただろ」
「見た方が分かりやすい」
「研究者だな」
「そうだけど?」
今回は否定もしない。
俺は少し笑いながら火の近くへ座った。
エルネアもいつもの場所へ腰を下ろす。
その時。
ふと地面の簡略地図が目に入った。
「そうだ」
「何?」
「これも見る?」
地図を指す。
エルネアは以前一度見ている。
でも、今日は少し意味が違う。
「どこで採ったか分かる」
エルネアが立ち上がった。
「見る」
返事が早い。
「やっぱりそうなるよな」
二人で地図の近くへ移る。
土へ書いた線。
石や枝でつけた印。
何度も直しているから、最初よりは増えている。
でも綺麗ではない。
「ここが拠点」
指す。
「こっちが西の緩尾根」
そこから先。
「湿地」
さらに。
「細沢」
渡る場所。
割れ岩。
草を採る場所。
根を見つけた辺り。
自分に必要なところだけが残っている。
「距離は適当」
「知ってる」
「前にも見たから?」
「それもあるけど、見れば分かる」
「ひどい」
「でも」
エルネアが地図へ顔を近づける。
「これ、何回も歩いて直してる?」
「うん」
「ここ」
湿地から細沢へ続く部分を指す。
「最初より道が少し変わってない?」
「雨のあと通りにくくなったところがあるから」
今は別の場所を通ることが多い。
「こっちが渡るところ?」
「そう」
「水が増えた時は?」
「そこは避ける」
別の印を示す。
「少し上に回る」
エルネアが地図を見る。
しばらく何も言わない。
「何?」
「雑だけど」
「それはもう聞いた」
「何度も往復した人の地図だね」
少し変な言い方だった。
「俺の地図だからな」
「そういう意味じゃなくて」
エルネアは地図の線を目で追う。
「一回見ただけじゃ分からないことが入ってる」
雨のあと。
歩きにくい場所。
普段使う渡河地点。
採取しやすい場所。
俺には当たり前のものばかりだ。
「生活してるから?」
「多分」
エルネアが頷く。
「私の記録と見方が違う」
「エルネアの地図は?」
「ここまでこういう描き方はしない」
「研究用だから?」
「そう」
また違う。
エルネアが間違っているわけではない。
俺が正しいわけでもない。
使う目的が違う。
だから見ているものも違う。
「じゃあ、役に立つ?」
聞いてみる。
「立つ」
返事はすぐだった。
「全部そのまま使えるわけじゃないけど」
「うん」
「ユウマが何度も歩いて気づいたことは、私の記録だけでは分からないものもある」
その言葉が少し残った。
俺が。
何度も歩いて。
試して。
失敗して。
覚えたこと。
それにも意味がある。
「今まで、エルネアに教わってばっかりだったけど」
「そんなことないよ」
「そう?」
「少なくとも今日は、私が知らないことを聞いた」
半乾燥の草。
完全に乾かすと脆くなること。
火を通した根の味と食感。
何度も通った道の変化。
「…………」
思ったよりある。
「結構あったな」
「あるでしょう?」
エルネアが少し笑う。
俺も地図を見る。
名前は知らなかった。
分類も知らない。
生で刺激があることも知らなかった。
でも。
実際に触って。
使って。
食べて。
歩いた。
それで知ったこともある。
「じゃあさ」
「何?」
「エルネアも何か分かったら教えて」
「もちろん」
「俺も何か試したら言う」
エルネアが一度瞬く。
それから頷いた。
「うん。今度また試したら、結果教えて」
「分かった」
難しい約束ではない。
研究を一緒にするわけでもない。
俺は俺の暮らしを続ける。
エルネアはエルネアの調査を続ける。
その途中で。
何か分かったら話す。
それだけだ。
ハクアが水を飲み終え、こちらへ歩いてくる。
地図の近くで止まり、俺たちを見る。
「ハクアも何か分かったら教えてくれ」
白い耳が動いた。
「それは難しいと思う」
「分かってる」
エルネアが笑う。
俺も笑った。
名前を知らなくても使っていた草。
食べられるか分からないまま、少しずつ試した根。
俺が知っていたこと。
エルネアが知っていたこと。
どちらか一方だけでは、分からなかったことがある。
今日。
初めてそれが少しだけつながった。
第89話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
エルネアは植物そのものを知り、ユウマは実際に使った時の性質を知っていました。
どちらかが一方的に教えるのではなく、それぞれの経験を持ち寄る小さな知識交換が始まります。




