閑話 知らないことばかり
文字を一つ覚えた日の夜。
自分の研究拠点へ戻ったエルネアは、ここ数日でユウマから聞いたことを整理します。
夜。
机の上に、小さな灯りが揺れている。
エルネアは椅子へ座り、開いた記録帳を前にしていた。
今日採取したものの整理は、もう終わっている。
湿地の外縁で確認した植物。
土の状態。
葉の変化。
それぞれ必要なところまで記録した。
本来なら、今日の作業はそれで終わりだった。
「…………」
それでも記録帳を閉じない。
開いているのは、植物について書いた頁ではなかった。
少し前から書き始めた、一人の人物についての記録。
――ユウマ。
その名前の下に、いくつかの短い文が並んでいる。
忌地という名称を知らない。
魔素を知らない。
魔法体系を知らない。
自身の元素属性を知らない。
通常の方法では魔力を感じられない。
無属性魔法も、現時点では使用を確認できない。
アルヴェインという種族名を知らない。
アルヴェイン文字を読めない。
大陸共通文字も読めない。
「……知らないことばかり」
思わず口にする。
並べると、改めてひどい。
どれも、エルネアにとっては特別珍しい知識ではない。
忌地が危険な場所として知られていること。
魔素が自然の中に存在すること。
人が元素属性を持ち、無属性魔法も扱うこと。
大陸共通文字があること。
少なくとも、自分がこれまで出会ってきた者たちなら、全部ではなくてもいくつかは知っていた。
ユウマは、その多くを知らなかった。
「共通語は話せるのに、共通文字は読めない」
そこも妙だった。
会話に不自然さはない。
言葉の意味を聞き返されることはあっても、それは知らない単語が出た時だけだ。
こちらの話した内容は理解する。
自分の考えも普通に言葉へできる。
それなのに、その言葉を文字へした途端、何一つ読めなくなる。
「…………」
筆記具の先を、記録帳の上で止める。
理由は分からない。
今の情報だけで決めつけるべきでもない。
分からないなら、分からないまま残せばいい。
エルネアはそう考え、短く書き足した。
――共通語の会話能力と、共通文字の識字能力が一致しない。
書き終えてから、少し離れて見直す。
「また増えた」
答えではない。
疑問だ。
ユウマと会うようになってから、こういう記録ばかり増えている気がする。
分かったと思えば、その先に別の分からないことが出てくる。
魔法を知らない。
では、なぜ魔法を知らないのか。
文字を知らない。
では、なぜ言葉だけは使えるのか。
忌地という名すら知らずに、この森へいた。
では、どうしてここへ来たのか。
「…………」
そこで筆記具が止まった。
どうしてここへ来たのか。
まだ聞いていない。
聞こうと思えば、たぶん聞ける。
ユウマは質問をすれば、答えられる範囲では答えてくれる。
嫌そうな顔をすることはある。
質問が多いとも言われた。
それでも、今まで強く拒まれたことはない。
だからといって。
「聞いていいことと、聞けることは別よね」
小さく呟く。
知りたい。
それは本当だ。
研究者として。
それだけではなく、今では一人の知り合いとしても。
どうしてこの森へ来たのか。
森へ来る前は何をしていたのか。
どこで暮らしていたのか。
なぜ文字を知らないのか。
なぜ魔法を知らないのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど、相手が話したくないことまで聞き出す理由にはならない。
一個ずつ。
ユウマに何度も言われた言葉を思い出す。
「……ちょうどいいのかも」
一度に全部を知る必要はない。
明日すべてが分からなくても困らない。
ユウマもそうやって、文字を覚え始めた。
まずは自分の名前だけ。
それで十分だと言った。
「一個」
エルネアは少しだけ笑った。
名前は三文字だったのに。
ユウマの中では一個らしい。
そういう大雑把なところもある。
でも。
記録帳へ目を戻す。
知らない。
読めない。
使えない。
今までの記録には、そんな言葉が多く並んでいた。
それだけを見ていると、ユウマが何もできない人のように見える。
「違う」
自然に声が出た。
エルネアは筆記具を置く。
少し考えてから、別の頁を開いた。
最初にユウマの痕跡を見つけた頃の記録。
粗く切られた植物。
掘り返された地面。
持ち去られた沢砂。
同じ場所を繰り返し渡った跡。
当時は、誰が残したものか分からなかった。
不明な採取者。
森の中で何かをしている誰か。
それだけだった。
今は知っている。
あれを残したのはユウマだ。
植物を切った。
根を掘った。
砂や石を運んだ。
何度も同じ場所を通った。
理由も少しずつ分かってきた。
生活に使うため。
試すため。
必要なものを探すため。
「魔法を知らない」
エルネアは呟く。
でも、火を維持している。
「文字を知らない」
それでも、地形を覚えている。
簡単な地図まで作っていた。
「金属の道具を持ってない」
それでも、石を割って刃にしている。
枝へ固定し、使えなくなれば直している。
雨を避ける場所も作った。
棚も。
容器も。
紐も。
不格好な焼き物も。
全部、必要になったから作ったのだと言っていた。
「…………」
エルネアは少しだけ椅子へ深く座り直した。
知らないことが多い。
それは間違っていない。
でも。
だからといって、何も知らないわけではない。
むしろ。
「別のことを知ってる」
森のこと。
ただし、自分とは違う知り方で。
エルネアは植物を見る時、生育場所を見る。
土の水分。
光の入り方。
周囲の植物。
葉の状態。
成長段階。
必要なら採取し、記録する。
あとで以前の記録と比べる。
ユウマも植物を見る。
けれど、見ているところが少し違う。
切れるか。
裂けるか。
乾かしたらどうなるか。
食べられるか。
火へ通したら変わるか。
持ち運べるか。
容器になるか。
紐になるか。
生活の中で使えるかどうか。
研究記録として見れば、ユウマのやり方はかなり粗い。
正確な量を残しているわけでもない。
条件を完全に揃えているわけでもない。
名称すら、自分なりの呼び方しかないものがある。
それでも。
「何回も試してる」
白い根のことを思い出す。
最初から大量に食べたわけではないと言っていた。
少しだけ試す。
時間を置く。
また少し試す。
そうして食べられる範囲を確かめてきた。
危険を完全に理解していたわけではない。
植物の成分を知っていたわけでもない。
それでも、自分なりに危険を減らすやり方を選んでいる。
「誰かに教わった?」
そこまで考え、首を傾ける。
聞いたことはない。
元々知っていたのか。
森へ来てから考えたのか。
それも分からない。
また疑問が増える。
「……駄目ね」
エルネアは小さく息を吐いた。
何か一つ考えるだけで、すぐ次が出てくる。
けれど今は、それを全部追う必要はない。
記録帳へ一行書く。
――知識の欠落が大きい一方、観察・試行・生活上の判断には蓄積あり。
「…………」
少し堅い。
自分で書いたものを見て、眉を寄せる。
もう少し正確に書こうとすると、さらに長くなりそうだった。
そのままでいいことにする。
研究記録なのだから。
次に思い浮かんだのは、地図。
ユウマの拠点で見たもの。
正確な地図とは言いにくい。
距離も縮尺も曖昧。
方角も、自分ならもう少し整理して書く。
でも。
何度も歩いた場所が残されている。
湿地。
細沢。
割れ岩。
水場。
自分に必要なものがある場所。
危険を感じたところ。
帰るための道。
あれは調査のための地図ではない。
「帰るための地図」
そう考えると、見え方が変わる。
正確さだけが価値ではない。
ユウマにとって必要なのは、一人で出て、一人で戻れることだ。
いや。
今は一人ではない。
「ハクアもいる」
白いマナヴォルを思い浮かべる。
これも分からないことの一つ。
どうしてハクアがユウマと暮らしているのか。
まだ詳しく聞いていない。
捕らえているわけではない。
命令しているようにも見えない。
ハクアは自分で森へ出て、自分で戻る。
今日もそうだった。
ユウマの空き地へ戻り。
水を飲み。
いつもの場所へ伏せていた。
そこに自分がいても。
もう大きく避けなくなった。
「…………」
少しだけ口元が緩む。
今日も耳が動いた。
挨拶に対する返事だったかは分からない。
たまたまだった可能性もある。
でも。
「十分」
昼間、自分で言った言葉をもう一度口にする。
それでいい。
ハクアについても。
ユウマについても。
まだ分からないことが多い。
だからといって、今すぐすべてを知る必要はない。
エルネアは記録帳を閉じようとして。
手を止めた。
「…………」
今日。
地面に書かれていた文字を思い出す。
自分が見本を書いた。
ユウマが枝を持った。
最初は向きを間違えた。
次は形が崩れた。
三文字目は少し傾いていた。
何度か書き直して。
見本を隠したあとも、自分で書こうとした。
綺麗ではなかった。
でも。
読めた。
ユウマ。
「一個覚えた、か」
三文字なのに。
最後まで一個だと言い張っていた。
エルネアは閉じかけた記録帳をもう一度開く。
空いている端へ、大陸共通文字で小さく書いた。
――ユウマ。
自分の文字は整っている。
昼間、地面にあったものとは違う。
「…………」
しばらく見つめる。
すると逆に、少し歪んだ三文字の方が思い浮かんだ。
一本だけ長かった線。
わずかに傾いた最後の文字。
ハクアに一度踏まれて、崩れた名前。
「ふふ」
小さく笑いが漏れる。
知らないことばかり。
それは変わらない。
ユウマについても。
自分にとってのユウマについても。
分からないことはまだ多い。
けれど。
少なくとも一つ。
分かったこともある。
知らないことが多いからといって。
何も知らない人ではない。
エルネアは灯りのそばで、もう一度その名前を見る。
そして記録帳を静かに閉じた。
章間閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
エルネアから見れば、ユウマはこの世界の常識を驚くほど知りません。
一方で、森で百日を生きてきた経験と、自分で試して積み上げた知識があります。
「知らないことが多い人」から、「自分とは違うことを知っている人」へ。
エルネアのユウマを見る目も、少しずつ変わり始めています。




