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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第七章「森の隣人」

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第88話 ひとつ覚えた

大陸共通語は話せるのに、大陸共通文字は読めない。


それが分かった翌日。


エルネアは約束どおり、ユウマに最初の文字を教えることにします。

 朝。


 火を起こし直し、水を汲む。


 戻ってから昨日まとめた草の束を見直し、使えそうなものだけ棚の近くへ移した。


 やることはいつもと変わらない。


 ただ。


「今日、来るかな」


 気づけば森の方を見ていた。


 昨日。


 エルネアは、予定が変わらなければ来ると言った。


 大陸共通文字を教えるためだ。


「待ってるな、これ」


 認めるしかない。


 ハクアが少し離れたところでこちらを見る。


「別に変じゃないだろ」


 白い顔が動かない。


「教えてもらう約束してるんだから」


 誰に説明しているのか分からない。


 俺は火のそばへ戻った。


 文字。


 昨日まで、全く気にしていなかったもの。


 森の中だけなら読めなくても困らなかった。


 水場は水場として覚えている。


 湿地には自分で分かる印をつけた。


 細沢も、割れ岩も、地図には形だけで残している。


 それで十分だった。


 でも。


 外では文字が使われている。


 エルネアも毎日のように書いている。


「一個くらい読めたら違うのかな」


 昨日見せてもらった文字を思い出そうとする。


 水。


 そう書いてあると言われた。


「…………」


 やっぱり形が曖昧だ。


 線が何本あったか。


 どちらへ曲がっていたか。


 何となくしか残っていない。


「駄目だな」


 一回見ただけで覚えられるほど簡単ではなかった。


 なら、今日もう一度見ればいい。


 そんなことを考えているうちに、午前が過ぎた。


     ◇


 昼に近くなった頃。


 ハクアが先に気づいた。


 伏せていた身体を起こし、森の一方へ顔を向ける。


「来た?」


 俺もそちらを見る。


 少しして枝を踏む音が聞こえた。


 銀色の髪が木々の間から現れる。


「こんにちは」


「こんにちは」


 エルネアはいつもの鞄を肩から下げていた。


 今日は採取袋がない。


「今日は完全にこっち?」


「途中で見る場所はあるけど、先に来た」


「文字?」


「文字」


 約束を覚えていたらしい。


 エルネアが空き地の手前で止まる。


「入っていい?」


「もちろん」


 俺が答えると、中へ入ってくる。


 ハクアへ顔を向けた。


「こんにちは、ハクア」


 白い耳が一度動く。


「今日も返事した」


「耳だけな」


「十分」


 エルネアにとってはそうらしい。


 いつもの場所へ腰を下ろす。


 俺も近くへ座った。


「それで?」


「何が?」


「文字」


「そんなに急ぐ?」


「待ってたから」


 言ってから、自分で少し止まる。


 エルネアの目がこちらを見る。


「待ってたの?」


「文字をな」


「分かってる」


 少し笑っている。


「じゃあ始めようか」


 鞄から記録帳と筆記具を取り出す。


 昨日見たものと同じだ。


 俺は少し身体を寄せた。


「まず何?」


「昨日考えたんだけど」


 エルネアは記録帳の空いている場所を開く。


「最初は、自分の名前がいいと思う」


「俺の?」


「覚えやすいでしょう?」


「どうだろ」


 名前だから意味は分かる。


 形は知らない。


 でも。


 水よりは忘れにくそうではある。


「じゃあ書くね」


「うん」


 筆記具が動く。


 俺はその先をじっと見る。


 一つ。


 次。


 さらにもう一つ。


 短い文字の並びができた。


 エルネアが筆記具を止める。


「これ」


 指先で示す。


「ユウマ」


「これ全部で?」


「そう」


 俺は記録帳へ顔を近づける。


 昨日見た大陸共通文字と同じ種類だということは分かる。


 でも。


「どこがユで、どこがウ?」


 エルネアが少しだけ目を見開いた。


「そこから?」


「名前全部一個の文字かもしれないだろ」


「なるほど」


 馬鹿にされなかった。


 エルネアは筆記具で一つずつ示す。


「これが、ユ」


「これ」


「次が、ウ」


「うん」


「最後が、マ」


「三つ?」


「三文字」


 ユ。


 ウ。


 マ。


 俺は順番に見る。


「三つなら覚えられそう」


「言ったね?」


「言った」


「じゃあ、あとで確認する」


「急に厳しいな」


「教えるなら確認するでしょう?」


「研究者だから?」


「今回は違う」


 少し笑われた。


 俺はもう一度文字を見る。


 まず、ユ。


 形を追う。


 次にウ。


 最後にマ。


「書いてみる?」


「やる」


 即答する。


 見るだけより、手を動かした方が覚えやすそうだ。


「何に書く?」


 聞くと、エルネアが少し考えた。


 記録帳をそのまま渡す気はないらしい。


「土でもいいけど」


「消えるな」


「練習なら消えてもいいでしょう?」


「確かに」


 俺は近くの地面を見る。


 火のそばは踏み固められている。


 少し離れた、表面の柔らかいところへ移動した。


 細い枝を一本拾う。


「これで?」


「それでいい」


 エルネアも横へ来る。


 記録帳を見える位置に開いた。


「最初はユ」


「ユ」


 俺は見本を見る。


 地面を見る。


 枝を動かす。


「…………」


 一本。


 曲げる。


 もう一本。


「違う」


 すぐ言われた。


「早くない?」


「向きが逆」


「もう?」


 見本と自分の線を見比べる。


「あ」


 確かに逆だ。


「消す」


 手で土をならす。


 もう一度。


「こう?」


「さっきより近い」


「近い?」


「まだ少し形が違う」


 難しい。


 同じものを見ているつもりなのに、手を動かすと微妙に変わる。


 線の長さ。


 曲がる位置。


 角度。


「文字って面倒だな」


「最初から綺麗に書こうとしなくていいよ」


「読めればいい?」


「まずは」


 それなら少し気が楽になる。


 三度目。


 今度は見本を何度も見ながら書く。


「…………」


 エルネアが地面を見る。


「うん」


「できた?」


「ユには見える」


「見える、か」


「最初なら十分」


 褒められているらしい。


 次。


「ウ」


 見本を見る。


「こっちは簡単そう」


「またそういうこと言う」


「今度はいける」


 枝を動かす。


 書き終わる。


 エルネアを見る。


「…………」


「何?」


「さっきより違う」


「嘘だろ」


 地面を見る。


 自分ではそれらしく見える。


「どこ?」


 エルネアがしゃがみ込み、枝先で一部分を示す。


「ここが長すぎる」


「それだけ?」


「あと、こっちが少し開きすぎ」


「細かいな」


「読めなくはないけど」


「じゃあいいだろ」


「よくない」


 即答だった。


「最初は読めればいいって言ったじゃん」


「読める形を覚えるって意味」


「難しいな」


 それでも書き直す。


 二回目。


 三回目。


 少しずつ見本に近づく。


「今のは?」


「いいと思う」


「よし」


 ようやく二文字。


 最後。


「マ」


 俺は見本を見る。


「…………」


 何となく、三つの中では一番嫌な予感がする。


「難しそう」


「今度は慎重になったね」


「学んだ」


 枝を地面へ置く。


 一つ目の線。


 次。


 最後。


「どう?」


「形は分かる」


「でも?」


「ちょっと傾いてる」


 俺は黙って地面を見る。


「文字って真っ直ぐじゃないと駄目?」


「多少なら大丈夫」


「じゃあこれで」


「妥協が早い」


「読めるならいい」


「ユウマらしい」


 最近よく言われる。


 俺は三つ並んだ文字を見る。


 ユ。


 ウ。


 マ。


「これで俺?」


「そう」


「名前か」


 不思議だった。


 音としてはずっと知っている。


 自分の名前だから当然だ。


 でも。


 その音に形がある。


 今まで知らなかった形。


「もう一回書く」


「見ながら?」


「最初は」


 土を少しならす。


 今度は三文字続けて書く。


 ユ。


 ウ。


 マ。


「…………」


 書き終わって見本と見比べる。


 全部少しずつ違う。


 でも。


「さっきよりは名前っぽい」


「名前っぽいって何?」


「俺でも分かる形」


「それなら進歩してる」


 エルネアが少し笑う。


 俺も地面の文字を見る。


「これがユウマ」


「そう」


 もう一度。


 今度は見本を隠してもらう。


「やってみる?」


「やる」


 エルネアが記録帳を閉じる。


 急に不安になる。


「…………」


 最初。


 ユ。


 どんな形だった。


「待って」


「待つよ」


 頭の中で思い出す。


 さっき何度も書いた。


 線。


 向き。


「これだ」


 枝を動かす。


 一文字目。


 次はウ。


 これはさっき失敗した。


 長くしすぎない。


 二文字目。


 最後。


「マ……」


 一瞬止まる。


「見ていい?」


「もう?」


「確認」


「全部書いてから」


「厳しい」


 仕方なく思い出す。


 何となく。


 こうだった気がする。


 三文字目を書く。


「できた」


 エルネアが記録帳を開く。


 見本と地面を見比べる。


「…………」


「どう?」


「一文字目はかなり近い」


「ユ?」


「そう」


「二文字目は?」


「読める」


「三文字目」


「これは少し怪しい」


「マ?」


「マには見える」


「じゃあ成功」


「判定が自分に甘い」


「読めたんだろ?」


「読めるけど」


 それならいい。


 俺は地面に書いた三文字を見る。


「ユウマ」


 声に出す。


 エルネアも同じ文字を見ている。


「初めて書いた?」


「文字そのものを?」


「共通文字で」


「初めて」


 今まで地図へ印はつけた。


 木へ目印も残した。


 でも。


 意味のある文字を書いたのは、たぶんこれが初めてだ。


「百日くらい森にいて、最初に書いたのが自分の名前か」


「覚えやすいからいいでしょう?」


「うん」


 悪くない。


 むしろ分かりやすい。


 もう一度書いてみる。


 今度は少し早く。


「…………」


 さっきより雑になった。


「急ぐと崩れるね」


「読める?」


「ギリギリ」


「じゃあ駄目か」


 自分で土をならす。


 少し面白くなってきた。


 同じ形を書いているだけなのに、毎回違う。


 でも、少しずつ手が覚える感じはある。


 魔法の時とは違う。


 あの時は何度やっても、何を間違えているのかすら分からなかった。


 文字は違う。


 間違えた場所が見える。


 直せる。


「こっちは俺でもできそう」


「文字?」


「うん」


 エルネアが少し考える。


「時間はかかると思うけど」


「でもゼロじゃない」


「そうね」


「魔法よりいい」


「また比べる」


 笑われた。


 俺も笑う。


 その時。


 ハクアが近づいてきた。


 地面の文字の上へ鼻を寄せる。


「あ」


 そのまま前脚が一歩出る。


「待て待て」


 俺は慌てて手を伸ばした。


 白い前脚が、書いたばかりのユの端を踏む。


「…………」


 文字が崩れた。


 エルネアが口元を押さえる。


「笑うなよ」


「ごめん」


「絶対笑ってる」


 ハクアは何も気にせず、地面の匂いを嗅いでいる。


「俺の名前踏んだぞ」


 白い顔が上がる。


「分かってないな」


「多分」


 エルネアが言う。


「それ俺の言い方」


「便利だから」


「使い始めたな」


 俺は土をならし直す。


「もう一回書く」


「踏まれないところに?」


「今度はな」


 少し離れた場所へ書く。


 ユ。


 ウ。


 マ。


 今度はさっきよりまともに見えた。


「これは?」


「読める」


「よし」


 満足する。


 ハクアも今度は踏まなかった。


     ◇


 少し休んだあと。


 俺はもう一度記録帳を見た。


「昨日の水も覚える?」


 エルネアが聞く。


「一個って言ってなかった?」


「名前で三文字覚えたでしょう?」


「それは一個扱い」


「そういう数え方?」


「今日はこれでいい」


 無理に増やす必要はない。


 まだユウマすら完全に覚えたとは言えない。


 今夜になったら忘れているかもしれない。


「明日書けるか試す」


「自分で?」


「うん」


「見本なしで?」


「できたら」


 エルネアが頷く。


「それがいいと思う」


「忘れてたら?」


「また書けばいい」


 あっさりしている。


「怒らない?」


「何で怒るの?」


「教えたのに忘れたら」


「忘れることはあるでしょう」


 研究者なのに、その辺りは意外と普通だった。


「じゃあ気楽にやる」


「最初からそのつもりに見える」


「ばれた?」


「かなり」


 また笑われる。


 でも、これくらいでいい。


 文字を覚えるために暮らしているわけではない。


 水を運ぶ。


 火を使う。


 食べるものを探す。


 道具を直す。


 その生活の中へ、少しだけ新しいことが増えた。


 文字。


 今日は自分の名前。


 それだけ。


 俺は地面に残った三文字を見る。


「ユウマ」


 読める。


 少し形が崩れていても。


 自分で書いたものなら、もう分かる。


「一個覚えた」


「三文字」


「一個」


「名前として?」


「そう」


 エルネアが少しだけ笑う。


「じゃあ、一個でいい」


 俺も頷いた。


 昨日までは。


 目の前にあっても意味が分からなかった線。


 今日は。


 その中に一つだけ。


 自分で読めるものができた。

ユウマが初めて覚えた大陸共通文字は、自分の名前でした。


まだ綺麗には書けず、見本なしでは形も少し崩れます。


文字は一度で覚えるものではなく、これから暮らしの中で少しずつ増えていきます。

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