第87話 読めない
元素魔法も、無属性魔法も使えない。
自分にできないことを一つ確認した翌日、今度はもっと身近なところから、ユウマの「知らない」が見つかります。
湿地を見て回ったあと、俺たちは途中でエルネアと別れた。
「じゃあ、また」
「うん。また」
エルネアは採取袋を持ち直し、俺たちとは違う方向へ歩いていく。
銀色の髪が木々の間へ消える。
俺もハクアと拠点へ戻った。
◇
夕方。
火のそばで、今日聞いたことを思い返す。
元素魔法。
無属性魔法。
俺には、そのどちらも使えなかった。
「身体強化は欲しかったな」
細い枝を折りながら呟く。
ハクアが近くで伏せている。
「重いの運ぶ時、便利そうだろ」
白い耳が動いた。
「まあ、使えないけど」
結局そこへ戻る。
できないものは仕方ない。
俺は枝を火へ足した。
明日になったら何か変わるわけでもない。
いつも通り、水を運んで、火を使って、必要なものを手で作る。
それでいい。
◇
翌朝。
空は昨日より明るかった。
水を汲み、火を整える。
少し傷んだ樹皮の容器を確認し、まだ使えることを確かめて元へ戻す。
今日は拠点の近くでやることがある。
乾かしていた草をまとめ直し、使いやすい長さのものだけ分けるつもりだった。
ハクアは朝から森へ出ている。
一人で作業を始める。
「こっちは短いな」
繊維の束を並べる。
紐に使えそうなもの。
細すぎるもの。
途中で切れているもの。
少しずつ分けていく。
昼前になった頃。
森の方から足音が聞こえた。
「ハクア?」
顔を上げる。
でも、聞こえてくる音は一つではなかった。
先に白い身体が見える。
その少し後ろ。
銀色の髪もあった。
「一緒だったの?」
思わず立ち上がる。
ハクアが先に空き地へ入ってきた。
その後ろからエルネアも来る。
「途中で会った」
「ハクアと?」
「向こうから歩いてきた」
エルネアは白い背中を見る。
「少し離れたところを歩いてたら、同じ方向だったから」
「案内された?」
「そこまでは分からない」
今度はエルネアの方が慎重だった。
ハクアは俺たちの話など気にせず、水の方へ向かっている。
「まあ、帰る場所は同じだったな」
「そうみたい」
エルネアは空き地の手前で止まった。
「入っていい?」
「どうぞ」
もう何度目かになるやり取り。
それでもエルネアは毎回聞く。
俺が頷くと、中へ入ってきた。
今日は採取袋が二つ。
記録帳も手に持っている。
「調査帰り?」
「途中」
「またついで?」
「今日は少し休憩」
「似たようなものか」
エルネアは火から少し離れた場所へ座った。
すっかりそこが定位置になりつつある。
俺は途中だった草の仕分けへ戻った。
エルネアも記録帳を開く。
しばらく、互いに自分の作業をする。
俺は草を見る。
エルネアは文字を書く。
ハクアは水を飲み終え、いつもの場所へ伏せる。
静かだった。
でも気まずくはない。
俺は細い繊維を一本横へ置く。
その時、何となくエルネアの手元へ目が向いた。
記録帳の上を筆記具が動いている。
細い線。
曲がった線。
いくつかの形が連なっている。
「…………」
前にも見た。
エルネアはよく記録帳へ何かを書いている。
でも、内容まで気にしたことはなかった。
今日は少し近い。
だから見えた。
見えたのだが。
「それ、何て書いてるの?」
聞くと、筆記具が止まった。
「これ?」
「うん」
エルネアが記録帳を見る。
「今日見た植物のこと」
「そうじゃなくて」
「何?」
「その文字」
指で記録帳の方を示す。
「何て書いてある?」
エルネアの目が俺へ向く。
少し間があった。
「読めない?」
「読めない」
即答する。
形として見えるだけだ。
一つ一つの線が何を表しているのか、全く分からない。
エルネアは記録帳を少しこちらへ向けた。
「これも?」
「同じ文字だろ?」
「そうだけど」
「なら読めない」
俺はもう少し近くから見る。
やっぱり駄目だった。
どこまでが一文字なのかすら自信がない。
「前に、文字は分からないって言ってたでしょう?」
「言われた気はする」
忌地という名前を聞いた時だ。
エルネアが、どう書くかを説明しかけていた。
でも、その時は名前の方が気になっていた。
「本当に読めないんだ」
「何で確認してるの?」
「少しだけなら分かるのかと思ってた」
「全然」
エルネアがまた記録帳を見る。
そこに書かれているものと俺を見比べる。
「これはアルヴェインの文字」
「アルヴェイン?」
今度は文字ではなく、言葉の方が分からなかった。
「何それ?」
聞くと、エルネアが止まった。
「…………」
「また知らない?」
「知らない」
最近、この流れが増えている。
エルネアは一度目を閉じた。
「私の種族」
「種族?」
「アルヴェイン」
俺はエルネアを見る。
銀色の髪。
緑色の目。
長く尖った耳。
こめかみ近くの銀色の紋様。
初めて会った時から、人間とは少し違うと思っていた。
でも、何という種族なのかは聞いていなかった。
「アルヴェイン……」
もう一度口にする。
「エルネアが?」
「そう」
「だから耳長い?」
エルネアの眉が少し動く。
「最初にそこ?」
「見た目で一番分かりやすいから」
「ユウマの耳が短いとも言えるけど」
「あ、それ前にも言われた」
少し笑う。
種族名を知ったからといって、エルネアの見た目が変わるわけではない。
マナヴォルと知った時のハクアと同じだ。
知らなかった名前が増えただけ。
「アルヴェインは、この文字を使う?」
「私は普段の記録にはよく使う」
エルネアが記録帳を軽く持ち上げる。
「だからユウマが読めないのは、それだけなら別に不思議じゃない」
「それだけなら?」
「他の文字なら読めるかもしれないでしょう?」
「他にもあるの?」
エルネアが俺を見る。
「ある」
少し間があった。
「大陸共通文字」
「大陸共通……」
また知らない言葉が増えた。
「それなら読める?」
「見ないと分からない」
正直に答える。
エルネアは鞄の中を探した。
何か別の紙でも出すのかと思ったが、記録帳の空いているところを開く。
「少し書くね」
「うん」
筆記具が動く。
さっきまでの文字とは形が違った。
線の組み方も違う。
少し単純に見えるものもある。
エルネアは短く何かを書いてから、こちらへ向けた。
「これは?」
「…………」
見る。
分からない。
さっきの文字とは違う。
違うことだけは分かる。
「読めない」
「本当に?」
「本当に」
俺は記録帳を覗き込む。
「これが大陸共通文字?」
「そう」
「じゃあ駄目だ」
全く意味が取れない。
エルネアはしばらく記録帳を見たあと、俺へ視線を戻した。
「でも」
「何?」
「ユウマ、普通に話してるよね」
「話してる」
「私の言葉、分かる?」
「分かる」
何を当たり前のことを聞いているのか。
そう思ったところで、エルネアの顔が真面目なのに気づいた。
「私たちが今話してるの、大陸共通語なの」
「…………」
今度は俺が止まった。
「これ?」
自分の口を指す。
「そう」
「俺、共通語話してる?」
「ずっと」
少し考える。
初めてエルネアと会話した時。
恐る恐る「こんにちは」と言った。
通じた。
それだけで驚いた。
でも、何語なのかなんて考えなかった。
「普通に聞こえてた」
「私もユウマの言葉は普通に分かる」
「じゃあ、話せるのに」
記録帳を見る。
「書いてあると分からない?」
「そういうことになるね」
妙だった。
自分でも分かる。
聞けば意味が分かる。
口からも自然に言葉が出る。
でも。
その同じ言葉を書いた文字は、一つも読めない。
「何で?」
「それを私に聞くの?」
「分からない?」
「分からない」
エルネアははっきり答えた。
その顔が少し楽しそうに見える。
「何か嬉しそうじゃない?」
「気のせい」
「絶対違う」
「分からないことが増えただけ」
「それを喜んでるだろ」
否定しなかった。
やっぱり研究者だ。
俺はもう一度、大陸共通文字を見る。
「これ、何て書いた?」
「水」
「水?」
火の近くに置いてある容器を見る。
中身はいつも飲んでいるものだ。
言葉も知っている。
でも、その言葉の形は知らなかった。
「これが水」
「そう」
記録帳へ目を戻す。
形を覚えようとする。
「…………」
数秒見る。
目を逸らす。
もう一度思い出そうとする。
「無理だな」
「早くない?」
「何となくしか残ってない」
「一回で覚えなくていいでしょう?」
「そうだけど」
エルネアは記録帳を閉じず、そのまま膝の上へ置いている。
「読みたい?」
聞かれて、少し考える。
「読めた方が便利そう」
「便利そう?」
「エルネアの記録も読める」
「アルヴェイン文字は別よ」
「あ、そっちは別なのか」
忘れていた。
文字が二種類出てきたばかりだ。
「共通文字なら?」
「森の外でも使われてる」
「じゃあ覚えた方がいいな」
外。
まだ見たことのない場所。
そこでも使う文字らしい。
「すぐ外へ行く予定はないけど」
「今すぐじゃなくても、読めて困ることはないと思う」
「それなら覚える」
俺が言うと、エルネアが少し目を細めた。
「簡単に言うね」
「できない?」
「できるけど、時間はかかると思う」
「魔法よりはできそう」
一瞬。
エルネアが黙る。
それから小さく笑った。
「比べるところがそこなの?」
「魔法は何回やっても何も分からなかったし」
「文字は見えるから?」
「そう」
形は見える。
真似することもたぶんできる。
少なくとも、何をすればいいのか分からない魔力よりは手がかりがある。
「じゃあ教えて」
「今?」
「少しだけ」
言うと、エルネアが記録帳へ視線を落とした。
「何からがいいかな」
「水?」
「さっき見せたから?」
「一回見たし」
エルネアは少し考える。
でも、すぐ首を振った。
「今日は確認だけにしよう」
「何で?」
「適当に始めるより、最初に覚えやすいものを考えたい」
「研究者っぽい」
「教えるなら順番くらい考えるでしょう?」
それもそうか。
俺は無理に続けなかった。
今日分かったことだけでも多い。
エルネアはアルヴェイン。
普段の記録にはアルヴェイン文字を使う。
それとは別に大陸共通文字がある。
俺はどちらも読めない。
でも話している言葉は、大陸共通語。
「変だな」
口にすると、エルネアがこちらを見る。
「何が?」
「喋れるのに読めないところ」
「私も気になる」
「調べないで」
「何もしてないでしょう?」
「顔が研究者だから」
「どういう顔?」
説明できない。
「今の顔」
「分からない」
少し笑い合う。
その間にハクアが立ち上がり、俺たちの近くへ来た。
エルネアの記録帳へ鼻先を向ける。
「ハクア、読める?」
聞いてみる。
白い耳が動く。
記録帳の匂いを一度嗅いだあと、そのまま離れていった。
「興味ないって」
「読めないとは限らないでしょう?」
「エルネア、ハクアまで調べ始めないでくれよ」
「気になるだけ」
「それが始まりなんだよ」
エルネアが少し不満そうにこちらを見る。
俺は笑いながら、途中だった草へ手を戻した。
文字。
今まで必要だと思ったこともなかった。
森の中では、目印があれば帰れる。
場所は形で覚えてきた。
地図にも、自分に分かる印だけつけていた。
それで困らなかった。
でも。
外には文字がある。
エルネアは毎日それで記録を残している。
同じ言葉を話しているのに、俺にはその形が読めない。
「一個くらいは覚えたいな」
草をまとめながら呟く。
「一個?」
「最初は」
エルネアが少し考える。
「じゃあ、明日」
「来る?」
「予定が変わらなければ」
「何覚える?」
「それも考えておく」
そこで話は終わった。
エルネアはまた記録帳へ何かを書き始める。
今度は、その手元が少し気になった。
読めない。
でも。
昨日までなら、ただの線にしか見えなかったものが。
今日は少なくとも。
誰かが残した言葉なのだと分かるようになった。
エルネアが普段使うのは《アルヴェイン文字》。
ここでユウマは、エルネアの種族が《アルヴェイン》であることを初めて知りました。
さらにユウマは、大陸共通語を自然に聞き、話せるにもかかわらず、《大陸共通文字》を読むことができません。
次は、その文字を一つずつ覚えていくことになります。




