第86話 魔法
魔素について知った翌日。
ユウマはいつもの暮らしを続けながら、これまで見聞きした「魔法」というものを考えます。
そして次にエルネアと会った時、改めてその基本を聞いてみることにします。
翌朝。
目を覚まして最初にしたことは、いつも通り火を見ることだった。
灰の下を細い枝で崩す。
赤いところが残っている。
「大丈夫だな」
乾いた葉を寄せ、細枝を重ねる。
息を吹きかけると、小さな火が戻った。
その横でハクアが身体を伸ばしている。
「おはよう」
白い耳が動いた。
昨日、魔素というものについて聞いた。
この空気にも。
水にも。
土にも。
生き物にもあるらしい。
そう教えられた翌朝でも、やることは何も変わらない。
水を汲む。
火を整える。
食べるものを確認する。
乾かしている草をひっくり返す。
弱くなった紐がないかを見る。
知らなかったものの名前を一つ知っても、暮らしは勝手に楽になってくれない。
「まあ、そうだよな」
水の入った容器を置く。
魔素があるからといって、水が運ばなくてよくなるわけではない。
火も同じだ。
エルネアなら風を出せる。
前に植物の根についた土を払った時、指先から小さな風を起こしていた。
あれが魔法。
俺も試した。
何も起きなかった。
「風は無理、と」
手を前へ出してみる。
当然、何もない。
掌に意識を向けても、やっぱり分からない。
もう一度試せば急にできるようになるかもしれない、とはあまり思えなかった。
「火とかなら出たりして」
今度は焚き火を見る。
「…………」
やめておく。
仮に出たとしても、火の近くで試す意味はない。
そもそも、出る気配すら感じない。
「何見てる?」
ハクアがこちらを見ていた。
「魔法の練習」
白い顔が少し傾く。
「いや、練習にもなってないか」
言い直すと、ハクアは興味を失ったように森の方へ顔を向けた。
その日はエルネアとは会わなかった。
午前中は拠点の近くで薪を集め、午後は少し東の方まで歩いた。
途中でハクアが匂いを確かめるため何度か止まったくらいで、特に変わったことはない。
戻ってから石の刃を整える。
夕方になる。
火を見ながら、昨日の話を思い返した。
魔素。
魔力。
魔法。
言葉だけが少しずつ増えている。
「でも、まだよく分からないな」
魔素は自然にある。
人はそれを取り込む。
魔法を使う時には魔力というものが関わる。
そこまでは聞いた。
でも。
エルネアが風を使えるのは、風属性だから。
前にはそう言っていた。
「じゃあ、属性って何種類あるんだ?」
誰も答えない。
火がある。
水もありそうだ。
土もあるかもしれない。
そういう想像はできる。
けれど、それが本当にこの世界でどう分けられているかは知らない。
「今度聞くか」
最近、そればかりだ。
分からない。
エルネアに会う。
聞く。
また新しい言葉が出てくる。
その繰り返し。
「全部聞くのに何日かかるんだろうな」
ハクアが火の向こうで伏せている。
「まあ、急がなくていいか」
明日になったからといって、急に外へ出なければならないわけでもない。
知らないまま三か月以上暮らしてきた。
一つずつでいい。
その日は、それで終わった。
◇
翌朝。
空は薄く曇っていた。
雨が降るほど暗くはない。
ただ、昨日より少し風が冷たく感じる。
「今日は南西かな」
朝の作業を終え、必要なものをまとめる。
ハクアも立ち上がった。
森へ入る。
西の緩尾根を越え、湿地の方へ下る。
昨日は会わなかった。
だから今日も会うとは限らない。
そう思って歩いていた。
湿地の手前で、ハクアが耳を立てる。
「いる?」
白い鼻先が少し上がった。
その少し後。
木々の間から銀色の髪が見えた。
「いた」
エルネアは木の根元にしゃがみ込み、何かを書いていた。
近づくと、向こうもこちらに気づく。
「こんにちは」
「こんにちは」
エルネアは記録帳を閉じた。
「今日はこっち?」
「うん。この辺を見てた」
横には採取袋が一つ置いてある。
俺はそれ以上聞かず、少し離れた場所へ腰を下ろした。
ハクアはそのまま周囲を歩いている。
「昨日は?」
「別のところ」
「やっぱり毎日同じ場所じゃないんだな」
「研究だからね」
当然と言えば当然だ。
毎日俺のところへ来るわけではない。
調べる場所がある。
エルネアにも、自分のやることがある。
少しの間、エルネアは記録帳へ続きを書いた。
俺は近くの草を見ている。
書き終わるのを待ってから、声をかけた。
「一個聞いていい?」
「珍しい」
「何が?」
「ユウマから一個って言うの」
エルネアが少し笑っている。
「誰かさんに質問多いって言ったからな」
「私のこと?」
「他にいないだろ」
そこで一度会話が切れる。
エルネアは記録帳を鞄へ戻し、こちらへ身体を向けた。
「それで?」
「魔法」
一言だけ言う。
「魔法?」
「前に風使ってただろ」
「使ってたね」
植物についた土を払った時。
初めて見た魔法だった。
「エルネアは風属性なんだよな」
「そう」
「それって、風しか使えないってこと?」
聞くと、エルネアが少し考える。
「元素魔法ならね」
「元素魔法?」
また新しい言葉が出た。
エルネアが俺の顔を見る。
「やっぱりそこからか」
「そこからです」
最近は驚かれなくなった。
少しだけ諦められている気もする。
「魔法には大きく分けて、元素属性を使うものと、属性を持たないものがあるの」
「属性を持たない?」
「無属性魔法」
俺は一度言葉を頭の中で並べる。
元素魔法。
無属性魔法。
「じゃあ二種類?」
「大きく分ければ」
エルネアは地面に落ちていた細い枝を一本拾った。
何かを書くわけではなく、指先で回している。
「まず元素魔法」
「うん」
「人は基本的に、一人につき一つの元素属性を持つ」
「一つだけ?」
「原則はね」
そこで言葉を切る。
余計な説明を広げないためらしい。
俺も続きを待つ。
「火の人なら火」
「水なら水?」
「そう」
「エルネアは風」
「風だけ」
分かりやすい。
俺は少し考える。
「じゃあエルネアは火を出せない?」
「元素魔法としては使えない」
「水も?」
「使えない」
銀色の髪が風で少し揺れる。
本人の属性も風。
何となく似合っている気はする。
「一人一属性って、そういう意味だったのか」
「前に属性って聞いたでしょう?」
「聞かれた」
自分が何属性か。
そう聞かれて、何も答えられなかった。
あの時は、属性が魔法そのものとほとんど同じ意味だと思っていた。
「じゃあ俺が属性分からないって言った時」
「かなり驚いた」
「今なら少し分かる」
普通なら自分の属性は知っている。
エルネアにとって、名前を知らないくらい変だったのかもしれない。
いや。
名前より変だった可能性もある。
「でも」
俺は少し首を傾ける。
「無属性魔法は?」
「元素属性とは別」
「風属性でも使える?」
「使えるよ」
そこが少し分かりづらい。
俺は地面へ視線を落とす。
「一人一属性なのに?」
「一人一属性っていうのは、元素魔法の方」
エルネアは少しゆっくり言った。
「無属性魔法は別枠」
「別枠」
「そう」
なるほど。
頭の中で分け直す。
エルネア。
元素属性は風。
だから風魔法を使う。
それとは別に、無属性魔法も使える。
「無属性って何するの?」
「例えば身体強化」
今度は知らない言葉ではなかった。
「身体を強くする?」
「力を出しやすくしたり、動きを補助したり」
「便利そう」
「便利だよ」
エルネアはあっさり認めた。
それ以上の説明はしない。
俺も今はそれで十分だった。
「エルネアもできる?」
「無属性魔法は使える」
「風と無属性?」
「そういうこと」
少し羨ましい。
風で土を払える。
乾かすこともできる。
身体を強くすることまでできる。
「魔法って結構便利だな」
「使い方次第だけどね」
「俺、全部手でやってた」
「知ってる」
即答された。
俺の拠点を見ているからだ。
石を使い。
枝を運び。
水を運び。
土を掘った。
魔法でできることがどのくらいあるのかは知らない。
でも、少なくとも身体強化が使えれば重いものを動かす時には役立ちそうだ。
「じゃあさ」
「何?」
「元素魔法が駄目でも、無属性なら使える可能性あった?」
エルネアの表情が止まった。
「…………」
「何その顔」
「そういえば、そこをちゃんと試してなかった」
「試せる?」
エルネアは少し考える。
「簡単なところだけなら」
「やってみる」
即答した。
使えるなら使えた方がいい。
それに。
風が出せないだけなら、単に風属性ではない可能性もあった。
前に魔力自体を感じられなかったから、難しいとは思う。
それでも無属性という別のものがあるなら、一度試してみたい。
エルネアは近くの乾いた地面へ移動する。
「立って」
「うん」
言われた通り立つ。
ハクアが少し離れたところからこちらを見ていた。
「何する?」
「まずは身体を動かさなくていい」
「強化しないの?」
「いきなり走られても困るから」
「走らないよ」
信用されていない。
エルネアは俺の前に立つ。
「前に魔力を感じる練習をしたでしょう?」
「何も分からなかったやつ」
「そう」
そこは否定してくれない。
「無属性魔法でも、使うのは魔力」
「じゃあ最初から厳しくない?」
「かなり」
今度はすぐ認めた。
俺も少し笑う。
「でも一応やる」
「そのつもり」
エルネアは自分の腕へ軽く触れた。
「身体強化なら、自分の身体を少しだけ支えるような感じで魔力を使う」
「支える」
「強くしようと力むより、動きを助けるくらいでいい」
分かるような。
分からないような。
でも、前よりは具体的だった。
「腕でいい?」
「最初はそれで」
俺は右腕を見る。
拳を握る。
力を入れすぎない。
身体の内側に何かがあると考える。
それを腕へ。
「…………」
何も分からない。
前と同じだ。
腕に力を入れれば筋肉が固くなる。
でもそれだけ。
「どう?」
「普通に力入ってる」
「魔力は?」
「分からない」
一度力を抜く。
エルネアは予想していたのか、それほど驚かなかった。
「もう一回」
「やり方変える?」
「少し」
今度は拳を握らず、腕全体へ意識を向ける。
魔力。
あるなら動け。
そう思ってみる。
「…………」
やっぱり何もない。
温かくもならない。
軽くもならない。
力が増えた感じもない。
「駄目」
「そうみたいね」
「早いな」
「前にも同じことしたから」
エルネアは少し困ったように俺を見る。
俺も自分の腕を見る。
「無属性も使えない?」
「少なくとも、今の方法では」
また慎重な言い方だった。
使えない、と言い切らない。
今確認できた範囲だけ。
「元素魔法も駄目」
「今のところね」
「無属性も駄目」
「今のところ」
「魔力も分からない」
「うん」
並べてみる。
自分で言うと、少し笑えてくる。
「本当に魔法使えないんだな、俺」
今までより、その意味が少しはっきりした。
風が出せないだけではない。
属性が分からないだけでもない。
元素魔法。
無属性魔法。
どちらも、今のところ使えない。
「落ち込まないの?」
エルネアに聞かれる。
「少しは残念」
「少し?」
「身体強化は使いたかった」
重い枝を運ぶ時。
木を削る時。
何かを持ち上げる時。
役立ちそうな場面はいくらでも浮かぶ。
「便利そうだったし」
「そこなんだ」
「他に何がある?」
エルネアは少し考えたようだった。
「普通なら、魔法を使えないこと自体を気にすると思う」
「前にも似たこと言ってたな」
魔力を感じられなかった時もそうだった。
でも俺には比較するものがない。
ずっと魔法なしで暮らしてきた。
昨日まで使えていたものを失ったわけではない。
「使えないなら仕方ない」
「本当にそれで終わるの?」
「今は」
俺は腰の石の刃へ触れる。
「必要なら別のやり方探す」
魔法で乾かせないなら、風と日を使う。
身体強化できないなら、無理に重いものを一度で運ばない。
切れないなら、何度も削る。
今までそうしてきた。
エルネアは何も言わず、俺の手元を見る。
石の刃。
粗い柄。
自分で作った紐。
どれも魔法なしで使っているものだ。
「ユウマらしい」
「それ褒めてる?」
「多分」
「便利に使い始めたな」
言うと、エルネアが少し笑った。
俺もつられて笑う。
その時、ハクアが近くへ歩いてきた。
俺たちの間を見てから、俺の足元の匂いを嗅ぐ。
「何も出てないぞ」
白い耳が動く。
「魔法失敗しただけ」
ハクアは少しこちらを見たあと、そのままエルネアの横を通った。
エルネアも手を伸ばさない。
目で追うだけ。
「ハクアは魔法使えるの?」
思いついて聞く。
エルネアの視線が白い身体へ向く。
「分からない」
「マナヴォルなのに?」
「珍しいから、分からないことの方が多い」
「そっか」
それなら今はそれでいい。
ハクアが何をできるかは、ハクアが見せた時に知ればいい。
俺は再び腰を下ろした。
エルネアも元の場所へ座る。
「整理すると」
「また整理するの?」
「分からなくなるから」
指を一本立てる。
「元素魔法」
「基本、一人一属性」
「そう」
もう一本。
「無属性魔法」
「元素属性とは別で使える」
「そう」
そして自分を指す。
「俺は?」
「どちらも、今のところ使えてない」
「よし」
「よし?」
「分かったから」
エルネアは少し変な顔をした。
「納得するところ?」
「知らないよりいいだろ」
使えない。
それも一つの情報だ。
できると思い込んで、必要な時に失敗するよりずっといい。
「エルネアは?」
「元素属性は風。無属性も使える」
「覚えた」
「本当に?」
「風は忘れない」
前に目の前で見ている。
根についた土を払った、小さな風。
あれが最初に見た魔法だった。
「無属性は?」
「身体強化」
「それは例の一つね」
「でも使える」
「使える」
それで十分だ。
今日は魔法の全部を覚える必要はない。
元素魔法がある。
基本的に一人一属性。
それとは別に無属性魔法がある。
エルネアは風属性で、無属性魔法も使う。
俺はどちらも使えない。
「また一個増えたな」
「何が?」
「知ってること」
エルネアは少しだけ目を細めた。
「一個どころじゃない気もするけど」
「大体一個でいい」
「雑」
返事を聞きながら立ち上がる。
そろそろ湿地の方も見たい。
エルネアも採取袋を持ち直した。
ハクアはすでに少し先を歩き始めている。
「行く?」
「行く」
三人で歩き出す。
魔法は使えなかった。
でも。
何が使えないのかは、昨日より分かるようになった。
それだけでも十分だった。
魔法には、基本的に一人一つの元素属性を扱う《元素魔法》と、元素属性とは別枠の《無属性魔法》があります。
エルネアは風属性の元素魔法に加え、無属性魔法も使用できます。
一方ユウマは、現時点ではそのどちらも使うことができません。




