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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第七章「森の隣人」

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第85話 魔素

自分が暮らしてきた場所が《忌地の森》と呼ばれていることを知ったユウマ。


その理由の一つとして聞いた「魔素」という言葉が、どうしても頭に残ります。

 細沢へ着いてからも、頭の片隅に一つの言葉が残っていた。


 魔素。


 エルネアへ今度聞くと言ったものの、意味を知らないままではやっぱり気になる。


 とはいえ、ここまで来た目的もある。


「まず石見るか」


 流れの浅い場所へしゃがむ。


 水の中へ手を入れ、表面の平らな石をいくつか持ち上げた。


 前に持ち帰ったものと似たもの。


 少し粗いもの。


 端が薄くなっているもの。


 一つずつ触って確かめる。


 すぐ横ではハクアが水を飲んでいた。


 エルネアは少し離れた場所で、流れの脇に生えている植物を見ている。


 いつも通りだ。


 少なくとも、俺にとっては。


 ここが忌地と呼ばれていると知っても、水が急に濁ったわけではない。


 手を入れれば冷たい。


 石も変わらない。


「……魔素か」


 また口から出た。


 エルネアがこちらを見る。


「やっぱり気になる?」


「まあね」


 俺は手の中の石を一つ戻す。


「でも今日は聞かないって言ったから」


「別に約束じゃないでしょう?」


 確かにそうだ。


 少し考えたが、今日は石を見てから帰ることにした。


 聞き始めたら長くなりそうだという予想は変わっていない。


「明日会ったら聞く」


「会えたらね」


「来る?」


「予定次第」


 エルネアはそう言って、また植物へ視線を戻した。


 俺も石を見る。


 それで、その日の話は終わった。


     ◇


 帰り道。


 ハクアが少し前を歩いている。


 手には細沢から持ち帰ることにした石が二つ。


 いつもの道を戻りながら、森を見る。


 魔素が濃い。


 そう言われた。


 でも、見ただけでは何も分からない。


 空気は普通に吸える。


 水も飲んでいる。


 土を触ってきた。


 この森で採れたものも、ずっと食べている。


「何が濃いんだろうな」


 ハクアの耳が動く。


「見える?」


 もちろん答えはない。


 白い身体は少し先で止まり、地面の匂いを嗅いでからまた歩き出した。


「ハクアには分かるのかな」


 それも分からない。


 分からないものが一つ増えた。


 最近はそういうことが多い。


 エルネアに会ってから、名前を知らなかったものへ少しずつ名前がついている。


 マナヴォル。


 魔法。


 属性。


 忌地。


 そして魔素。


「多いな」


 呟きながら緩尾根を越えた。


     ◇


 拠点へ戻る。


 火を整え、持ち帰った石をいつもの場所へ置く。


 水を確認し、乾かしている草を裏返す。


 いつも通り動いているうちに、気になっていたものも少し頭の奥へ引っ込んだ。


 夕方になり、ハクアが空き地の端で伏せる。


 俺も火の近くへ座った。


「魔素が濃いと危ない、か」


 火へ細枝を一本足す。


 ぱち、と音がした。


 危ないと言われても、今さらどうすればいいのか分からない。


 三か月以上ここにいる。


 今まで知らなかっただけで、ずっと同じ森だった。


「今まで大丈夫だったしな」


 その考えで一度落ち着く。


 ただ。


 エルネアは、普通はこの辺まで入ってこないと言っていた。


 それもかなりはっきりと。


「普通は、か」


 最近、その言葉を聞くたびに少し引っかかる。


 俺の普通と。


 エルネアの普通。


 同じところもある。


 違うところも多い。


 どちらが正しいという話ではないのかもしれない。


 ただ俺が知らないだけのものもある。


「明日聞けばいいか」


 火へ視線を戻した。


     ◇


 翌朝。


 水を汲みに行く。


 戻って食べるものを用意する。


 少なくなった薪をまとめる。


 朝の作業を終えても、今日はすぐ遠くへ行かなかった。


 昨日聞きそびれたことがある。


 だからといって、エルネアが来ると決まっているわけではない。


「待ってるみたいだな」


 自分で言って少し変な気分になる。


 ハクアは空き地の端で座っている。


「別に待ってないぞ」


 白い顔がこちらを向いた。


「今日は近くのことやるだけ」


 誰に言い訳しているのか分からない。


 俺は雨避けの横へ移り、傷んできた紐を一本外した。


 繊維の束を確かめる。


 まだ使える部分と、弱くなっている部分がある。


「ここだけ替えるか」


 作業を始める。


 少し経つ。


 森の音がする。


 風で葉が揺れる。


 鳥が一度鳴く。


 ハクアが立ち上がった。


「ん?」


 白い鼻先が森の方へ向く。


 俺も手を止めた。


 しばらくして、枝を踏む音が聞こえる。


「来た?」


 ハクアは動かない。


 でも、唸りもしない。


 木々の間から銀色の髪が見えた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 エルネアは昨日と同じように鞄を肩から下げている。


 今日は採取袋を持っていなかった。


「今日はついで?」


「近くを通る予定だったから」


「つまりついで」


「そうとも言う」


 前より認めるのが早い。


 エルネアは空き地の手前で一度足を止めた。


「入っていい?」


「いいよ」


 許可を取るのも変わらない。


 俺が頷くと、エルネアは中へ入ってきた。


 ハクアの方を見る。


「おはよう、ハクア」


 白い耳が動く。


 それだけで、エルネアの口元が少し緩んだ。


「今日も近い」


「いつもの場所だから」


「分かってる」


 もう同じやり取りはしないらしい。


 エルネアは火から少し離れたところへ座った。


 俺も外していた紐を横へ置く。


「それで」


「何?」


「魔素」


 言うと、エルネアが少しだけ目を細めた。


「やっぱり聞くのね」


「昨日から気になってた」


 エルネアは鞄を横へ置いた。


 すぐ説明を始めるかと思ったが、一度周囲を見る。


「どこから話したら分かりやすいかな」


「長くなる?」


「短くする」


「本当に?」


「努力する」


 信用していいのか微妙な答えだった。


 俺は火へ枝を一本足す。


「じゃあ、魔素って何?」


「自然の中にあるもの」


 思ったより短い。


「自然?」


「空気にも、水にも、土にもある」


 エルネアは足元の地面へ目を向ける。


「生き物の中にもね」


 俺も周囲を見る。


 空気。


 水。


 土。


 生き物。


「……どこにでもある?」


「大体は」


「見えない?」


「普通は見えない」


 なるほど。


 それなら、三か月以上気づかなかったのも不思議ではない。


 知らない上に見えないものなら、自分で見つけようがない。


「それを人が取り込む?」


「うん」


 昨日、エルネアが言っていたことを思い出す。


 魔力を感じる。


 掌へ集める。


 俺には何も分からなかった。


「魔力とは違う?」


「同じものではない」


 エルネアは少し考え、言葉を選ぶ。


「人は周囲にある魔素を体内へ取り込むの」


「勝手に?」


「特別に意識しなくても、普通は取り込んでる」


 そこで一度、エルネアの言葉が止まった。


 俺もすぐ次を聞かない。


 火の煙が少し横へ流れる。


 この空気にも魔素がある。


 そう言われても、やっぱり何も感じない。


「じゃあ俺も今、取り込んでる?」


「普通なら」


 答え方が少し変だった。


「普通なら?」


「そこが分からないの」


 エルネアの視線が俺へ向く。


 研究している時の目に近い。


 でも、前より少し慎重に見える。


「何で?」


「前に魔法を試した時、ユウマは魔力を感じられなかったでしょう?」


「何も分からなかった」


「だから」


 エルネアはそこで言葉を切った。


 俺の反応を見てから続ける。


「周囲の魔素を取り込むところも、一般的な人とは違うのかもしれない」


「取り込んでない?」


「そこまでは言ってない」


 すぐ否定された。


「違うかもしれない、だけ」


「分からない?」


「分からない」


 前にも似たやり取りをした。


 エルネアは分からないことを、分かったようには言わない。


 そこはもう知っている。


「取り込み方が違うと何かある?」


「それも分からない」


「分からないこと多いな」


「だから調べるの」


 少しだけ楽しそうに聞こえた。


 やっぱり研究者だ。


 俺は掌を見る。


 何も見えない。


 何も感じない。


「それで、魔素が濃いと危ないんだろ?」


「そう」


 エルネアの表情が少し真面目になる。


「人が取り込める量にも限界があるから」


「多すぎると?」


「身体に負担が出る」


 今度は答えが短い。


 俺は続きを待った。


「頭痛とか」


 エルネアが指を一本立てる。


「吐き気」


 もう一本。


「身体が重く感じたり、ひどく疲れたりすることもある」


「それが魔素酔い?」


「そう呼ばれてる」


 酔い。


 確かに、気分が悪くなるなら名前としては分かりやすい。


「ここだと起きる?」


「起きやすい」


「この辺でも?」


「かなり」


 また即答だった。


 俺は思わず周囲を見る。


 昨日と同じ。


 今日も普通の空き地。


 俺が火を起こし、水を置き、道具を並べている場所。


「…………」


「何?」


「いや」


 頭痛。


 吐き気。


 倦怠感。


 一つずつ思い返す。


「俺、なったことあるかな」


 体調を崩したことが一度もないわけではない。


 森で暮らし始めた頃は疲れた。


 雨のあとには身体が重く感じた日もあった。


 でもそれは、歩き回ったり、濡れたり、食べる量が足りなかったりしたせいだと思っていた。


「最初の頃は疲れてたけど」


「どんなふうに?」


「普通に疲れてた」


 エルネアが少し困った顔になる。


「それじゃ分からない」


「俺も今なら分からない」


 三か月以上前の細かな体調なんて全部は覚えていない。


 ただ。


「吐いたことはない」


「頭痛は?」


「覚えてる限りはないかな」


 エルネアの表情が変わった。


 口元から少し笑いが消える。


「本当に?」


「多分」


「その多分はどのくらい?」


「かなり」


 最近、こういう聞き方をされることが増えた。


 俺も少し考える。


「少なくとも、動けないくらい具合悪くなったことはない」


 それならはっきり言える。


 三か月以上。


 毎日何かしていた。


 水を運び。


 薪を集め。


 探索へ行き。


 雨の日もあった。


 ハクアを探した日もある。


 体調が悪くて一日動けなかった記憶はない。


「…………」


 エルネアが黙った。


「またその顔」


「考えてる」


「何を?」


「ユウマのこと」


 最近よく聞く答えだ。


 エルネアは俺を見ているが、目の前の姿だけを見ているわけではなさそうだった。


「普通の人がここにずっといたら?」


「個人差はあるけど、少なくとも何も感じずに暮らし続けるとは考えにくい」


「三か月は?」


「私は勧めない」


 かなりはっきり言われた。


「じゃあ、やっぱり俺がおかしい?」


「違う」


 すぐに否定される。


「おかしいとは言わない」


「普通とは違う?」


「その可能性はある」


 エルネアは一度視線を落とした。


 火。


 地面。


 俺の手。


 順番に見る。


「魔法も使えない」


「うん」


「魔力も感じない」


「うん」


「でも、魔素が濃い場所では平気」


 俺が自分で並べると、エルネアが少しだけ眉を寄せた。


「そこを全部つなげていいかは、まだ分からない」


「関係ないかもしれない?」


「あるかもしれないし、ないかもしれない」


 慎重だ。


 俺なら、とりあえずつながっていると考えそうになる。


 でもエルネアは違う。


「じゃあ、今分かるのは?」


「ユウマが、この森の深い場所で長く暮らしていても、今のところ魔素酔いらしい症状をほとんど見せていないこと」


「それだけ?」


「それだけ」


 エルネアは頷く。


「取り込み方が違うのかもしれない、というのは私の考え」


「まだ決まりじゃない」


「そう」


 それなら分かりやすい。


 事実。


 考え。


 分ける。


 エルネアはいつもそうしている。


「でもさ」


「何?」


「取り込んでるかどうかって、分からないの?」


 エルネアは少し考えた。


「今ここですぐ確かめるのは難しい」


「そっか」


「だから、今は決めない」


 研究者らしい答えだった。


 俺も無理に答えを欲しいとは思わなかった。


 昨日まで魔素という言葉すら知らなかったのだ。


 一日で全部分かる方がおかしい。


「とりあえず」


 俺は周囲を見回す。


「この空気にもある」


「ある」


「水にも」


「ある」


 火のそばに置いてある容器を見る。


「土にも」


「ある」


 足元を見る。


「ハクアにも?」


 白い身体へ視線を向ける。


 ハクアは少し離れたところで伏せていた。


「生き物にもあるから」


「じゃあ俺にも?」


 エルネアが止まった。


「…………」


「何?」


「そこは、あると思う」


「思う?」


「今のユウマについて、何でも普通と同じだと言うのが少し怖くなってきた」


「ひどくない?」


「慎重になっただけ」


 その答えに、少し笑う。


 エルネアもわずかに口元を緩めた。


 さっきまでの真面目な空気が少し薄れる。


「魔素か」


 もう一度言葉を口にする。


 空気にも。


 水にも。


 土にも。


 生き物にもある。


 人はそれを体内へ取り込む。


 濃すぎれば、身体に負担が出る。


 そして、この森。


 忌地の深いところは、その魔素が濃い。


「それで人が来ないのか」


「理由の一つはね」


「獣もいるし?」


「そう」


 外から見れば。


 魔素が濃く。


 危険な生き物もいて。


 深くまで入る理由も少ない森。


 忌地。


 そう呼ばれる理由が、昨日より少しだけ分かった。


 でも。


「やっぱり俺には普通なんだよな」


「そこが気になるの」


「エルネアが?」


「かなり」


 即答だった。


 俺は少し笑いながら、外していた紐へ手を伸ばす。


「じゃあ研究する?」


 軽い気持ちで言った。


 エルネアの顔が止まる。


「…………」


「何?」


「その言い方だと、ユウマを調べていいみたいに聞こえる」


「あ」


 確かに。


 自分から言っておいて、少し変だった。


「変なことしないなら」


「変なことって?」


「切ったり」


「しない」


 即答だった。


「血を取ったり」


「今はしない」


「今は?」


 手が止まる。


 エルネアも止まった。


「…………」


「…………」


「今のなし」


「いや、聞いたからな」


「必要になるか分からないし、そもそも勝手にはしない」


 少し早口になった。


「やっぱり研究者だな」


「ユウマが研究するって言ったんでしょう?」


「軽い意味で」


「私は軽くないの」


 言われて、思わず笑う。


 エルネアは少し不満そうだった。


 その時。


 ハクアが立ち上がる。


 そのまま俺たちの方へ近づき、俺の横を通る。


 エルネアの前を通る時も止まらない。


 昨日よりさらに自然だった。


「ハクア」


 エルネアが呼ぶ。


 白い耳が動く。


 でも、そのまま水の方へ向かった。


「聞いてるな」


「多分」


「またそれ」


「これは本当に多分だから」


 エルネアがハクアを目で追う。


 研究者の目ではある。


 でも、前ほど珍しいものだけを見る顔ではなくなっている気がした。


 俺は紐の作業へ戻る。


 エルネアは火の近くに座ったまま。


 少し経つと、また会話が途切れた。


 それでも気まずくはない。


 森の音。


 火の音。


 時々ハクアが動く音。


 それだけが聞こえる。


 しばらくして。


「ユウマ」


「何?」


「体調が変だと思ったら、ちゃんと言って」


 俺は手を止めた。


「魔素酔い?」


「それも含めて」


 エルネアは真面目な顔をしている。


「頭が痛いとか、吐き気とか、急に身体が重いとか」


「分かった」


「無理しないで」


「それは普段からしてない」


 答えると、少し疑うような目を向けられた。


「本当に?」


「多分」


「また」


「便利だから」


 今度はエルネアが息を吐いた。


 俺は笑いながら紐を結び直す。


 魔素。


 昨日までは知らなかった。


 今日知ったからといって、何かが急に変わるわけでもない。


 水は水だ。


 土は土だ。


 森も森。


 でも。


 今まで何も知らずに吸っていた空気の中にも。


 毎日飲んでいた水の中にも。


 踏み続けてきた土の中にも。


 俺には見えない何かがある。


 それが、この森が忌地と呼ばれる理由の一つ。


 そして俺は。


 その中で三か月以上、普通に暮らしている。


「……やっぱり、少し変なのかな」


 小さく呟く。


「少し?」


 すぐ横から声が返ってきた。


「聞こえてた?」


「近いから」


「忘れて」


「記録しておこうかな」


「やめろ」


 エルネアが笑う。


 俺もつられて笑った。


 答えはまだない。


 ただ。


 昨日まで名前すら知らなかったものについて、今日は少しだけ知ることができた。


 今はそれで十分だった。

魔素は自然界に存在し、濃すぎる環境では《魔素酔い》を起こすことがあります。


忌地の森で平然と暮らすユウマを見て、エルネアはその取り込み方が一般的な人とは違う可能性を考え始めました。

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