第84話 この森の名前
エルネアが拠点へ立ち寄った翌日。
けれど、毎日会うわけではありません。
それぞれの暮らしを続けたあと、ユウマは一つ、今まで考えていなかったことを尋ねます。
翌日、エルネアは来なかった。
朝から昼まで拠点の近くで作業をしていたが、森の奥から銀色の髪が現れることはない。
「まあ、そりゃそうか」
雨避けの横で紐を結び直しながら呟く。
昨日だって、近くを調べていたから寄っただけだ。
毎日ここへ来ると言われたわけではない。
俺にも俺の一日がある。
エルネアにもエルネアの一日がある。
それだけだ。
ハクアは午前の途中で森へ出ていき、昼を過ぎた頃に戻ってきた。
「おかえり」
白い身体がそのまま水の方へ向かう。
「今日は一人だったな」
耳が一度動いた。
「いや、二人か」
俺とハクアがいる。
最初からそうだった。
少し前まで、それが普通だった。
昨日一日誰かがいただけで、今日の空き地が妙に静かに感じる方がおかしい。
「慣れるの早すぎるな」
自分で言って、作業へ戻った。
その日は結局、いつも通りに終わった。
◇
さらに翌朝。
水を汲み、火を整え、乾かしている草を確かめる。
今日は南西へ行くことにした。
湿地の外縁を見て、そのまま余裕があれば細沢まで行く。
「行くぞ」
ハクアが先に森へ入る。
俺も必要なものを持って後を追った。
西の緩尾根を越える。
ここを通る回数も随分増えた。
最初は木の形や目印を一つずつ確認していたのに、今では次にどちらへ曲がるか身体の方が先に分かる。
湿地へ近づくと、足元の土が少しずつ柔らかくなった。
「昨日より湿ってる?」
しゃがんで地面を見る。
雨は降っていない。
でも場所によって水の残り方は違う。
ハクアは少し先で匂いを嗅いでいた。
そのまま湿地の外縁へ出る。
見慣れた草。
何度か掘った跡。
自分でつけた目印。
そして。
「あ」
少し離れたところに、銀色があった。
エルネアはしゃがみ込み、地面の近くを見ている。
横には小さな袋が置かれていた。
「エルネア」
声をかける。
銀色の頭が上がった。
「ユウマ」
「今日はこっち?」
「うん。昨日来なかったから」
「俺のところに?」
「違う。ここに」
一瞬だけ勘違いした。
「そういう意味か」
「何だと思ったの?」
「何でもない」
エルネアが少しだけ目を細める。
追及される前に、俺は近くの草へ視線を落とした。
「何見てた?」
「土の湿り方」
エルネアは指先についた土を軽く払う。
「場所によって少し違うから」
「俺も今見てた」
「そうなの?」
「昨日より湿ってる気がした」
エルネアが俺の方を見る。
「どこが?」
「あっち」
少し戻った場所を指す。
「緩尾根から下りてきたところ」
「あとで見てみる」
すぐに記録帳へ何かを書こうとする。
「今ので書くの?」
「場所だけ。自分で見てから続きは書く」
「なるほど」
俺が言ったことをそのまま事実として残すわけではないらしい。
聞いた場所を覚えるための印だけ。
それなら分かる。
エルネアが記録帳を閉じる。
そのまま少し一緒に歩くことになった。
俺は以前から見ている植物の状態を確かめる。
エルネアは少し離れた場所で土や葉を見る。
ハクアはその間を好きに歩いていた。
ずっと話しているわけではない。
何かあれば声をかける。
少し話す。
また別々に見る。
それくらいがちょうどよかった。
湿地を離れ、細沢の方へ向かう。
道の途中でエルネアが足を止めた。
「こっちの木、前より葉が落ちてる」
「そう?」
「前に来た時より少ない」
見上げる。
言われてみれば、枝の隙間が少し広くなっているような気もする。
「よく覚えてるな」
「何度も見てるから」
「俺も通ってるんだけど」
「見てるものが違うんでしょうね」
そう言われると納得できる。
俺は道として見ている。
エルネアは調べる場所として見ている。
同じところを歩いていても、覚えているものは違うらしい。
また歩き出す。
その時、ふと一つ気になった。
ずっと当たり前すぎて、考えたこともなかったことだ。
「そういえば」
「何?」
「この森って、名前あるの?」
エルネアの足が止まった。
俺もつられて止まる。
「…………」
「何その顔」
「名前も知らないの?」
「だから聞いてる」
また、知らないことの場所がおかしいと思われているらしい。
エルネアは少しだけ息を吐いた。
「あるよ」
「何ていうの?」
俺はそのまま答えを待つ。
エルネアは周囲の森へ一度視線を向けた。
「忌地」
「いみち?」
「忌む土地って書く……って言っても、文字はまだ分からないか」
「音だけなら分かる」
いみち。
聞いたことのない名前ではない。
言葉の意味も何となく想像できる。
でも、あまり良い名前には聞こえなかった。
「この森が忌地?」
「この一帯をそう呼ぶことが多い。森だから、忌地の森って呼ばれることもある」
「忌地の森……」
口にしてみる。
今まで俺の中では、ただの森だった。
最初は危ない森。
そのあと、水がある森。
火を起こして、寝る場所を作って、ハクアと暮らしている森。
湿地があり、細沢があり、割れ岩がある。
それぞれの場所には自分なりの呼び方をつけてきた。
でも、森そのものにも名前があったらしい。
「何でそんな名前?」
「危険な場所として知られてるから」
返事はあっさりしていた。
「危険って、獣とか?」
「それもある」
エルネアは歩き出さず、その場で少し考える。
「でも、それだけじゃない」
「他にも?」
「魔素が濃いことが大きいかな」
知らない言葉が出た。
「まそ?」
聞き返す。
「魔素」
エルネアがもう一度言う。
魔力とは少し違う。
昨日まで話していた言葉に似ているけれど、同じものなのかは分からない。
「それが濃いと危ない?」
「人にとってはね」
エルネアは短く答えた。
俺は周囲を見る。
木がある。
草がある。
少し先ではハクアが地面の匂いを嗅いでいる。
今まで何度も見てきた景色だった。
「ここも?」
「ここも」
「この辺、そんなに危ない場所なの?」
聞くと、今度はエルネアが少し困ったような顔をした。
「ユウマの感覚で聞かれると答えにくい」
「どういう意味?」
「普通は、この辺まで入ってこないから」
俺は周囲をもう一度見る。
「普通は?」
「特に森の深いところへ入る人は少ない」
「ここ、深い方なの?」
「かなり」
即答だった。
「…………」
少し黙る。
俺は三か月以上ここで暮らしている。
拠点はここより少し戻ったところ。
さらにそこから東や北東にも歩いている。
南西へ探索を広げて、今はこうして細沢の近くまで来ている。
自分では、少しずつ行ける範囲を広げてきただけだった。
「俺、ずっとここにいるけど」
「だから不思議なの」
エルネアの声が少し低くなる。
冗談ではないらしい。
「外の人は来ない?」
「絶対に来ないわけじゃない。でも、わざわざ深くまで入る人は少ない」
「エルネアは来てる」
「私は調べに来てるから」
「研究者だから?」
「そう」
それで、今まで誰にも会わなかった理由の一つが少し分かった気がした。
三か月以上。
森を歩いても、人の声を聞かなかった。
道らしい道にも出なかった。
誰かが暮らしている場所も見つけなかった。
俺は単純に、広い森だからだと思っていた。
もちろん、それもあるのかもしれない。
でも、そもそも人が入りたがらない場所だったらしい。
「忌地か……」
もう一度口にする。
自分が暮らしている場所についた名前としては、どうにも馴染まない。
「嫌な名前だな」
「そう?」
「忌むって、近づきたくないって感じだろ」
「大体そんな認識だと思う」
やっぱりあまり良くない。
俺は足元の草を見る。
その少し先には、以前から使っている道が続いている。
「俺には普通の森なんだけど」
「ユウマの普通は、最近あまり信用してない」
「ひどくない?」
「魔法を知らない人が三か月以上、忌地の深いところで石器を作って暮らしてるのよ?」
「並べると変に聞こえるな」
「並べなくても変」
すぐ返ってきた。
少しだけ笑う。
エルネアも口元を緩めていた。
重い名前を聞いた割に、不思議と空気は変わらなかった。
森は森のままだ。
急に獣が増えるわけでもない。
木の形が変わるわけでもない。
細沢の水音も、そのまま聞こえている。
「でも」
俺は少し考える。
「外では危ない森なんだな」
「そう思われてる」
「魔素が濃いから?」
「それが大きな理由の一つ」
また、その言葉だ。
「魔素……」
口の中で繰り返す。
エルネアがこちらを見る。
「知らない?」
「知らない」
今度はもう、驚いた顔をされなかった。
代わりに、少し諦めたような顔になる。
「やっぱり」
「何で納得してるんだよ」
「ユウマだから」
「便利な言葉にしてない?」
「少し」
認めた。
俺は息を吐きながら歩き出す。
エルネアも隣へ並ぶ。
ハクアは少し先にいる。
「魔素って何?」
聞こうとして、一度やめる。
今聞けば、また話が長くなりそうだった。
細沢で見たいものも残っている。
「……それ、今度聞く」
「今でもいいけど?」
「エルネア、説明長くなりそうだから」
「まだ何も言ってないでしょう?」
「研究者だから」
「それ、便利な言葉にしてない?」
「少し」
さっきと同じ返しをすると、エルネアが少しだけ睨んできた。
でもすぐに前を向く。
俺も歩きながら、もう一度だけ森を見た。
忌地。
忌地の森。
今日初めて知った、自分が暮らしている場所の名前。
外の人から見れば危険で、深いところまで入る者は少ない。
その大きな理由の一つが、魔素。
「知らないこと、まだあるな」
小さく呟く。
「たくさんあると思う」
隣からすぐ返ってきた。
「エルネアが嬉しそうなの気のせい?」
「気のせい」
たぶん違う。
でも、それ以上は言わなかった。
細沢の水音が近づいてくる。
名前を知っても、森そのものは昨日までと変わらない。
変わったのは。
俺の中で、この場所に呼び方が一つ増えたことだけだった。
第84話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ユウマが三か月以上暮らしてきた森には、《忌地》《忌地の森》という名前がありました。
外では危険な森として知られ、特に深部へ入る人は少ない場所。
そして、その理由としてエルネアの口から出た新しい言葉が「魔素」でした。




