第83話 本当に来た
第七章「森の隣人」、始まります。
「また来る」と言って帰っていったエルネア。
翌日も、ユウマとハクアの朝はいつも通りに始まります。
朝。
目を覚ますと、昨夜の火は灰の下に少しだけ残っていた。
「まだあるな」
細い枝で灰を崩す。
赤いところを見つけ、乾いた葉と細枝を重ねて息を吹き込むと、小さな火が戻ってきた。
そのまま少しずつ枝を足していく。
ハクアは空き地の端で身体を伸ばしていた。
「おはよう」
白い耳がこちらへ向く。
「今日は早いな」
返事はない。
昨日と変わらない朝だった。
水を汲みに行き、戻ってから火を整える。
乾かしている草の束をひっくり返し、昨日使った樹皮の容器を水で軽く洗う。
雨避けの端には、昨夜の風で落ちてきた細い葉が何枚か引っかかっていた。
「これ取るか」
手を伸ばし、一枚ずつ落とす。
昨日までと違うことがあるとすれば、この空き地を自分とハクア以外の誰かが知っていることくらいだった。
エルネア。
昨日初めてここまで来た。
雨避けを見て。
火を見て。
石の道具や棚を見て。
最後に、また来てもいいかと聞いた。
「また来る、か」
口にしながら、少し考える。
いつ来るとは聞いていない。
今日かもしれないし、数日後かもしれない。
そもそも、研究で森を歩いているなら毎日のようにこっちへ来るとは限らない。
「まあ、そのうちだよな」
ハクアを見る。
白い身体は前脚を舐めている。
「お前も昨日、何か言ってたけど」
「…………」
「返事だった?」
ハクアが顔を上げた。
「分からないか」
俺も聞いたところで分からない。
それで朝の作業へ戻った。
◇
午前のうちは拠点の近くで過ごした。
薪を集める。
少し傷んだ紐をほどき、使えそうな部分だけ残す。
石の刃も一度確かめた。
欠けている場所はない。
ただ、エルネアのナイフを何度も見たせいか、以前より刃先の粗さが目につく。
「比べると駄目だな」
指先で触れる。
これでも、ずっと使ってきた。
草を切った。
食べるものを処理した。
細い枝も削った。
エルネアには切り口が粗いと言われたが、それでも使えなくなったわけではない。
「まだ使える」
元の場所へ戻す。
昼が近くなった頃、ハクアが空き地を出ていった。
「行ってらっしゃい」
白い尾が木々の間へ消える。
一緒に行く様子ではない。
俺も追わなかった。
ハクアが自分だけで森へ行くのはもう珍しくない。
その間に、棚の下へ置いていた石を並べ直す。
細沢から持ち帰った平らなもの。
火の近くで使うもの。
削る時に使いやすい少し粗いもの。
増えてきたせいで、適当に置くと後で探すのが面倒になってきていた。
「こっちにまとめるか」
作業用のものだけを一か所へ寄せる。
その途中だった。
森の奥から、小さく枝を踏む音がした。
「ん?」
手が止まる。
ハクアにしては少し重い。
大きな獣なら、もっと音が続くこともある。
俺は立ち上がり、音のした方を見る。
すぐには何も見えなかった。
けれど、少し待つと。
木々の間に銀色が見えた。
「…………」
思わず目を細める。
銀色はゆっくり近づいてくる。
肩から鞄を下げ、片手には小さな採取袋を持っていた。
見間違えるはずがない。
「……本当に来た」
声が出た。
エルネアが足を止める。
「来るって言ったけど?」
「あ、うん」
それはそうだ。
「いや、もっと何日かあとだと思ってた」
「今日は近くを見てたから」
エルネアが持っていた袋を少し上げる。
中には植物らしいものが入っていた。
完全に俺たちを訪ねるためだけに来たわけではないらしい。
それを聞いて、少し納得する。
「じゃあ、ついで?」
「寄れる場所にいたから」
「それをついでって言うんじゃない?」
エルネアは少し考えた。
「……そうかも」
やっぱり少しだけ笑っている。
俺も肩の力を抜いた。
「まあ、どうぞ」
「入っていいの?」
「昨日も入っただろ」
言いながら空き地の方へ身体を向ける。
エルネアは一度周囲を見てから、昨日と同じ場所を通って中へ入ってきた。
勝手に奥まで進むことはしない。
それも昨日と同じだった。
「ハクアは?」
「さっき森に行った」
「一人で?」
「うん。いつものこと」
エルネアの視線が、ハクアの伏せることが多い場所へ向く。
そこには今、白い身体はない。
地面に毛が少し残っているだけだ。
「ちゃんと帰ってくる?」
「大体」
「大体?」
「今のところは」
そう答えながら、俺は火の方へ戻る。
エルネアも数歩離れたところへ腰を下ろした。
昨日座ったところとほとんど同じだ。
「水飲む?」
「もらっていい?」
「もちろん」
樹皮の容器へ水を入れて渡す。
今度は昨日ほど珍しそうには見られなかった。
それでも受け取る時、一度だけ縁の部分へ視線を落としている。
「まだ気になる?」
「少し」
「見るだけならいいよ」
エルネアは容器を持ち上げた。
「どうやって曲げたの?」
「濡らしたり、火から少し離して温めたり」
それだけ答えて、俺は途中だった石の整理を再開する。
エルネアもすぐ次の質問はしなかった。
水を飲みながら、俺の手元を見ている。
しばらく、石が触れ合う音だけが続いた。
「それ、全部使うの?」
「全部じゃない」
「じゃあ何で置いてあるの?」
「使えるかもしれないから」
エルネアの顔が少し動く。
前にも似たことを聞かれた気がする。
細沢で石を持ち帰った時だ。
「またそれ?」
「使えるかもしれない、が多いね」
「実際、後で使うことあるし」
形が少し違うだけで、役に立つ場所も変わる。
平らなら物を押さえられる。
粗ければ削れる。
重ければ叩くのに使えることもある。
全部が役立つわけではないが、試してみなければ分からない。
エルネアは少しの間、並んだ石を見ていた。
「研究と似てるかも」
「石拾うのが?」
「違う」
エルネアは容器を膝の上へ置く。
「使えるか分からなくても、残しておくところ」
「ああ」
そういう意味なら、少し分かる。
「エルネアも?」
「記録は残す。今は意味が分からなくても、後で別の記録とつながることがあるから」
「じゃあ似てるな」
それで会話は一度終わった。
俺は石を並べる。
エルネアは水を飲む。
特に何かをするわけでもない時間が少し続いた。
昨日は初めて拠点を見せたせいか、俺もエルネアも周囲を気にしていた。
今日は少し違う。
そこにいること自体は、もう昨日ほど気にならなかった。
◇
しばらくすると、森の方から軽い足音が聞こえた。
エルネアが先に顔を上げる。
俺も音のした方を見る。
白い身体が木々の間から現れた。
「おかえり」
ハクアはそのまま空き地へ入ってくる。
数歩進んだところで、エルネアに気づいた。
足が止まる。
「…………」
エルネアも動かない。
昨日なら、ハクアはもう少し長く匂いを取っていた気がする。
今日は鼻先が一度上がっただけだった。
「覚えてる?」
エルネアが小さく言う。
「多分」
「ユウマに聞いても分からないでしょう?」
「そうだった」
俺が笑うと、エルネアも少しだけ口元を緩めた。
ハクアはそのまま歩き出す。
エルネアへ近づくことはない。
けれど遠回りもしなかった。
数歩離れたところを普通に通り過ぎ、水の置いてある方へ向かう。
「あ」
エルネアの声が少し弾む。
「今、普通に通った」
「通ったな」
それだけのことだった。
でも、エルネアにとっては少し嬉しいらしい。
白い身体を目で追いながら、表情が柔らかくなっている。
ハクアは水を飲んだあと、いつもの場所へ移動した。
前脚を伸ばし、そのまま伏せる。
エルネアがいても、今日は場所を変えなかった。
「前より近い」
「何が?」
「私との距離」
言われて見てみる。
確かに昨日より少し近いかもしれない。
ただ、わざわざ近くに来たというより、普段の場所へ戻った結果そこにエルネアがいるだけにも見える。
「いつもの場所だよ」
「じゃあ、私がいてもいつもの場所に戻るようになったってこと?」
「……そういう見方もできるか」
エルネアは満足そうにハクアを見る。
俺はそれ以上考えなかった。
ハクアが嫌なら離れる。
今は伏せている。
それなら、今の距離でいい。
「触らないの?」
「まだ」
答えはすぐ返ってきた。
「今日は近くを通ってくれたから、それでいい」
「意外と我慢できるんだな」
エルネアがこちらを見る。
「ユウマは私を何だと思ってるの?」
「質問が多い研究者」
「…………」
否定しない。
「ほら」
「今は質問してないでしょう?」
「今はね」
エルネアは少しだけ頬を膨らませるような顔をした。
ほんの一瞬だったが、見間違いではないと思う。
「今の顔、初めて見た」
「何の話?」
「別に」
これ以上言うとまた変な顔をされそうなのでやめた。
火へ細い枝を一本足す。
ぱち、と小さな音がする。
そのまま俺は石の整理へ戻り、エルネアは持っていた採取袋を開いて中を確かめ始めた。
「仕事するの?」
「帰ったら記録するから、その前に分けておくだけ」
「ここでやっていいよ」
「いいの?」
「座ってるだけよりいいだろ」
エルネアは少し考えてから頷いた。
袋から植物を二つ取り出し、重ならないよう横へ置く。
葉を確かめる。
根元を見る。
時々指で土を落とす。
俺は俺で、石を並べ直す。
ハクアは伏せている。
会話はない。
昨日までは、この空き地で誰かと黙っているということ自体がなかった。
ハクアにはいつも話しかけているが、返事を求めているわけではない。
人がいるなら、何か話すものだと思っていた。
でも。
「…………」
別に、ずっと話さなくてもいいらしい。
エルネアも気にしていない。
手元の植物を見ている。
風が空き地を抜けた。
乾かしている草が少し揺れる。
火から上がった煙が横へ流れる。
しばらくして、エルネアが顔を上げた。
「そろそろ行く」
「もう?」
思ったより早く口から出た。
エルネアの目がこちらへ向く。
「あ」
自分でも少し変な言い方だったと思う。
「いや、調査の途中だったんだろ」
「うん。まだ一か所見たいところがある」
「じゃあ行かないとな」
エルネアは採取したものを袋へ戻し、立ち上がった。
鞄を肩に掛ける。
最初から今日は長くいるつもりではなかったらしい。
空き地の端まで行く。
ハクアは伏せたまま顔だけを上げた。
エルネアがそちらを見る。
「またね、ハクア」
白い耳が一度動いた。
「…………」
エルネアの表情が少し緩む。
「今のは分かったんじゃない?」
「どうだろ」
「そこは、たぶんじゃないの?」
「最近それ言うと拾われるから」
「覚えたのね」
「覚えた」
短く笑い合う。
エルネアが森の方へ向き直った。
「じゃあ、行くね」
「うん。また」
銀色の髪が揺れ、木々の間へ入っていく。
今度は姿が見えなくなるまで見送らなかった。
俺も空き地へ戻る。
「本当に来たな」
ハクアへ声をかける。
白い顔がこちらを向く。
「また来るかな」
耳が一度動いた。
「まあ、来るか」
昨日も。
今日も。
エルネアは来ると言ったことを、そのままやった。
次がいつなのかは分からない。
でももう。
森でたまたま会うだけの人ではなくなり始めている気がした。
第83話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
「また来る」と言ったエルネアは、翌日、本当にユウマたちの拠点へ立ち寄りました。
まだ調査の途中に寄っただけですが、ハクアの警戒も少しずつ薄れています。
一度会った相手から、また会う相手へ。
三人の距離が、少しずつ変わり始めます。




