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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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章末閑話 名前を知ったあと

第六章の章末閑話です。


ユウマの拠点をあとにしたエルネアは、自分の研究拠点へ戻り、ここ数日で増えた疑問を整理します。

 木々の間に残っていた夕方の光が、少しずつ薄れていく。


 エルネアは森の中を歩きながら、一度だけ後ろを振り返った。


 もう、あの空き地は見えない。


 枝を組んだ雨避けも、火の跡も、棚も、白いマナヴォルの姿も、すべて木々の向こうへ隠れていた。


 それでも、さっき見たものは頭に残っている。


「……三か月」


 小さく口にする。


 正確には大体、とユウマは言っていた。


 けれど、一日や二日をしのぐための場所ではないことくらい、見れば分かる。


 何度も火を使った跡があった。


 踏み固められた地面があり、乾かしている植物があり、使い込まれた石の道具が並んでいた。


 枝を組んだ棚も、樹皮を曲げた容器も、形の整っていない焼き物もある。


 一つだけなら、その場しのぎで作ったものだと思えたかもしれない。


 けれど、あそこにあったものは互いにつながっていた。


 水を運ぶ。


 火を使う。


 食べ物を置く。


 濡らしたくないものを守る。


 道具をしまう。


 必要になったものを一つずつ増やした結果が、あの空き地に残っている。


「必要になったから作った、か」


 本人は簡単そうに言っていた。


 エルネアは少しだけ眉を寄せ、そのまま歩き続ける。


 森の暗さは増していたが、この辺りなら何度も通っている。足を止めて道を探す必要はなかった。


 やがて木々の向こうに、見慣れた建物の影が見えてくる。


 石と木で作られた古い建物だった。


 周囲にも使われなくなったものがいくつか残っているが、エルネアが普段使っているのはそのうちの一棟だけだ。


 扉を開く。


「ただいま」


 静かな室内に声だけが落ちた。


 返事はない。


 いつものことだった。


 灯りをつけると、机や椅子、壁際に置いた採取袋や容器が淡く浮かび上がる。


 乾燥させている試料。


 整理途中の記録。


 調査に持ち出す道具。


 奥には寝るための場所と、簡単に食事を取るためのものもある。


 見慣れた、自分の場所だ。


 肩から鞄を下ろし、今日採ったものを机の端へ並べる。


 植物。


 少量の土。


 湿地の外縁で採取したもの。


 帰る途中に確認したもの。


 いつもなら、そのまま採取記録を整理する。


 けれど今日は、記録帳へ手を伸ばしたところで動きが止まった。


「…………」


 先に浮かんだのは、植物ではなかった。


 粗い切り口。


 最初に見つけた時には、誰が残したのか分からなかった。


 石で何度も押したような切断面。


 掘り返された土。


 細沢から砂を持ち去った跡。


 同じ場所を何度も渡ったことで変わっていた岸辺。


 姿を見るよりずっと前から、誰かがこの森を歩いていることだけは分かっていた。


 そして、その誰かにも同じことを思われていた。


 自分が切った植物。


 採取のために掘った土。


 あちこちに残した足跡。


 互いに顔を知らないまま、残されたものだけを見ていた。


「ユウマ……」


 今は名前を知っている。


 エルネアは椅子を引き、机の前へ座った。


 記録帳を開く。


 筆記具を手に取ったものの、すぐには動かさなかった。


 考えたいことが多すぎる。


 まず目に浮かんだのは、ユウマの腰に下がっていた石の刃だった。


 あの空き地には石斧もあった。


 他にも用途ごとに形の違う石が置かれていたが、金属製の道具は見当たらなかった。


 金属を避けているようには見えない。


 自分のナイフを見た時も、単純に便利そうだという反応だった。


「持ってないから、使ってない」


 たぶん本当に、それだけなのだ。


 それで代わりを作った。


 石を割って。


 削って。


 柄へ固定して。


 使いながら直してきた。


 次に浮かぶのは、魔法のことだった。


 エルネアは記録帳の上へ視線を落とす。


 属性を知らない。


 魔法が実際に使われるところも初めて見たと言った。


 それだけでも珍しい。


 けれど、さらに確かめてみると、普通なら最初に覚えるような感覚さえつかめなかった。


 何度か方法を変えた。


 身体の内側へ意識を向けてもらった。


 掌へ集めるよう促しても、何も分からないと言った。


「使っていなかったんじゃない」


 少なくとも、今まで自分が知っていたやり方では使えていない。


 だからといって、原因まで決めることはできない。


 何か別の理由があるのかもしれない。


 本人が感覚をうまく言葉にできていない可能性も、完全には捨てられない。


 まだ一度試しただけだ。


 それ以上のことは、今は分からない。


 エルネアは筆記具を少し動かし、短く記す。


 ――通常の方法では魔力の感覚を確認できず。


 書いてから、手を止めた。


「それで、三か月……」


 視線が文字から離れる。


 森の中で、ほとんど一人で。


 魔法を使わず。


 金属の道具も持たず。


 あれだけの生活場所を作った。


 本人はそれを特別なことだと思っていない。


 雨が降れば雨を防ぐ。


 水が必要なら運ぶ。


 道具がなければ作る。


 知らない植物を見つければ、危険を避けながら少しずつ確かめる。


 帰る道が分かりづらければ目印をつける。


 行ける範囲が広がれば、自分なりに位置を残す。


 一つずつ見れば、やっていることは理解できる。


 けれど、それを積み重ねた結果を見ると妙だった。


「どうして、それで普通に暮らせてるの……?」


 エルネアは椅子の背へ少し身体を預けた。


 答えは出ない。


 むしろ考えれば考えるほど、知らないことが増えていく。


 そして、ユウマだけではない。


「マナヴォル」


 今度は机から顔を上げる。


 白い身体が思い浮かんだ。


 あれほど近くで生きた個体を見たのは初めてだった。


 珍しい種であり、高い知性を持ち、むやみに人へ襲いかかるようなものではない。


 知っているのはその程度だ。


 だからこそ、ユウマとハクアの関係は余計に気になった。


 捕まえているわけではない。


 繋いでもいない。


 無理に従わせているようにも見えなかった。


 ハクアは自分で森へ出て、自分で戻ってくる。


 ユウマが呼べば耳を向け、簡単な言葉にも反応する。


 そして、あの空き地では完全に力を抜いていた。


「自分で、あそこにいる」


 ユウマもそう言っていた。


 出ていこうと思えば、いつでも行ける。


 それでも戻ってくる。


 エルネアは筆記具の先を記録帳へ置いたまま、しばらく動かさなかった。


 理由を知りたい。


 どうやって出会ったのかも。


 どのくらい言葉を理解しているのかも。


 ユウマのそばにいることと、マナヴォルという種に何か関係があるのかも分からない。


「…………」


 気づけば、聞きたいことを頭の中で並べ始めていた。


 最初に出会った時の様子。


 今の生活。


 魔法。


 ハクア。


 石器。


 食べているもの。


 どうやって森へ来たのか。


 そこまで考えたところで、エルネアは筆記具を置いた。


「多い」


 小さく息を吐く。


 思い出したのは、ユウマに何度も言われた言葉だった。


 一個ずつ。


 自分ではそれほど質問しているつもりはなかった。


 けれど、一つ答えが返ってくれば、そこから二つ三つと次が浮かぶ。


 研究をしている時なら、それでいい。


 相手が土や水や植物なら、気になるものを順番に確かめればいい。


 でも、ユウマは違う。


 ハクアも違う。


 知りたいからといって、好きなだけ調べていい相手ではない。


 今日も、あの空き地の手前で止まった。


 そこから先が、ユウマとハクアの生活する範囲だと分かったから。


 入っていいと言われたあとも、勝手に物へ触れることはしなかった。


 ハクアへ近づく時も同じだ。


 触れてみたいと思った。


 もっと近くで見たいとも思った。


 けれど、向こうが距離を縮めるまでは待った。


 それでいい。


 たぶん、その方がいい。


「一個ずつ、か」


 口にすると、少しだけ可笑しくなった。


 数日前まで名前すら知らなかった相手から、自分の質問の仕方を注意されている。


 それなのに、不快ではなかった。


 むしろ。


「また来てもいい、って言われたし」


 自分で言ってから、少し黙る。


 別れ際の光景が浮かぶ。


 もう一度来てもいいかと聞いた。


 ユウマは、いい、と答えた。


 そのあとハクアが短く鳴いた。


 あれが返事だったのかどうかは分からない。


 ユウマも断定しなかった。


 けれど、少なくとも追い出されたわけではない。


 また行ける。


 次がある。


「なら、本当に一個ずつでいいか」


 エルネアは再び筆記具を取った。


 記録帳の空いている場所へ、今日までに確認したことを短く残していく。


 石器を使用。


 金属工具は確認できず。


 魔法についての知識が非常に少ない。


 通常の方法では魔力の感覚を確認できない。


 森で約三か月生活。


 独自に採取を行い、生活圏を広げている。


 マナヴォルと行動。


 拠点を自力で整備。


「…………」


 並べてみても、やはり妙だった。


 けれど、どれも実際に自分で見聞きしたことだ。


 推測と事実は分けておかなければならない。


 エルネアは少しだけ間を空け、その下へ新しい行を作った。


 今までなら。


 未知の生活痕。


 不明な採取者。


 そんな書き方をしていたかもしれない。


 でも、もう違う。


 筆記具を動かす。


 ――ユウマ。


 そこで手が止まった。


「…………」


 書かれた文字を見る。


 森に残された粗い切り口の主。


 何度も同じ沢を渡っていた誰か。


 白いマナヴォルと一緒に歩いている人。


 魔法を知らず、石の道具を使いながら三か月ほど暮らしている人。


 今では、全部が一人につながっている。


「ユウマ」


 文字を見ながら、声でも一度呼んでみる。


 当然、返事はない。


 それでも、名前を知らなかった頃とは違った。


 疑問は増えた。


 分からないことも、むしろ前より多い。


 それでいい。


 すぐに答えを決める必要はない。


 次に会った時に、一つ聞く。


 また何か分からなくなったら、その時に考える。


 エルネアは記録帳を閉じた。


 机の上には、今日持ち帰った植物と土。


 積み重ねてきた調査記録。


 その中に、新しい名前が一つ加わった。


 もう、森のどこかにいる名前のない誰かではない。


 ユウマ。


 名前を知ったあとに残ったのは、答えではなかった。


 もっと知りたいと思うだけの、いくつもの疑問だった。

章末閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


エルネアの記録に、初めて「ユウマ」という名前が加わりました。


魔法、森での暮らし、ハクアとの関係。


まだ答えは出ませんが、痕跡だけを知っていた相手は、今では名前を持つ一人の人物になっています。


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