第82話 また来る
第六章最終話です。
普通の方法では、魔法を使えない。
それが分かっても、ユウマの暮らしそのものが急に変わるわけではありません。
森で積み上げてきたものは、今日もそこにあります。
細沢へ向かうハクアの後ろを、俺とエルネアが並んで歩く。
さっきまで魔法を使おうとしていたせいか、歩きながらも何度か自分の手が気になった。
掌を見る。
やっぱり何もない。
「まだ試してる?」
「見てるだけ」
エルネアが横からこちらを見る。
「歩きながら急に使えるようにはならないと思う」
「それは俺も思う」
分かっている。
ただ、昨日までは魔法が使えるかどうかすら考えたことがなかった。
できないと分かると、逆に少し気になるだけだ。
細沢の近くまで行ったものの、その日は長居しなかった。
エルネアも採取する予定のものがあるらしく、途中で別の方向へ向かう。
「今日はここまで?」
「うん。少し見たい場所があるから」
エルネアは一度俺の方を見た。
「魔法のことは、もう少し考えてみる」
「無理しなくていいぞ」
そう答えると、少しだけ眉を寄せられた。
たぶん、そこを気にしない俺の方がおかしいと言いたいのだろう。
それ以上は聞かず、俺もハクアと拠点へ戻った。
◇
夕方。
火のそばへ座り、今日使ったものを順番に片づける。
石の刃についた汚れを落とし、水の残りを確かめる。朝に乾かす場所へ移した草も、風のおかげで少し水分が抜けていた。
「風魔法あったら早そうだな」
束を裏返しながら呟く。
ハクアが少し離れたところで顔を上げる。
「使えないけど」
白い顔がまた伏せられた。
「分かってるよ」
何となく言い返す。
魔法は使えないかもしれない。
でも草は乾く。
火も燃えている。
明日の水も汲みに行ける。
今までやってきたことができなくなったわけではない。
そう考えると、やはり今すぐ困ることでもなかった。
夜になる頃には、そのことも頭の端へ移っていた。
◇
翌朝。
いつものように水を汲み、火を整える。
食べるものを確認したあと、今日は南西へ行くことにした。
細沢まで行く必要はない。
湿地の外縁で、前から見ている植物の状態を確かめるつもりだった。
「行くか」
ハクアが立ち上がる。
森へ入り、西の緩尾根を越える。
昨日までと同じ道。
何度も歩いたせいで、今では目印を探すより先に身体が向きを覚えている場所も増えた。
湿地へ下り始めたところで、前を歩くハクアが耳を動かした。
「いる?」
聞くと、白い鼻先が少し上がる。
すぐに木々の間から銀色が見えた。
「あ、やっぱり」
少し先にエルネアがいる。
今日も肩から鞄を下げ、片手に小さな採取袋を持っていた。
向こうも俺たちへ気づく。
「ユウマ」
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶を交わし、自然に近づく。
最初に会った頃のように、十数メートルも距離を取ることはなくなった。
ハクアも止まらない。
エルネアの数歩手前を通り、そのまま湿地の方へ進む。
「慣れてきた?」
「ハクア?」
エルネアが頷く。
「前より警戒されてない気がする」
「俺にもそう見える」
ただし、だから触っていいということにはならない。
それはエルネアも分かっているらしく、通り過ぎる白い身体を目で追うだけだった。
俺たちはそのまま湿地の外縁を一緒に歩いた。
目的は少し違う。
俺は以前から見ている植物や地面の状態を確かめ、エルネアは小さな採取物を袋へ入れたり、記録帳へ何かを書き込んだりしている。
時々話す。
少し歩く。
また別のものを見る。
そんな時間が続いた。
昼をかなり過ぎた頃、俺は空を見上げた。
「そろそろ戻る」
「私も今日は終わり」
エルネアが記録帳を閉じる。
帰る方向へ身体を向けると、途中までは同じだった。
三人で湿地を離れ、緩尾根へ向かう。
ここから先も、しばらくはエルネアと同じ方角らしい。
「こっちなんだ」
「途中までは」
エルネアは周囲を見ながら歩く。
「ユウマの帰る場所って、この先?」
「うん」
答えてから、少しだけ意識した。
今までエルネアに拠点の場所を詳しく教えたことはない。
三か月くらいこの森で暮らしているとは話した。
住んでいる場所があることも、たぶん分かっている。
でも実際にどこなのかまでは知らないはずだ。
緩尾根を越える。
そこから先は、南西探索を始める前から俺が何度も使っていた範囲へ入る。
地面に残る跡も増える。
拾った枝を避けた場所。
何度も踏んで薄く道のようになったところ。
古い目印。
俺にとっては見慣れたものばかりだ。
エルネアは歩きながら、それらへ何度か目を向けていた。
「……ずっと続いてる」
「何が?」
「ユウマの跡」
言われて、足元を見る。
自分ではもう意識していなかった。
「毎日歩くからな」
「そういうことね」
エルネアは少し考えるように周囲を見た。
やがて、拠点までそれほど遠くないところへ来る。
ここまで来れば、普段使っている道筋もかなり分かりやすい。
その時。
エルネアが止まった。
「ん?」
俺も数歩進んでから振り返る。
エルネアはその場に立ったままだった。
「どうした?」
「ここから先」
視線が、俺とハクアが進んでいる方へ向く。
「ユウマが暮らしてるところに近いでしょう?」
「近い」
エルネアは頷いた。
「じゃあ、私はここまでにする」
「帰るの?」
「勝手に入る場所じゃないと思うから」
言われて、少し意外だった。
森の中だ。
囲いがあるわけでもない。
ここから俺の土地、という線を引いているわけでもない。
それでもエルネアには、この先が俺たちの生活する範囲だと分かったらしい。
「…………」
少し考える。
見せたくないわけではない。
危険なものがあるわけでもない。
ただ、自分以外の人を拠点へ連れていくということを考えたことがなかった。
自然にハクアを見る。
白い身体は少し先で止まっていた。
「ハクア」
呼ぶとこちらを見る。
エルネアへ顔を向け、それから俺へ戻す。
唸らない。
前へ出て止めることもない。
だからといって、ハクアが招待を決めたわけでもない。
ただ、嫌がっているようには見えなかった。
「…………」
もう一度エルネアを見る。
「少し見る?」
「いいの?」
「別に見られて困るものないし」
言ってから、少しだけ自信がなくなる。
片づいているかと言われれば、そうでもない。
「綺麗ではないけど」
「研究しに行くわけじゃないから」
「それならいいか」
俺が歩き出すと、エルネアもついてきた。
さっきまでより少しだけ足取りが慎重に見える。
ハクアが先を歩く。
見慣れた木を越え、いつもの空き地へ近づく。
先に雨避けの端が見えた。
「ここ」
木々を抜ける。
エルネアの足が止まった。
「…………」
何も言わない。
俺もつられて拠点を見る。
いつもの場所だ。
雨を避けるために組んだ屋根。
その近くの焚き火。
使いやすいよう並べている石。
樹皮を曲げて作った容器。
枝を組んだ棚。
歪んだ焼き物。
乾かしている草や紐。
集めて置いている素材。
食べ物を置く場所。
少し離れたところには、書き足し続けている簡略地図もある。
俺には、全部見慣れている。
エルネアは入り口のようになっている場所で立ったまま、ゆっくり視線を動かしていた。
「どうした?」
「これ……」
銀色の髪が動く。
棚を見る。
火を見る。
雨避けを見る。
「一人で……?」
「途中からハクアもいるけど」
答えると、エルネアがすぐこちらを見る。
「そうじゃなくて」
「違うの?」
何が聞きたいのか分からない。
エルネアは一度口を閉じ、また拠点へ視線を戻した。
そのまま少しだけ中へ入る。
「これ、全部ここで作ったの?」
「大体」
「道具は?」
「そこ」
石斧や石の刃を置いている方を指す。
エルネアはそちらを見ると、数秒止まった。
金属の道具はない。
それは昨日までに見ているはずだが、拠点全体と一緒に見ると何か違うらしい。
「その石斧で?」
「それだけじゃないけど」
俺は近くの石の刃も持ち上げる。
「こっちも使う」
「…………」
また黙った。
質問攻めになるかと思ったが、そうはならなかった。
エルネアはただ一つずつ見ている。
雨避けの枝がどう組まれているか。
樹皮容器の形。
棚に並べたもの。
火の周り。
焼き物。
乾燥中の素材。
そこにハクアの毛や足跡も混じっている。
生活している場所。
俺にはそれだけだった。
「三か月」
エルネアが小さく言った。
「大体」
「ここで?」
「最初から全部あったわけじゃないぞ」
「それは分かる」
雨避けへ近づき、屋根の下を見る。
俺も隣へ移動した。
「最初はもっと何もなかった」
「火も?」
「火は早めに作った」
そのあと水を運ぶものが必要になった。
雨が降って困った。
寝る場所を少しずつ直した。
物が増えれば置く場所が必要になった。
土を見つけて焼き物を試した。
紐にできそうなものも見つけた。
一つずつ増えた。
今こうなっているだけだ。
「必要になったら作った感じ」
「魔法なしで」
「うん」
「金属の道具もなし」
「持ってないから」
エルネアの視線がまた石器へ向く。
俺には当たり前だった。
持っていないものは使えない。
だからあるもので代わりを作った。
それだけの話だ。
「……やっぱり変」
「また?」
「前より増えた」
「分からないことが?」
「うん」
エルネアは即答した。
けれど、そのまま質問を並べることはしなかった。
研究者の顔にはなっている。
気になるものが大量にあるのも分かる。
それでも今日は、初めて入った場所を勝手に調べるつもりはないらしい。
「それ、地図?」
少し離れたところを指す。
「一応」
「見てもいい?」
「いいよ」
許可を取ってから近づく。
そういうところは変わらない。
簡略地図を手に取ることはせず、少し離れたところから眺めている。
「湿地と、細沢?」
「あと割れ岩」
指で位置を示す。
自分にしか分からない印もかなり多い。
「こっちが水」
「拠点の近くにもあるの?」
「歩けば」
エルネアは地図と周囲を交互に見た。
何か言いたそうだったが、結局口には出さない。
「質問しないの?」
俺から聞くと、少し困ったような顔をされた。
「していいの?」
「一個ずつなら」
「まだそれ?」
「エルネアの場合は必要だろ」
少し間があり、エルネアが目を逸らす。
否定はしなかった。
俺は笑いながら地図を元の場所へ戻す。
その間にハクアは空き地のいつもの場所へ行き、前脚を伸ばして伏せていた。
エルネアがそちらを見る。
「ここがハクアの帰る場所でもあるのね」
「多分」
「また、たぶん」
「本人に聞けないからな」
ハクアはもうくつろいでいる。
少なくとも、自分の居場所だと思っていなければああはならない気がする。
しばらくして、俺は火を起こし直した。
エルネアは少し離れたところに座る。
何か特別なことをするわけではない。
俺は乾いている枝を足し、水を確認する。
ハクアは伏せたまま。
その近くに、エルネアがいる。
妙な感じだった。
この空き地に、自分とハクア以外の誰かが座っている。
それだけで、いつも見ている景色が少し違って見える。
「水、飲む?」
「いいの?」
「あるから」
樹皮の容器を見せると、エルネアが少しだけ目を見開いた。
「これも作ったの?」
「そこから聞く?」
「だって気になる」
やっぱり質問は減らないらしい。
それでも会話はそこで切れた。
エルネアは水を受け取り、容器の作りを少し見てから口をつける。
俺は火へ枝を一本足した。
気づけば陽はだいぶ低くなっていた。
「そろそろ帰らないと」
エルネアが立ち上がる。
「暗くなるな」
鞄を肩へ掛け直すのを見て、俺も立った。
少しだけ一緒に行こうかとも思ったが、エルネアなら自分で帰れる。
ここへ来るまでの道も分かっているはずだ。
空き地の端まで歩く。
エルネアはそこで一度振り返った。
雨避け。
焚き火。
棚。
ハクア。
最後に俺を見る。
「ユウマ」
「何?」
少し間があった。
「また、この辺に来てもいい?」
「別にいいよ」
俺としては、断る理由もなかった。
今日だって勝手に入ってきたわけではない。
来る前に止まり、聞いてから入った。
エルネアなら、それでいいと思う。
その時。
「ワフ」
後ろから短い声がした。
「…………」
俺とエルネアが同時に振り返る。
ハクアは伏せたまま、こちらを見ている。
「今の」
「返事?」
エルネアが聞く。
「どうだろ」
断定はできない。
でも、嫌がっている声には聞こえなかった。
エルネアもそう感じたのか、少しだけ表情が緩む。
「じゃあ」
銀色の髪が夕方の光を受ける。
「また来る」
「うん」
エルネアが森へ入っていく。
数歩進んだところで一度だけこちらを見た。
俺も軽く手を上げる。
やがて銀色は木々の向こうへ消えた。
「また来るって」
ハクアへ言う。
白い耳が一度動く。
「まあ、いいか」
火のそばへ戻る。
もう夕方だ。
水も確認した。
食べるものも用意しないといけない。
いつもの暮らしは続いている。
ただ一つ。
今まで二人分しかなかったこの場所を、今日初めて誰かが見た。
そして、その誰かは。
また来るらしい。
第六章 銀髪の研究者 了
第六章完結です。
第82話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
エルネアが初めて、ユウマとハクアの暮らす拠点を訪れました。
魔法も金属工具も使わず、森の中で一つずつ作られてきた生活の跡。
それを目にしたことで、エルネアの中の疑問はさらに増えていきます。
そして別れ際に交わしたのは、「また来る」という言葉でした。




