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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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第78話 その白い子

森に残された痕跡について話した二人。


けれどエルネアが気になっていたのは、ユウマだけではありませんでした。

 割れ岩を離れる頃には、話し始めた時より陽が傾いていた。


 エルネアは細沢を渡る少し手前で足を止め、俺たちとは違う方向へ身体を向ける。


「私はこっち」


「分かった。またな」


 短く手を上げると、エルネアも小さく頷いた。


「また」


 銀色の髪が木々の間へ遠ざかっていく。


 俺はその姿を少しだけ見送ってから、先に歩き始めたハクアを追った。


「待てって」


 白い身体は振り返らない。


 細沢を渡り、湿地を抜けて緩尾根へ戻る頃には、頭の中も少しずつ普段のことへ切り替わっていた。


 滑らかに切られていた草も、整った掘り跡も、少なくともいくつかはエルネアが残したものだった。


 逆に、俺が森へ残していた跡も向こうには見つかっていたらしい。


「結構見られてたな」


 隣を歩くハクアへ言ってみる。


 白い耳が一度こちらへ向いた。


「別に悪いことしてたわけじゃないけど」


 そう言いながら、自分の切った草が「粗い」と言われたことを思い出す。


「……あれはちょっと気になる」


 ハクアは知らない顔で先へ進んだ。


 その日はそのまま拠点へ戻り、夕方からはいつもの作業に戻った。


 持ち帰ったものを片づけ、火を整え、乾かしている草の状態を見る。少し緩んでいた石斧の固定も巻き直した。


 翌日も、エルネアには会わなかった。


 朝から水を汲み、近場で薪を集め、雨避けの端に傷み始めたところを見つけて直す。


 ハクアは午前の途中で森へ消え、昼を過ぎた頃に何事もなかったように戻ってきた。


「おかえり」


 呼ぶと、白い顔がこちらを向く。


「どこ行ってた?」


 もちろん答えはない。


 ハクアは水の入った容器へ向かい、俺も作業へ戻った。


 エルネアと知り合ったからといって、毎日会うわけではない。


 森での暮らしも、それまで通り続いていた。


     ◇


 さらに一日経った朝。


 空には薄い雲が残っていたものの、雨になる気配はなかった。


「今日は細沢まで行くか」


 前に見られなかった石を確認したい。


 湿地の周辺も少し見ておきたかったので、水と簡単な入れ物を持って森へ入った。


 ハクアはいつものように少し前を歩いている。


 西の緩尾根から南西へ下り、湿地の外縁へ出た。


 ここまで何度も往復しているせいか、最初の頃ほど足元ばかり気にしなくても進める。それでも湿った場所へ近づけば、滑りやすい地面や深そうな水は避けた。


「そっちは大丈夫?」


 ハクアが選んだ道を見る。


 白い身体は一度こちらを振り返り、そのまま乾いた地面を進んだ。


「じゃあ、そっち行く」


 後を追う。


 湿地と細沢の中間には、周囲より少しだけ地面の高い場所がある。


 何度か休憩に使ったところだ。


 そこへ近づいた時、ハクアが急に足を止めた。


「ん?」


 耳が前を向く。


 警戒しているというより、何かに気づいた時の反応だった。


 俺も視線を上げる。


 木々の間から銀色が見えた。


「あ」


 エルネアだった。


 肩からいつもの鞄を下げ、小さな袋を片手に持ってこちらへ歩いてくる。


 向こうもすぐに気づいたらしい。


「ユウマ」


「こんにちは」


 名前を呼ばれ、そのまま挨拶を返す。


「こんにちは」


 エルネアは俺たちから少し離れたところで足を止めた。


 ただ、視線は俺ではなく、その前にいるハクアへ向いている。


「……何?」


「その白い子」


 視線の先を確かめるまでもない。


「ハクア?」


「そう。ハクアっていうのよね」


 俺が頷くと、エルネアは改めて白い身体を見た。


 前にも名前は聞いていたはずだが、今日はそれを確かめるような目をしている。


「ハクア」


 呼んでみる。


 白い耳がこちらへ動いた。


「ほら」


「本当に名前に反応してる」


 エルネアの声が少しだけ弾んだ。


 植物を見つけた時とは違うが、何か気になるものを前にした時の顔だということはもう分かる。


「前にも言っただろ」


「聞くのと見るのは違うでしょう?」


 エルネアはそう言ってから、ハクアへ一歩近づきかけた。


 けれど途中で足を止める。


 ハクアの耳がわずかに前へ向いたからだ。


 警戒して唸ったわけではない。


 それでも、エルネアはその反応を見落とさなかった。


「ここにいた方がいい?」


「俺に聞かれてもな」


 少し考えて、ハクアを見る。


「ハクアが近づきたければ自分で行くと思う」


「じゃあ待つ」


 エルネアはすぐに足を戻した。


 手を差し出すこともしない。


 距離を残したまま、その場に立っている。


 しばらくすると、ハクアの耳が元の向きへ戻った。


「触ってみたい?」


「触ってみたい」


 答えが早い。


「でも、勝手には触らない」


「そこはちゃんとしてるんだな」


 エルネアが俺を見る。


「どういう意味?」


「気になるとすぐ近くまで行きそうだから」


 少し間があった。


「私を何だと思ってるの?」


「気になるものを見つけると質問が増える研究者」


 エルネアは否定しかけたようだったが、何も言わずに口を閉じた。


「今、否定できなかっただろ」


「……少しだけ当たってる」


 それだけ答えると、またハクアへ視線を戻す。


 やはり気になるらしい。


「いつから一緒にいるの?」


「森に来て、しばらく一人で暮らしたあと」


「どこで会ったの?」


「拠点から少し離れたところ」


 そこで一度、エルネアの質問が止まった。


 俺もハクアを見ながら、出会った頃を思い出す。


 最初からこんなふうに一緒に歩いていたわけではない。


 白い子犬を見つけ、距離を取りながら様子を見て、少しずつ同じ場所へ戻るようになった。


 今では拠点にハクアがいるのが普通になっている。


「最初からついてきたわけじゃないよ」


「じゃあ、少しずつ?」


「そんな感じ」


 エルネアは小さく頷いた。


 また何か聞きたそうな顔をしている。


 予想通り、すぐ口が開いた。


「最初に会った時は――」


「待って」


 手を上げる。


 エルネアが止まった。


「何?」


「質問が増えてる」


「まだ一つしか聞いてない」


「その続きに三つくらいある顔してる」


 少しだけ沈黙が落ちた。


 エルネアは自分の頬へ手を触れる。


「そんな顔ある?」


「ある」


「ユウマに分かるくらい?」


「最近は」


 納得していない様子だったが、質問を続けるのはやめたらしい。


 代わりにハクアの様子を静かに見る。


 白い鼻先が少し上がった。


 一度、風を嗅ぐ。


 エルネアの方へ顔が向いた。


「あ……」


 小さな声が漏れる。


「今、私の匂いを嗅いだ?」


「たぶん」


「前にも嗅いでたのかな」


「それはハクアにしか分からない」


 答えながら、少し前の章間でハクアが何度か匂いを気にしていたことを思い出す。


 エルネアの匂いだったのかもしれない。


 ただ、それを俺が断定することはできない。


 ハクアは鼻を動かしたあと、その場に立ち続けていた。


 逃げない。


 近づきもしない。


「嫌われてはいない?」


「どうだろ」


「分からない?」


「分からないことを勝手に決めるのも違うだろ」


 エルネアは一度ハクアを見て、それから俺へ戻す。


「それはそうね」


 その返事を聞いて少しだけ安心した。


 ハクアは俺のものではない。


 一緒に暮らしてはいるが、ハクアが誰へ近づくかまで俺が決めることではなかった。


 エルネアも同じように考えているらしい。


 しばらく何も起きない。


 葉が揺れ、湿地の方から小さな水音がする。


 その静けさの中で、ハクアが一歩だけ動いた。


「…………」


 エルネアの視線が下がる。


 もう一歩。


 白い身体は俺の前を横切り、エルネアの方へ斜めに進んだ。


 一直線には近づかない。


 数歩分の距離を残したところで止まる。


 鼻先が動いた。


 エルネアは何もしない。


 しゃがまない。


 手も伸ばさない。


 ただ、その場で待っている。


 ハクアがもう一度匂いを嗅いだ。


「近い」


 エルネアが小声で言う。


「動かない方がいいと思う」


「分かってる」


 そこで会話も止まる。


 エルネアは本当に動かなかった。


 さっきまで質問が止まりそうになかったのに、こういう時には待てるらしい。


 ハクアはしばらくエルネアを見ていたが、それ以上は近づかなかった。


 やがて身体の向きを変え、俺の横へ戻ってくる。


「終わり?」


 聞いてみる。


 白い身体はそのまま近くの草へ伏せた。


「終わりっぽいな」


 エルネアが少し息を吐く。


「緊張した?」


「少し」


「意外」


「どうして?」


 俺が首を傾げると、エルネアはハクアを見る。


「嫌われたくないから」


 その答えは少し意外だった。


 研究者として珍しいものを調べたいだけではないらしい。


「普通に気に入ってる?」


「まだほとんど知らないけど」


「でも触りたい」


「白くて綺麗だし」


 エルネアはそこで言葉を切った。


 目はまだハクアへ向いている。


「それに、賢そう」


「それは俺も思う」


 ハクアの耳が動く。


「聞こえた?」


「分からない」


 エルネアの口元が少し緩んだ。


 俺も笑う。


「もう少し聞いていい?」


「一個ずつなら」


「じゃあ一つ」


 エルネアは一度考えた。


 すぐ聞かず、本当に一つ選んでいるらしい。


「ユウマの言葉、どのくらい分かってるの?」


「それ、俺も正確には分からない」


 名前を呼べば見る。


 行く、帰る、待つ。そのくらいはかなり通じている気がする。


 でも、どこまで言葉として理解しているのかは確かめようがない。


「簡単なことは分かってると思う」


「例えば?」


「……今ので二個目じゃない?」


 エルネアの口が止まった。


「細かい」


「一個ずつって言っただろ」


「じゃあ、今のは次の一個」


「予約するの?」


「駄目?」


 少し考える。


「まあ、それならいいか」


 エルネアが満足そうに小さく頷いた。


「じゃあ次はそれ」


「覚えてたらな」


「覚えておく」


 研究者らしい答えだった。


 俺は下ろしかけていた荷物を持ち直す。


「俺、細沢まで行くけど」


「私も途中までは同じ方向」


「じゃあ一緒に行く?」


「うん」


 伏せていたハクアも立ち上がった。


 先に白い身体が歩き始める。


 俺がその後ろへ続き、エルネアも少し距離を空けて隣へ並んだ。


 三人分の足音が、木々の間に重なる。


 エルネアは何度かハクアへ目を向けていたが、もう近づこうとはしなかった。


 気になる。


 知りたい。


 それでも、相手が保っている距離までは勝手に越えない。


 そういうところも、少しずつ分かってきた。

第78話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


エルネアが強く興味を示したのは、ユウマと暮らしているハクアでした。


知りたいことは多くても、ハクアが保つ距離を無理に縮めることはしません。


ハクアもまた、自分から少しだけ近づき、エルネアを確かめました。

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