閑話 知っている匂い
銀色の髪をした相手と別れ、ユウマとハクアは帰り道へ。
けれどハクアにとって、あの相手との出会いは、まったく初めてのものではありませんでした。
銀色の人が、木々の向こうへ消えていく。
ハクアはすぐには歩き出さなかった。
白い鼻先を少し持ち上げ、風を嗅ぐ。
葉の匂い。
湿った土。
近くを流れる細い水。
ユウマの身体と服についた土や煙の匂い。
その中に、少しずつ遠ざかっていくものが一つあった。
「行ったな」
ユウマの声がする。
ハクアは銀色の人が消えた方へ鼻を向けたまま、もう一度息を吸った。
知らない姿だった。
銀色の長いものが頭から揺れ、ユウマとは違う匂いをまとっていた。
けれど。
その匂いそのものは、知らなかったものではない。
ハクアの耳が小さく動く。
「俺たちも帰るか」
ユウマが歩き始める。
ハクアも少し遅れてその横へついた。
けれど歩きながら、鼻はまだ森の奥に残った匂いを拾っている。
前にもあった。
もっと前。
ユウマがこの辺りまで何度も歩くようになる前からではない。ユウマが少しずつ遠くへ進み、濡れた場所や細い水の流れを見つけるようになってから、その匂いは時々森の中に残っていた。
湿った土の近く。
草が多く生えている場所。
水の流れるところ。
いつも強く残っていたわけではない。
古い時もあれば、新しい時もあり、風に消えかけていることもあった。
初めて嗅いだ時、ハクアは足を止めた。
獣とは違う。
ユウマとも違う。
森の中でよく知っている匂いのどれにも重ならなかった。
だから嗅いだ。
風の向こうを確かめ、地面へ鼻を寄せ、少しだけ耳を澄ませた。
けれど、追わなかった。
すぐ近くから敵意のある気配がしていたわけではない。
腹を空かせた獣がこちらを狙っている時の匂いでもなければ、縄張りを守る大きな獣が残す強いものとも違った。
知らない。
ただ、それだけだった。
だからハクアは、そこに匂いがあることだけを覚えた。
ユウマは何度か気づいていた。
「何かいる?」
そんな声をかけられたこともある。
そのたび、ハクアは匂いのする方を確かめるだけで進まなかった。
知らないものがいるからといって、すべてを見つける必要はない。
ユウマが進むなら一緒に行く。
ユウマが戻るなら戻る。
それでよかった。
やがて、その匂いは別の場所にも残るようになった。
切られた草の近く。
地面が掘られた場所。
細い水を渡った先。
岩の多い場所。
同じ匂い。
完全に同じではない。
土が混じる時もあった。
濡れた植物の匂いが強い時もあり、石や水の匂いに薄く紛れていることもあった。
それでもハクアには分かった。
同じものが通ったあと。
同じ身体から残された匂い。
そして今日。
その匂いが目の前に立っていた。
銀色の人。
ユウマと向かい合い、声を出していた相手。
ハクアは横を歩くユウマを見上げる。
ユウマは歩きながら、時々後ろを気にしている。
「エルネアか」
聞いたばかりの音を口にしている。
「ちゃんと覚えた」
ハクアの耳がそちらへ向く。
エルネア。
ユウマが銀色の人へ向けて何度か使っていた音だった。
銀色の人も振り返り、ユウマへ別の音を返していた。
ユウマ。
それも何度も聞こえた。
ハクアにとって、ユウマはずっとユウマだったわけではない。
最初に覚えたのは名前ではなく、匂いだった。
土と汗。
煙。
水。
焼いた食べ物。
木。
少しずつ増えていった、拠点の匂い。
その中心にいるもの。
いつも声を出し、ハクアを呼ぶもの。
今はもう、「ハクア」と呼ぶ声もよく知っている。
「ハクア」
考えたそばから、声が落ちてきた。
顔を上げる。
「ちゃんといるな」
ユウマがこちらを見る。
ハクアはそのまま歩く。
「いや、別にいなくなるとは思ってないけど」
また声が続いた。
少し前まで銀色の人と話していた時も、ユウマは何度も声を出していた。
いつもより匂いが少し変わっていた。
怖がっている時とは違う。
獣を警戒している時とも違った。
身体は固くなっていたが、逃げようとも、向かっていこうともしていなかった。
銀色の人も同じだった。
ハクアには、身体から出る匂いの全部が分かるわけではない。
けれど、襲う前の獣は知っている。
獲物を狙って伏せるものも、縄張りへ踏み込まれて怒るものも知っている。
今日の銀色の人から、それは強く感じなかった。
ユウマも、腰の石へ手を伸ばさなかった。
だからハクアも動かなかった。
少し前へ出て。
見た。
嗅いだ。
それだけだった。
銀色の人がユウマの方へ急に近づいていれば、違ったかもしれない。
何かを振り上げていれば、もっと違った。
けれど、そうはならなかった。
二つの声が行き来していた。
途中からユウマの身体から固さが抜け、銀色の人の匂いも少しずつ変わった。
だから座った。
それで足りた。
今も、あの匂いが少しだけ鼻に残っている。
ハクアは歩みを緩めた。
「ん?」
ユウマが振り返る。
白い身体は止まり、後ろを見る。
来た道。
木々の向こう。
もう銀色の人の姿はない。
「どうした?」
ハクアは少しだけ戻った。
「ハクア?」
数歩。
さっき銀色の人が立っていたところまで戻るわけではない。
その必要はなかった。
風が通る場所で鼻先を低くし、落ち葉の間を嗅ぐ。
ある。
新しい匂い。
銀色の人がここへ来るまでにつけたものだ。
靴の下についた湿った土。
草。
水。
それらに重なって、身体そのものの匂いが残っている。
ハクアは鼻を少しだけ動かした。
同じ。
湿った場所で嗅いだもの。
草の近くで嗅いだもの。
細い沢の近くに残っていたもの。
今まで何度も、姿のないまま森に残されていた匂い。
その主が、さっきの銀色の人だった。
「何かあった?」
ユウマが近くまで戻ってくる。
ハクアは顔を上げた。
ユウマには分からない。
地面を見ているが、そこには目立った跡もない。
「また匂い?」
その言葉に耳が動く。
「エルネアの?」
ハクアはユウマを見る。
答える必要はなかった。
ユウマは少し待ってから、ハクアが見ていた森の奥へ目を向ける。
「……分かったならいいか」
そう言って、来た方向へ身体を戻した。
「帰ろう」
ハクアも鼻を地面から離す。
知っている匂いだった。
けれど、それだけだ。
あの銀色の人が何をするものなのか、ハクアは知らない。
ユウマと一緒にいるものなのかも知らない。
次に会った時も同じ匂いをしているだろう。
その時、今日と同じように立っているのか。
近づくのか。
離れるのか。
それもまだ分からない。
だから、今は決めない。
敵ではない。
そう決めるには早い。
味方でもない。
そう決めるものも、まだ何もない。
ただ知った。
あの匂いには姿がある。
銀色の髪をしている。
ユウマと言葉を交わす。
エルネアと呼ばれていた。
それだけ覚えておけばいい。
「ハクア、今度こそ行くぞ」
少し先からユウマの声がした。
ハクアは耳をそちらへ向ける。
森の奥に残る匂いから鼻先を離し、白い身体を反転させた。
追うのは銀色の人ではない。
いつもの匂いのする方へ走る。
ユウマの隣へ追いつくと、歩く速さを合わせた。
「確認できた?」
ハクアは前を見る。
「……まあ、いいか」
ユウマも前を向いた。
二つの足音が、森の中を戻っていく。
その後ろには、もう一つの匂いが薄く残っていた。
知らない匂いではない。
けれど、まだ近づいていい匂いとも決めていない。
今はただ、覚えている。
それでよかった。
章内閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ハクアがこれまで南西で何度か拾っていた未知の匂い。
その主が、銀髪の女性――エルネアだったことが、ハクアの中でもつながりました。
ただし、まだ敵でも味方でもありません。
ハクアは今まで通り、自分で確かめながら距離を見ています。




