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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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閑話 知っている匂い

銀色の髪をした相手と別れ、ユウマとハクアは帰り道へ。


けれどハクアにとって、あの相手との出会いは、まったく初めてのものではありませんでした。

 銀色の人が、木々の向こうへ消えていく。


 ハクアはすぐには歩き出さなかった。


 白い鼻先を少し持ち上げ、風を嗅ぐ。


 葉の匂い。


 湿った土。


 近くを流れる細い水。


 ユウマの身体と服についた土や煙の匂い。


 その中に、少しずつ遠ざかっていくものが一つあった。


「行ったな」


 ユウマの声がする。


 ハクアは銀色の人が消えた方へ鼻を向けたまま、もう一度息を吸った。


 知らない姿だった。


 銀色の長いものが頭から揺れ、ユウマとは違う匂いをまとっていた。


 けれど。


 その匂いそのものは、知らなかったものではない。


 ハクアの耳が小さく動く。


「俺たちも帰るか」


 ユウマが歩き始める。


 ハクアも少し遅れてその横へついた。


 けれど歩きながら、鼻はまだ森の奥に残った匂いを拾っている。


 前にもあった。


 もっと前。


 ユウマがこの辺りまで何度も歩くようになる前からではない。ユウマが少しずつ遠くへ進み、濡れた場所や細い水の流れを見つけるようになってから、その匂いは時々森の中に残っていた。


 湿った土の近く。


 草が多く生えている場所。


 水の流れるところ。


 いつも強く残っていたわけではない。


 古い時もあれば、新しい時もあり、風に消えかけていることもあった。


 初めて嗅いだ時、ハクアは足を止めた。


 獣とは違う。


 ユウマとも違う。


 森の中でよく知っている匂いのどれにも重ならなかった。


 だから嗅いだ。


 風の向こうを確かめ、地面へ鼻を寄せ、少しだけ耳を澄ませた。


 けれど、追わなかった。


 すぐ近くから敵意のある気配がしていたわけではない。


 腹を空かせた獣がこちらを狙っている時の匂いでもなければ、縄張りを守る大きな獣が残す強いものとも違った。


 知らない。


 ただ、それだけだった。


 だからハクアは、そこに匂いがあることだけを覚えた。


 ユウマは何度か気づいていた。


「何かいる?」


 そんな声をかけられたこともある。


 そのたび、ハクアは匂いのする方を確かめるだけで進まなかった。


 知らないものがいるからといって、すべてを見つける必要はない。


 ユウマが進むなら一緒に行く。


 ユウマが戻るなら戻る。


 それでよかった。


 やがて、その匂いは別の場所にも残るようになった。


 切られた草の近く。


 地面が掘られた場所。


 細い水を渡った先。


 岩の多い場所。


 同じ匂い。


 完全に同じではない。


 土が混じる時もあった。


 濡れた植物の匂いが強い時もあり、石や水の匂いに薄く紛れていることもあった。


 それでもハクアには分かった。


 同じものが通ったあと。


 同じ身体から残された匂い。


 そして今日。


 その匂いが目の前に立っていた。


 銀色の人。


 ユウマと向かい合い、声を出していた相手。


 ハクアは横を歩くユウマを見上げる。


 ユウマは歩きながら、時々後ろを気にしている。


「エルネアか」


 聞いたばかりの音を口にしている。


「ちゃんと覚えた」


 ハクアの耳がそちらへ向く。


 エルネア。


 ユウマが銀色の人へ向けて何度か使っていた音だった。


 銀色の人も振り返り、ユウマへ別の音を返していた。


 ユウマ。


 それも何度も聞こえた。


 ハクアにとって、ユウマはずっとユウマだったわけではない。


 最初に覚えたのは名前ではなく、匂いだった。


 土と汗。


 煙。


 水。


 焼いた食べ物。


 木。


 少しずつ増えていった、拠点の匂い。


 その中心にいるもの。


 いつも声を出し、ハクアを呼ぶもの。


 今はもう、「ハクア」と呼ぶ声もよく知っている。


「ハクア」


 考えたそばから、声が落ちてきた。


 顔を上げる。


「ちゃんといるな」


 ユウマがこちらを見る。


 ハクアはそのまま歩く。


「いや、別にいなくなるとは思ってないけど」


 また声が続いた。


 少し前まで銀色の人と話していた時も、ユウマは何度も声を出していた。


 いつもより匂いが少し変わっていた。


 怖がっている時とは違う。


 獣を警戒している時とも違った。


 身体は固くなっていたが、逃げようとも、向かっていこうともしていなかった。


 銀色の人も同じだった。


 ハクアには、身体から出る匂いの全部が分かるわけではない。


 けれど、襲う前の獣は知っている。


 獲物を狙って伏せるものも、縄張りへ踏み込まれて怒るものも知っている。


 今日の銀色の人から、それは強く感じなかった。


 ユウマも、腰の石へ手を伸ばさなかった。


 だからハクアも動かなかった。


 少し前へ出て。


 見た。


 嗅いだ。


 それだけだった。


 銀色の人がユウマの方へ急に近づいていれば、違ったかもしれない。


 何かを振り上げていれば、もっと違った。


 けれど、そうはならなかった。


 二つの声が行き来していた。


 途中からユウマの身体から固さが抜け、銀色の人の匂いも少しずつ変わった。


 だから座った。


 それで足りた。


 今も、あの匂いが少しだけ鼻に残っている。


 ハクアは歩みを緩めた。


「ん?」


 ユウマが振り返る。


 白い身体は止まり、後ろを見る。


 来た道。


 木々の向こう。


 もう銀色の人の姿はない。


「どうした?」


 ハクアは少しだけ戻った。


「ハクア?」


 数歩。


 さっき銀色の人が立っていたところまで戻るわけではない。


 その必要はなかった。


 風が通る場所で鼻先を低くし、落ち葉の間を嗅ぐ。


 ある。


 新しい匂い。


 銀色の人がここへ来るまでにつけたものだ。


 靴の下についた湿った土。


 草。


 水。


 それらに重なって、身体そのものの匂いが残っている。


 ハクアは鼻を少しだけ動かした。


 同じ。


 湿った場所で嗅いだもの。


 草の近くで嗅いだもの。


 細い沢の近くに残っていたもの。


 今まで何度も、姿のないまま森に残されていた匂い。


 その主が、さっきの銀色の人だった。


「何かあった?」


 ユウマが近くまで戻ってくる。


 ハクアは顔を上げた。


 ユウマには分からない。


 地面を見ているが、そこには目立った跡もない。


「また匂い?」


 その言葉に耳が動く。


「エルネアの?」


 ハクアはユウマを見る。


 答える必要はなかった。


 ユウマは少し待ってから、ハクアが見ていた森の奥へ目を向ける。


「……分かったならいいか」


 そう言って、来た方向へ身体を戻した。


「帰ろう」


 ハクアも鼻を地面から離す。


 知っている匂いだった。


 けれど、それだけだ。


 あの銀色の人が何をするものなのか、ハクアは知らない。


 ユウマと一緒にいるものなのかも知らない。


 次に会った時も同じ匂いをしているだろう。


 その時、今日と同じように立っているのか。


 近づくのか。


 離れるのか。


 それもまだ分からない。


 だから、今は決めない。


 敵ではない。


 そう決めるには早い。


 味方でもない。


 そう決めるものも、まだ何もない。


 ただ知った。


 あの匂いには姿がある。


 銀色の髪をしている。


 ユウマと言葉を交わす。


 エルネアと呼ばれていた。


 それだけ覚えておけばいい。


「ハクア、今度こそ行くぞ」


 少し先からユウマの声がした。


 ハクアは耳をそちらへ向ける。


 森の奥に残る匂いから鼻先を離し、白い身体を反転させた。


 追うのは銀色の人ではない。


 いつもの匂いのする方へ走る。


 ユウマの隣へ追いつくと、歩く速さを合わせた。


「確認できた?」


 ハクアは前を見る。


「……まあ、いいか」


 ユウマも前を向いた。


 二つの足音が、森の中を戻っていく。


 その後ろには、もう一つの匂いが薄く残っていた。


 知らない匂いではない。


 けれど、まだ近づいていい匂いとも決めていない。


 今はただ、覚えている。


 それでよかった。

章内閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


ハクアがこれまで南西で何度か拾っていた未知の匂い。


その主が、銀髪の女性――エルネアだったことが、ハクアの中でもつながりました。


ただし、まだ敵でも味方でもありません。


ハクアは今まで通り、自分で確かめながら距離を見ています。

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