第76話 エルネア
初めて、誰かへ伝えた自分の名前。
今度はその名前が、自分ではない誰かの声で返ってきます。
「ユウマ」
銀髪の女性が、確かめるように繰り返した。
自分ではない誰かの声で名前を呼ばれたのは、本当に久しぶりだった。
「…………」
返事をするだけなのに、少し遅れる。
女性がわずかに眉を上げた。
「違った?」
「いや、合ってる」
「ユウマ」
もう一度呼ばれる。
今度はさっきより自然で、確認というより本当に俺を呼んでいるように聞こえた。
「うん」
ようやく返事をすると、女性は小さく頷いた。
たったそれだけだった。
名前を聞かれて、答えて、呼ばれただけ。
それなのに、昨日まで森のどこかにいた銀色の人影が、急に自分と関わりのある相手になったような気がする。
「変な感じ」
「何が?」
「名前を呼ばれるの」
女性が少し首を傾げる。
「さっきも言ってたわね」
「三か月くらい呼ばれてなかったから」
「……本当にここに三か月いるの?」
「たぶん」
また少し間が空いた。
「その顔、やっぱり何か変なんだな」
「変というか……」
女性は言いかけて、周囲の森を見る。
「気になることはあるけど、今は名前の話でしょう?」
「ああ、そうだった」
さっき俺が話を逸らしたせいで、まだ聞いていないことがある。
「じゃあ、そっちは?」
「私?」
「名前」
今度は俺が聞く番だった。
女性は特に迷う様子もなく答えた。
「私はエルネア」
「エルネア」
聞いたまま繰り返す。
「そう」
「エルネア」
「二回言わなくても分かるでしょう?」
「いや、覚えようと思って」
「そんなに難しくないと思うけど」
「人の名前を覚えるのも久しぶりなんだよ」
「それも三か月ぶり?」
「たぶん」
エルネアの口元が少し動いた。
「また、たぶん」
「正確に数えてないから仕方ないだろ」
「別に責めてない」
「今ちょっと笑った?」
「少し」
「認めるんだ」
思わず笑う。
昨日、遠くから見た時には、こんなふうに話す相手だとは思わなかった。
もっと警戒されるか、何も話さないまま離れていくか。少なくとも、名前を聞かれて自分が何度も「たぶん」と答えることになるとは考えていなかった。
ハクアは少し前で座ったまま、俺たちを見ている。
「ハクア」
呼んでみると、白い耳が動いた。
「俺、今名前を知った」
ハクアはこちらを見る。
「エルネアだって」
「……それ、ハクアに説明してるの?」
「一応」
「分かるの?」
「たぶん」
エルネアが息を漏らした。
「今度は笑っただろ」
「少し」
「さっきと同じじゃないか」
「同じだから」
静かな返しなのに、妙に負けた気がする。
俺が黙ると、エルネアはまたハクアへ視線を向けた。
さっきまでの警戒だけではない。
何かを見る時の目が少し違う。
興味があるようにも見えたが、近づこうとはしなかった。
ハクアもその場から動かない。
互いに今の距離でいいらしい。
「そういえば」
エルネアの声で視線を戻す。
「何?」
「さっきから、少し見てるでしょう」
「え」
「私の顔」
「あ……」
ばれていた。
「ごめん。じろじろ見るつもりはなかったんだけど」
「怒ってはいない」
「ならよかった」
「何が気になるの?」
「何がって……」
聞かれて、改めてエルネアを見る。
昨日は遠くから銀色の髪しか分からなかった。
今は十数メートルほどの距離とはいえ、顔まで見える。
まず目につくのはやはり髪だった。
陽の当たり方によって白にも銀にも見える長い髪が、風のたびに肩の辺りで揺れている。
その間から見える目は、深い緑色だった。
濃い葉の色とは違う。
少し明るく、光が入ると透けるような色だ。
「髪」
「髪?」
「銀色なの、珍しいなって」
「そう?」
「俺の知ってる中では」
エルネアは自分の髪を一房つまんで見る。
「私はずっとこれだけど」
「そりゃそうだろ」
「なら、どう答えればいいの?」
「いや、答えを求めてたわけじゃない」
そう言うと、エルネアが少しだけ目を細めた。
「他には?」
「目」
「目?」
「緑色なんだなって」
「見れば分かるでしょう?」
「……そうなんだけど」
何だろう。
さっきから俺だけ妙なことを言っている気がする。
「あと」
言いながら視線がその横へ動く。
髪の隙間から出ている耳。
最初は角度のせいかと思ったが、違う。
俺の耳より明らかに細く、先に向かって長い。
さらに、こめかみの辺りには銀色の細い模様があった。
髪の色と重なって見落としそうになるが、皮膚の上に細い線が何本も伸び、葉の筋のように広がっている。
「…………」
「今度は何?」
「耳」
エルネアの表情が止まった。
「あ」
言った後で、聞き方が悪かった気がした。
「いや、耳があるのは分かってる」
「ないとは思ってないでしょうね」
「そうじゃなくて、細長いなって」
「…………」
「今のも変だった?」
「少し」
「やっぱり」
エルネアは自分の耳へ手を触れた。
別に隠す様子はない。
「ユウマは短いわね」
「俺?」
自分の耳に触る。
「普通じゃない?」
「私から見れば短い」
「そう言われると、そっちから見たら俺の方が変なのか」
「変とは言ってない」
「俺は言ったみたいになってるけど」
「細長いって言っただけでしょう?」
「……確かに」
言われてみればそうだ。
エルネアの耳が長い。
俺の耳が短い。
どちらを基準にするかで見え方は変わる。
「じゃあ、変ではない」
「急に訂正するのね」
「失礼だったかなと思って」
「気にしてない」
それならいい。
少し安心して、もう一度顔を見る。
今度はこめかみの模様に目が止まった。
近くで見ると、銀色の細い線は一つではない。中心から何本かに分かれ、髪の生え際の近くへ伸びている。
描いたものなのか。
生まれつきなのか。
それとも別の何かなのか。
「…………」
「まだある?」
「模様」
エルネアがこめかみへ指を添える。
「これ?」
「うん」
「気になる?」
「かなり」
「そう」
「でも、今日は聞かない」
エルネアの指が止まった。
「どうして?」
「聞きたいことが多すぎるから」
「聞けばいいのに」
「全部?」
「答えられることなら」
「じゃあ、どこから来たのか、何してるのか、何でこの森にいるのか、その耳は何なのか、その模様は何なのか――」
「多い」
「だろ?」
「一度に聞く必要はないでしょう」
「だから今日は聞かないって言ったんだけど」
「一つくらいならいいんじゃない?」
「それだと次も聞きたくなる」
「…………」
エルネアがこちらを見る。
「自分で止められないの?」
「気になったら、たぶん」
「たぶん」
「そこ拾わなくていいだろ」
また口元が少し緩む。
その表情を見ていると、昨日遠くから見た時に感じていた得体の知れなさはかなり薄れていた。
もちろん、分からないことは多い。
むしろ名前を知った分、知りたいことは増えた。
エルネア。
銀色の髪。
緑色の目。
細長い耳。
こめかみの銀色の模様。
金属の小さなナイフ。
肩から下げている鞄。
それだけ見ても、俺とはかなり違う。
同じ人間なのか、と聞きかける。
「…………」
やめた。
「何?」
「いや、今一個聞こうとしてやめた」
「さっきから、それ多いわね」
「気になることが増えるんだよ」
「一つ聞けば?」
「今日は名前を知ったから、それでいい」
エルネアが少し意外そうな顔をする。
「それだけで?」
「昨日までは名前も知らなかったし」
木々の向こうに見えた銀色。
その前は足跡。
さらに前は、綺麗に切られた草や地面の跡。
少しずつ近づいて、今ようやく名前を知った。
急いで全部知らなくてもいい。
「エルネア」
「何?」
名前を呼んでみる。
すぐに返事が来た。
「……呼べるな」
「名前だから」
「分かってる」
「じゃあ、どうして確認したの?」
「さっき俺も呼ばれたから、こっちも一回呼んでみたくなった」
「そう」
「何その反応」
「どう反応すればいいの?」
「それは分からないけど」
エルネアは少しだけ困ったように息を吐いた。
その時、木々の間を抜けた風が少し強くなり、銀色の髪が大きく揺れた。
エルネアが顔の横へ流れた髪を片手で押さえ、そのまま空を見上げる。
「そろそろ戻った方がいいかも」
つられて上を見る。
木々の隙間から見える空は、まだ明るい。ただ、ここから拠点まで戻る時間を考えれば、のんびりしすぎるのもよくなかった。
「俺も帰るか」
「ユウマはこっち?」
エルネアが俺たちの来た方向を見る。
「うん。ずっと戻った方」
「ずっと?」
「歩くけど、帰れるくらい」
「……三か月いるんだものね」
「またその顔した」
「何も言ってない」
「何か考えてる」
「少し」
「やっぱり」
エルネアは肩から下げていた鞄の位置を直す。
俺も持ってきたものを確認した。
本当は細沢で使えそうな石を見るつもりだったのに、ほとんど何もしていない。
「あ」
「どうしたの?」
「石」
「石?」
「今日、石見に来たんだった」
「忘れてたの?」
「完全に」
ハクアがこちらを見る。
「そんな顔するなよ」
「どんな顔?」
「たぶん呆れてる」
「また、たぶん」
「もういいだろ、それ」
エルネアが小さく笑った。
今日は目的を果たせなかったが、暗くなるまでここに残ってまで探すほど急ぎでもない。また来ればいい。
「じゃあ、帰る」
「うん」
エルネアは俺たちとは少し違う方向へ身体を向けた。
そのまま歩き出すのかと思ったが、一度こちらを見る。
「ユウマ」
「ん?」
また名前を呼ばれた。
今度はさっきほど変な感じはしなかった。
「何?」
「……別に。呼んでみただけ」
「さっき俺がやったやつ?」
「たぶん」
「仕返しだろ、それ」
「別に」
否定しているのに、口元は少し笑っている。
「じゃあ、エルネア」
「何?」
「また、この辺で会ったら」
一度言葉を切る。
約束をしたわけではない。
どちらがいつここへ来るのかも分からない。
それでも、昨日よりはもう一度会うことを想像しやすかった。
「また話そう」
エルネアは少しだけ目を細めてから頷いた。
「そうね。また会えたら」
「うん」
それ以上は言わず、互いに別の方向へ歩き出す。
数歩進んだところで振り返ると、銀色の髪がまだ木々の間に見えていた。
エルネアも一度だけこちらを見て、それから森の奥へ向き直る。
やがて銀色は幹の向こうへ隠れた。
「行ったな」
ハクアが鼻先を少し上げる。
「俺たちも帰るか」
白い身体が歩き出す。
俺もその後を追った。
昨日までは、森の中にいる誰かだった。
今日は違う。
俺はユウマ。
向こうはエルネア。
まだ何者なのかは分からない。
それでも、もう名前を知っている相手だった。
第76話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
銀髪の女性の名前は「エルネア」。
互いに名前を知り、初めて名前で呼び合いました。
ユウマは彼女の細長い耳や銀色の模様にも気付きましたが、今はまだ問いかけず、一つずつ相手を知っていくことにします。




