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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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第75話 名前を聞かれた

森の中で初めて交わした言葉。


まだ互いのことを何も知らない二人ですが、銀髪の女性から一つだけ質問が向けられます。


 銀色の髪が風に揺れる。


 女性は少しだけ迷うように間を置いてから、口を開いた。


「あなた、名前は?」


「…………」


 予想していなかった。


 もっと別のことを聞かれると思っていた。


 どこから来たのか。


 なぜ森にいるのか。


 ここで何をしているのか。


 あるいは、隣にいるハクアのことかもしれないとも思っていた。


 それなのに、聞かれたのは名前だった。


「名前……」


「そう」


 女性が頷く。


「呼び方がないと、話しにくいから」


「ああ」


 言われてみれば、その通りだ。


 俺もさっきから頭の中ではずっと、この人のことを銀色の髪の女性とか、あの人とか、そんな曖昧な呼び方しかしていない。


 名前を知っていた方が話しやすい。


 それだけの質問だ。


 何も難しくない。


 なのに、すぐに答えが出なかった。


「…………」


 女性が少し首を傾げる。


「言いたくない?」


「いや、そういうわけじゃない」


 慌てて首を振った。


「ちょっと……久しぶりだったから」


「久しぶり?」


「名前を聞かれるのが」


 自分で言ってから、妙な答えだと思った。


 女性も同じだったらしく、ほんの少し眉が動く。


「そんなに?」


「たぶん、かなり」


「たぶん?」


「日にちをちゃんと数えてるわけじゃないから」


 数えようとした時期はある。


 木へ印をつけたり、何日くらい経ったかを考えたりもしたけれど、毎日正確に記録しているわけではない。


 雨の日もあれば、朝から晩まで作業していた日もある。ハクアと出会ってからは、一人の時とはまた時間の感じ方も変わった。


「二か月……いや、もう少し経ってるか」


 指を折って考えようとして、途中でやめる。


「三か月くらい?」


「…………」


 今度は女性が黙った。


「何?」


「三か月?」


「たぶん」


「ここに?」


 女性の視線が周囲へ向く。


 木々と、その向こうの湿地。


 少し離れたところから細沢の水音も聞こえている。


「うん」


「…………」


「何か変?」


 尋ねると、女性はすぐには答えなかった。


 こちらを見て、それからハクアを見て、また森へ視線を移す。


「……それは、また今度聞く」


「また今度?」


「今聞くと、名前の話からかなり離れそうだから」


「ああ」


 確かに、もう離れかけている。


「それもそうか」


 思わず笑うと、女性もわずかに息を吐いた。


 話が最初へ戻る。


 名前。


 俺の名前。


「…………」


 答えればいいだけなのに、また少し間が空いた。


 名前を忘れていたわけではない。


 自分が誰だったのかを忘れたこともない。


 目を覚ました場所が知らない森で、着ているもの以外ほとんど何もなくても、それだけは最初から変わらず残っていた。


 でも、この森で名前が必要になることはなかった。


 水を見つけても。


 火を起こしても。


 雨をしのぐ場所を作っても。


 食べられるものを探しても。


 自分の名前を口にする必要はない。


 呼ぶ相手がいなかったからだ。


 ハクアと出会ってからも同じだった。


「…………」


 隣を見る。


 ハクアは少し前に座ったまま、こちらと銀髪の女性を交互に見ている。


「ハクアには名前つけたんだけどな」


「この子?」


「うん」


 女性の視線が白い身体へ向く。


「ハクア」


 俺が呼ぶと、白い耳がこちらへ動いた。


「ほら」


「……分かってるの?」


「たぶん」


「たぶんが多いわね」


「あ」


 そうかもしれない。


「でも呼ぶと見るし、たぶん自分のことだって分かってると思う」


 ハクアがじっとこちらを見ている。


「今の言い方だと自信なくなるな」


 もう一度呼んでみる。


「ハクア」


 白い顔が少し上がった。


「ほら」


「今はあなたが二回も呼んだからじゃない?」


「それ言われると困る」


 女性の口元が少し緩んだ。


「名前は、あなたがつけたの?」


「そう。出会った時は分からなかったから」


「元の名前が?」


「うん。そもそも名前があったのかも知らないけど」


 ハクアがどこから来たのか。


 以前どんな場所にいたのか。


 親や仲間がいたのか。


 それは今も分からない。


 だから、一緒にいる時に呼べるように自分で名前をつけた。


「白かったから、ハクア」


「白かったから?」


「……そんなに変?」


「変ではないけど」


 女性がハクアを見る。


 確かに白い、と確かめるような顔だった。


「もっと色々考えた方がよかったかな」


「本人が嫌がってないならいいんじゃない?」


「本人」


 その言い方が少し面白かった。


「そうだな」


 ハクアを見る。


「嫌だった?」


 白い顔がこちらを向いたまま止まる。


「分からないか」


「聞き方の問題じゃない?」


「じゃあどう聞けばいい?」


「私に聞かれても困る」


「それもそうだ」


 ほんの少し前まで、互いに十数メートル離れて黙っていたとは思えない。


 まだ距離はある。


 女性も近づいてはいないし、俺もその場からほとんど動いていない。


 それでも、話をするだけで最初の緊張はかなり薄れていた。


 腰にある金属のナイフはまだ見える。


 俺の石の刃も向こうから見えているだろう。


 互いに武器を持っていることは変わらない。


 けれど、少なくとも今はそれより会話の方を意識していた。


「それで」


「ん?」


「あなたの名前」


「あ」


 忘れていた。


 女性が少し呆れたようにこちらを見る。


「ハクアの名前しか聞いてない」


「そうだった」


「あなたに聞いたのに」


「ごめん」


 何をしているんだろう。


 名前を聞かれてから、ハクアの名前の由来まで説明している。


「逃げてるわけじゃないんだけど」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「……さっきの仕返し?」


「別に」


 女性の表情はほとんど変わらない。


 でも、わずかに口元が動いている。


「絶対ちょっと面白がってるだろ」


「名前」


「あ、はい」


 また戻された。


 今度こそ答える。


 そう思ったところで、一度息を吸う。


「…………」


 変な感じだった。


 名前を言うだけだ。


 昔なら、何度もやったことのある行為だったはずなのに、ひどく久しぶりに感じる。


 いや。


 実際、久しぶりなのだ。


 この森へ来てから、自分の名前を誰かへ伝えたことは一度もない。


 ハクアには名前をつけた。


 朝起きれば呼び、森を歩けば声をかけ、帰ればまた呼ぶ。


 その名前はもう、日常の中へすっかり馴染んでいる。


 でも、自分の名前は違った。


 誰にも呼ばれない。


 誰にも聞かれない。


 わざわざ一人で口にすることもない。


 持っているのに使わない道具のように、ずっと自分の中だけに残っていた。


「…………」


 女性は急かさなかった。


 少し離れた場所に立ったまま、こちらを見ている。


 沢の音が聞こえる。


 細い水の流れが石へぶつかる音。


 葉が揺れ、どこかで鳥が短く鳴いた。


 いつも聞いている森の音だ。


 その中に、初めて自分以外の人の声がある。


 さっき「こんにちは」と返してきた声。


 俺へ質問した声。


 名前を聞いた声。


 ようやく実感した。


 今、俺は誰かと話している。


 ハクアに一方的に声をかけるのとは違う。


 言葉を投げれば返ってきて、相手が聞けばこちらが答える。


 それだけのことが、ここへ来てから一度もなかった。


「……久しぶりだな」


「何が?」


「いや」


 首を振る。


「今度は本当に何でもない」


「そう?」


「うん」


 そこで一度言葉を切る。


 名前そのものは、何も変わっていない。


 森へ来る前から持っていた名前。


 この森で一人だった時も、ハクアと暮らし始めてからも、自分が自分である限り変わらなかったものだ。


 それを、初めてこの世界の誰かへ伝える。


「……ユウマ」


 口にすると、自分の声なのに妙に耳へ残った。


 女性が静かにこちらを見ている。


 俺も目を逸らさない。


「俺の名前」


 もう一度、今度は少し自然に言う。


「ユウマ」


 風が木々を抜け、銀色の髪を揺らした。


 名前を言っただけで何かが大きく変わるわけではない。


 相手が何者なのかも、なぜこの森にいるのかも、まだ何一つ知らない。


 それでも、今まで自分の中にしかなかったものを一つ、目の前の誰かへ渡した。


 俺の名前。


 ユウマ。

第75話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


銀髪の女性から聞かれたのは、自分の名前。


森へ来てから初めて、主人公は誰かにその名を伝えました。


「ユウマ」。


これまで自分の中だけにあった名前が、初めて他者へ届きます。

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